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第43話 助け

 周囲では兵士同士の移動が激しくなり、ちらちらと森の向こうから新手の物音が聞こえる。まだ増援が来るのか? それとも別の何か――とにかく血の匂いと混乱が渦巻く中、夫の鋭い一撃が私を狙って迫る。


 私は咄嗟に身をひねってかわす。齧りつくように反撃しようとしたが、うまく体がついていかない。膝をついた瞬間、夫のブーツが私の胸元を蹴り上げる。鈍い痛みが駆け巡り、地面を転がった。視界がちらつき、息が止まりそうになる。骨が折れたかもしれない。けれど、倒れたままでいるわけにはいかない。仲間のオークたちの絶望的な声が耳に届く限り、私は立たなくては。


「グフッ……ガァッ……!」


 助けを呼ぶオークの声。私の呼吸は浅く、呼び起こせる魔力も少ない。でも、傷ついた仲間を放置はできない。回復魔法を打てるのは私しかいないのだ。何とか体を起こし、必死に呼吸を整える。半ば朦朧とした頭で、術式を思い浮かべると、指先に僅かな緑の光が宿り――その光が消えるよりも早く、夫が私の眼前に迫る。


「終わりだ、オークめ」


 夫がそう呟くや否や、私は恐怖と苦しみのあまり咄嗟に両腕を交差させ、その剣撃を受けようとする。死を覚悟した瞬間――


 ガギィンッ――! 金属音が鋭く響き、火花が散った。


 信じられないことに、夫の剣を別の何かが受け止めていた。それは、先ほど女兵士にひれ伏していたはずのギルド兵……ではない。見ると、妙に異質な気配を放つ剣を持った、誰か……。顔は布で覆われているが、体格は並外れて大柄。ギルド兵とは違う装備を身につけている。まさか、モンスターの仲間でも人間でもない。混乱する私の目に、その布切れには日本語のような文字が書かれているのが、一瞬だけ映った現代の文字?


「何者だ……?」


 夫が苛立ちの声を上げる。一方、その謎の人物は答える素振りも見せず、夫の剣を弾き飛ばすように押し返した。跳ね返された夫はわずかに後ろへステップを踏む。周囲の兵士たちも驚いたのか、戦闘の手を止めて一斉に注視している。


 この混乱に乗じて、私は息も絶え絶えの仲間のオークをかき抱き、必死に回復魔法を振り絞る。どうにか命だけでも繋ぎたい。その一方で、目の前には夫と謎の人物が対峙している。いつ斬り合いが起きてもおかしくないが、その人物はいまだに何も言わない。ただ、夫の存在を厳かに睨んでいるだけだ。


 まさか、ここで何らかの救いが訪れるのか。それとも、さらなる混沌が始まろうとしているのか。森の闇が深まる中、兵士やオークたちの息遣いが重なり合い、世界のすべてが殺気と絶望に満ち始める。この奇妙な空気のまま、まるで幕間のように一瞬だけ静寂が訪れた。


 だが、それは嵐の前の静けさにすぎない。謎の人物が夫と何らかの言葉を交わし、背後の兵士がザワザワとざめき立つのを感じる。私は、再び這うようにして立ち上がり、仲間のオークの肩を借りつつこの異様な光景を見守るしかない。夫は私を見向きもしない。今の標的は、その得体の知れない来訪者に向けられている。


「こんなところに余計な邪魔が入るとは……。おい、お前、もしや“あいつ”の差し金か?」


 夫の口ぶりからすると、ギルド内部には夫以外にも何か暗躍する存在があるらしい。あるいは、別の現代人が関わっているのかもしれない。わけのわからない思惑が渦巻くこの世界で、私はただ、オークたちを守りたい一心でここにいるにすぎないというのに……。


 謎の人物は答えない。代わりに、夫の足元に向かって何かを投げつけた。それは金属の破片のようだったが、近くに落ちたそれを見た夫の顔色が変わるのがわかった。私にはよくわからないが、きっと何かの暗号か、ギルドの機密を示す証拠品か。いずれにせよ、夫があれほど動揺するのは尋常ではない。


「貴様……どこでそれを……!いや、まさか――くっ、ここで手間取っている場合ではないというのに……!」


 夫は吐き捨てるように言うと、背後にいる兵士に指示を飛ばした。「全軍、いったん撤退しろ!このオークどもの掃討は後回しだ!」。兵士たちは困惑の表情を浮かべつつも、指揮官である夫の命令に従い、バラバラと後方へ退いていく。あんなに強気で襲いかかってきたのに、一転して撤退とは……。夫の狙いは何だろうか。


「お前たち、今日のところは見逃してやる。だが、スタンピードが完全に起こる時まで、もう長くはない。せいぜい今のうちに慟哭しておくんだな……。フッ」


 夫は冷笑しながら馬に乗り直し、兵士たちと共に闇の彼方へ去っていった。その背中を見送るしかない私。あまりの唐突な展開に、言葉にならない虚脱感と、ほっとするような安堵が入り混じる。


 苦しげにうめく仲間のオークたちがまだいるし、失われた命も数えきれないほどだ。遠くまで続く血の跡と、破壊された木々や岩の残骸……。いっときの平穏を得たとはいえ、この先どうなるのかまったくわからない。ただ、明確なのは、ゆっくりと引いていくギルドの軍勢が、やがてさらに大規模な戦力を整え、改めてここを攻め潰すつもりだということ。


 そして、あの夫が“スタンピード”の要として暗躍しているということ。その裏には、まだ何か秘密があるのだろうか。私たちは一体、どうすれば……。気が遠くなりそうになる意識のなか、視界の隅で、先ほど夫と刃を交えた謎の人物が立ち去ろうとしているのを捉える。


「待って……!」


 思わず声を上げそうになるが、私の声はオークのもの。言葉にはならない歯がゆさに、唇を噛む。相手は振り返らず、するすると森の闇へ消えていった。まるで最初から存在しなかったかのように、音も痕跡も残さずに。


 残されたのは、血と絶望に包まれた森と、今にも息絶えようとしているオークたち――そして、空っぽになったような私自身だけ。けれど、ここで立ち止まってはいられない。私は再び、おぼつかない足取りで立ち上がる。まだ助けられる者がいるかもしれない。皆のために、回復魔法を施し、傷を負ったオークたちをせめて安全な場所へ移動させなくては。


 それは、日本にいた頃の家族を思い出すような行為だった。台所仕事と育児に追われながら、それでも家族が少しでも笑って暮らせるよう、ぼろぼろの身体で動き続けていたあの頃。そして今はそれが、この異世界でオークたちを守るための行動として生きている。――絶望や悲しみ、そして謎は深まるばかり。でも、私には歩みを止めることは許されない。もう後戻りはできないのだから。


 ――終わりの見えない暗闘が、これからいよいよ最高潮へと突入する。一筋の光さえ見つからない森で、私は仲間を支えながら、今後どう戦っていけばいいのかを必死に考えるしかなかった。


 夫との決着は、まだ先だ。『冒険者ギルド』の真の野望、その背後に渦巻く欲望が、いまだ影を落としている。血に濡れた夕闇の中で、私はただ強い意志を抱く――この身をオークとして受け入れた以上、守りたいもののために立ち向かうしかないのだ。いつかこの世界の醜悪な闇を打ち砕き、そして夫と呼んだ男との運命に決着をつける、その日まで。


 燃え盛るような痛みが全身を走る中、私は崩れ落ちた仲間に回復魔法を施す。想いはただ一つ――生き延びて、守り抜く。それが、いまの私が望む唯一の道だから。


 この禍々しい森に、もう一度血の雨が降るだろう。だが私は、倒れた仲間を抱きしめ、低く「グフッ……」と声を漏らす。その震え混じりの呻きが、かすかな光とともに、絶望の中に生きようとする私たちの意志を証明していた。


 夜風が吹き抜け、戦場の臭いをやわらかに攪拌する。その向こうで、夫が率いる軍勢と謎の人物が、どんな策謀を巡らせているのかはわからない。けれど、ここで諦めてしまえば、もう二度と手繰り寄せられない“家族”と呼べる絆を失う。同時に、“オークとしての新たな家族”も失ってしまう。私は小さくうなずき、気力を振りしぼる。苛烈で無慈悲な物語の最中に、わずかな希望を灯すため……この戦いから逃げるわけにはいかないのだ。


 闇へ消えた夫の背中を、遠く感じながらも――まだこれで終わりではない。次こそは、はっきりと対峙する時が来るだろう。私と夫、そしてこの世界を覆う狂乱のスタンピードの行方は、いよいよ終末へ向かって加速する。


 そう、母として、そしてオークとして――私は立ち向かう。この地獄の中でも、守り抜きたいものが確かにあるから。

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