第6話 オークとしての道
こうして私は、ほとんど言語も通じぬオークの集落で、母として、いや一人の“戦う意志を持つ者”として、その命を繋いでいくしかなかった。ほんの数日前まで“便利な主婦”として、誰に感謝されるでもなく擦り切れていく毎日を送っていた私――。だが、異世界の地でオークたちの血の滲むような現実を目の当たりにしたとき、“守るもの”がなかったわけではないと気づかされたのだ。誰かを助け、誰かに寄り添いたいという願いは、確かにずっと私の内に眠っていた。形は変われど、その思いは何ら失われていない。そして今は、その願いが命を救う“回復魔法”という形で花開こうとしている。
辺りを包む朝の冷たい風に身を預けながら、私はゆっくり目を閉じる。変わり果てた醜い姿であろうと、もう私には進むしか道がない。日本に戻れる可能性がどれほどあるか、旦那や子どもたちが私を捜しているのか――そんなものは、今の私には想像すらできない。けれど、後から知ることになる。いつか、この世界で繰り広げられる“冒険者ギルド”と“魔物”との凄絶な戦いの渦中に、私が否応なしに巻き込まれていくことを。そしてその背後には、想像を絶する陰謀と“あの人”の姿が潜んでいることを……。
私の異世界生活は、ただの‘逃避’では終わらない。日常が崩壊した先に、もう一つの“家族”とも呼べる存在と出会い、血を流しながら、それでもまた歩み出していかねばならないのだ。大きく息を吸い込み、私は荒い息を落ち着ける。――覚悟を決めなければ。この獣臭い集落で生き残るために、私に何ができるのか。そこから先は、もう誰一人教えてくれない。ならば、自分の手で見つけるしかない。それが、醜いオークとなった私に与えられた最後の希望なのかもしれない。
東の空にかすかに浮かぶ朝陽が、森の梢をわずかに照らす。長い闇夜が明け、陰鬱な世界に淡い赤みが差し込む。どんなに絶望していても、朝は確実にやって来る。あるいは、あの家族のもとにも同じ朝陽が昇っているだろうか。そんなことをふと考えながら、私は心の中で“さよなら”、とそっと呟いた。――失った時間は二度と戻らない。ごめんね、ともありがとう、とも伝えられず消えてしまったあの日常に、心のどこかで別れを告げる。
けれど、それは本当の終わりではなかった。人間界の冒険者たち、そして絶大な力を誇る“冒険者ギルド”が、魔物を相手にどんな非道を行っているのか。この森のオークたちはどれほどの悲しみと苦しみを背負ってきたのか。まだ何一つ、本当のことを知らないままの私に、この世界の甚大な“闇”が忍び寄ろうとしている。――今はまだ、私にはそれを知る由もないのだ。
そうして、崩壊したはずの日常はさらに遠のき、代わりに紡がれるかのように始まった“オークの私”の物語が、ゆっくりと発車し始める。泣き言を言う暇なんて、きっとない。どんな強敵が来ようと、どんな運命に翻弄されようと、私はやるしかない。かつて家庭を守るために四苦八苦していた私の忍耐強さと、長年培ってきた“母の力”を、今こそここで発揮する時が来る。私は荒れ地の風を全身で受けとめながら、強く拳を握りしめた。
――そして新たな一歩は、まさにこの瞬間から始まる。絶望から立ち上がり、限界を超えた向こう側に、私は何を見つけるのだろう。
不吉な赤い朝陽の下で、オークの集落に血と火の匂いがわずかに残るまま、私の意識はまた、あの“帰りたい”という消えかけの感情を奥底にしまいこんでいった。今はただ、生き延びるために――。
以上で第一章の後半となります。初投稿のため手探りですがぼちぼち投稿していきます。