第5話 母なる力の目覚め
こんなことができるなんて、まるで“奇跡”に思える。私には魔力なんて全然なじめないし、そもそもオークになってまだ半日も経っていない。ただ“とにかく救いたい”と願っただけ。本能的に、母としての強い保護欲が働いたのかもしれない。
「グラ……グオッ……」
そのオークは私の腕に触れ、信じられないものを見たような表情をしていた。どうやら“ありがとう”と言いたげだったが、その直後に私は槍使いから横殴りの一撃を食らう。槍の柄で脇腹を激しく打たれ、思わずうめき声が漏れた。体が大きいぶん、痛覚も強烈だ。地面に転がったまま、私は咳き込んでうずくまる。シンプルに力ずくでねじ伏せられそうだった。
「チッ……なんだか訳の分からんオークだが、やることは同じだ!」
その男が再び槍を振りかざしたとき、周囲のオークたちが一斉に雄叫びをあげる。私が回復魔法を使ったのを見て、鼓舞されたのかもしれない。もしくは仲間の傷が治ったことで反撃の余地を見いだしたのか。棒や斧を手にしたオークたちが、まとまった動きで人間の一団に向かっていった。女の魔法使いが火炎の呪文を唱えてウワッと放つが、思いのほか威力が分散して樹木をわずかに焦がすだけに留まる。そしてオークのこん棒がめり込むように戦士の背を打ちつけ、戦士がのけぞって倒れ込んだ。
「ぐっ……おい、下がれ!思ったより手強いぞ!」
槍使いが声を荒らげる。だがそこへ回復したオークが突進し、彼らは一瞬で戦線を乱してしまう。冒険者たちはそれほど大人数ではなく、かつ個々の連携がうまくいっていないようだ。どうやら報酬目当てに急ぎで突撃してきただけの下級パーティなのだろう。自信満々で来たものの、予想外の抵抗に戸惑っているのが見て取れた。
私は脇腹の痛みをこらえながら立ち上がり、何とかもう一度回復魔法を試してみようと手をかざす。今度は、怪我を負った別のオークに向けて。最初ほどの強い光は出ないが、じわりと癒しの力が伝わっていくのを感じた。――なんだろう、この感覚。私のなかに眠っていた“母性”とか“面倒見の良さ”が魔力という形で発露しているのか。自分でも理解できないが、とにかく“救える”のだ。だったら救うしかない。
「くそっ、撤退だ!危険が大きすぎる」
槍使いが顔をしかめて退路を確保しようと指示を出す。魔法使いの女やもう一人の斧使いも、その合図に従いはじめた。彼らは散々オークたちを襲撃しておきながら、形勢不利と見るやあっさりと撤退を図るのだ。何という勝手さに、私は怒りよりも呆れがこみ上げる。怪我を負ったオークたちは倒れ込みながらも、息絶え絶えに人間の背中を睨みつけていた。
薄暗い森の闇に紛れていく人間たちを見送ると、残されたオークたちは誰もが荒い息をつき、私のほうへ何やら声をかけ始める。言語こそわからないものの、どうやら私が回復魔法で仲間を助けたことに驚き、同時に感謝しているようだ。先ほど槍で突かれた自分の傷もまあまあ痛むが、そんなことより皆の安堵したような表情が胸にしみた。
夜が明けるまでのあいだ、私たちは警戒態勢を解かず、再び人間が襲ってこないかを見張り続けた。私も寄せ集めた干し草を敷いて横になりながらも、まったく眠れないまま朝を迎える。途中、やって来た雌のオークが傷ついた私に薬草らしきものをすりつぶしたペーストを塗ってくれた。どこか独特の苦い匂いがして、けれど染みるような痛みは不思議と和らぐ。彼女は優しく言葉をかけてくれるが、私には何を言っているのかはわからない。ただ、表情を見る限りは心配してくれているのだと伝わった。
結果として、集落の被害は軽傷者が数名、物資や家畜が少し奪われた程度で済んだ。それでもこれが日中であれば、もっと大きな衝突になっていたかもしれない。束で押し寄せてくる冒険者に比べ、オークたちの装備や人数は圧倒的に不利だ。子どもや傷病者をかばいながら戦うことになるのだから、尚更だ。にもかかわらず、彼らは戦い続けなければいけない。――それがこの世界で“魔物”として生きるということなのだろうか。私はこの時点で初めて、この世界の厳しさを身を以て知った。
翌朝、薄紅色の光が森に差し込む頃、私はいつの間にかうとうとしていたらしい。気がつくと身体に重い疲労が溜まっているが、あの寒さや痛みは感じにくくなっていた。雌のオークや子どもたちが焚き火の周りに集まって雑談している(ように見える)姿を眺めながら、私はそっと体を起こす。そして、ゆっくりと背を伸ばし、軽く深呼吸をする。――ここが現実。もう逃げられないのだ。
集落のリーダー格と思しき雄のオークが、私を見つけて疲れ切った顔のまま近づいてくる。彼の名前はわからない。けれど、垂れた耳に傷跡があり、大きなこん棒を背負っているのが特徴的だ。彼は真剣な眼差しで何か言いたげなのだが、言葉が通じない。仕方なくこちらも身振りで“ありがとう”を伝えようとする。すると、彼は戸惑ったように数秒間間をおき、ふいに私の腕をとって力強く握りしめた。――そこには言葉がなくても伝わる信頼の重みみたいなものがあった。
「……グル、グフッ……グラ」
彼はそうつぶやき、私に何か飲み物の入った小さな皮袋を差し出す。少し薬草くさい匂いがするが、私はひと口飲んでみた。やはり苦いけれど、体がスッと温まるような気がした。彼はにっこりと微笑むと、集落の中央を指し、さらにその先の森の出口のほうを示した。まるで「危険だから外に出るな。ここにいていい」と言っているようにも見える。
正直、どうすればいいのかわからない。家族のもとへ帰りたい――気持ちはあるのに、その方法がまるで見えないのだ。思わず落ち込みそうになった私の肩を、子どもが「ググッ」と言いながらつんつんと突く。幼いオークの瞳が好奇心に満ちていて、傷ついた私を覗き込んでくる。「もう大丈夫なのか?」とでも言っているのだろう。私はぎこちなく笑顔を返すと、幼いオークは照れたように離れてしまった。
――こうしてみると、私が育てた人間の子どもたちと大差ない気がしてくる。好き勝手に私を邪険に扱っていたあの子たちも、本心から私を嫌っているわけじゃなかった……はず。本当にどうでもいいのであれば、会話すらしなかったろう。多少生意気な口をききながらも、母親をどこか頼りにしていた。そう願いたい。今となっては確認のしようもないけれど。
再び日が昇り始める。戦いの痕跡が残る集落の雰囲気は沈鬱で、あちこちに血痕がこびりつき、物が壊れたまま放置されている。ただ、このままでは危ないし、不安も大きい。きっと、どこかでまた人間の冒険者が来るだろう。ここにいる以上、同じ苦しみを繰り返すかもしれない。それでも、私はこの世界に放り出され、“オーク”として目を覚ました。それならば、せめて私に何ができるか考えなくてはならない。
一つだけ確かなのは、私には“回復魔法”の才能があるということだ。今のところ、何の理屈もわからずに発動したが、人間には奇妙に映るほどの力であることは確かだ。もしこの力を使いこなせれば、仲間を――私を受け入れてくれたオークたちを救えるかもしれない。この世界で血塗られた争いを少しでも減らせるなら、私がいる意味もあるだろう。
「グル……グラ、グッ?」
隣にいた雌オークが顔を寄せて、首をかしげる。どうやら私がひどく難しいことを考えているように見えたのかもしれない。私の胸中など察することはできないだろうが、何かを苛立ち紛れに思い悩んでいるのは伝わるはず。私は「ううん、大丈夫」と、つい日本語で答えてしまう。それでも彼女は気づかないまま、微笑みを浮かべ、私の肩をそっと叩いた。
――こんな優しい仲間をまた奪われるわけにはいかない。私は暗い決意を固めながら、荒れ果てた森の景色を見渡すのだった。ここがどんな世界で、なぜ私がオークになってしまったのかは依然わからない。だが次の“不意打ち”に備えるためにも、“助けを求めるのではなく私自身が守る側に立たなければ”という思いが、胸の奥で膨らんでいく。




