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第42話 再会

 一体何があったのだろう。再び洞窟の外をうかがってみると、そこには――新たにやってきた別の集団の姿があった。先ほどまで私たちを追い詰めていた女兵士が、慌ててそちらに敬礼しているように見える。しかも、周りの兵たちも怪訝そうな表情のまま、一斉にひれ伏すかのように頭を下げていた。その中央に立つのは、一人の男性。目を覆うような仮面を外しながら、ゆっくりとこちらへ視線を向ける。


 その姿を見た瞬間、心臓が凍りつく――あれは、見間違えようのない顔……。


 どこか知的で落ち着いた雰囲気を持ち、ただならぬ威圧感を放つ精悍な容姿。けれど、その瞳にはかつての面影など少しも感じられない。暗い野心の色が宿り、唇には嘲りの笑みが浮かんでいる。信じたくなくても、信じざるを得ない。――目の前の男は、私が日本で夫として暮らしていた、あの人だ。


「……嘘、そんな……」


 頭の中にあの頃の記憶がよぎる。子どもたちがまだ幼かった頃、キャッチボールをして笑い合っていた夫の姿。家計の貧しさに焦り、私にパートを掛け持ちさせながらも、定年までにはローンを完済して――と語っていたあの姿。しかし、今そこにいるのは、まるで別人。血に飢えた魔物狩りの指揮官、狡猾に権力拡大を狙う冷徹な野心家のようにしか見えない。


 夫は女兵士から献上された何かの書類に目を通した後、「フン」と鼻で笑うと、低く響く声で周囲の兵に指示を出した。私には正確には聞き取れないが、少し離れた場所に配置した弓兵を前進させるような号令をかけているらしい。そして私たちの潜む洞窟に向かい、あからさまに挑発するような声を投げかけた。


「そこにいるのはわかっている。出てこい……いや、どうせオークどもは言葉を解さないか。どのみち皆殺しだが、抵抗する奴は即刻仕留めろ。面倒をかけるな」


 ざわめく兵士たち。夫の態度には容赦など微塵もない。私はただ息を呑むしかなかった。どうして――どうしてこんなところに夫がいるの?それも、ギルドの計画“スタンピード”を主導しているようなポジションで……。まさか、家族を捨てて、この世界へ飛ばされてきた後、こんな形で成功を掴むなんて、悪い冗談だ。


 呆然としているうちにも、外の兵士たちは洞窟の入り口を囲むように動き始めている。集中攻撃で岩壁を崩し、押しつぶす算段かもしれない。夫の冷たい視線が、その全てを眺め回しながら、まるでチェスの駒を配置するかのように指揮を執っている。


「……グ…グフッ!」


 仲間のオークが私の腕を掴み、訴えるように叫んだ。もちろん言葉にはならないが、「こんなところで死にたくない」「あなたの魔法で助けて」という思いが伝わってくる。私もこんな形で仲間を見捨てたくなんてない。もう二度と、大切な存在を私の手から離したくはないのだ。


 森の外では全軍が布陣し、照りつける夕陽から赤黒い影が伸びている。夫はその影の中心に立ち、嘲るようにこちらを見つめている気配がする。


「俺が来たからには、すべて一瞬で終わる……。無駄な足掻きはやめろ!」


 凍えた心が軋みながら悲鳴を上げる。だけど、もう迷っている暇はない。私は回復魔法だけでなく、オークとしての筋力と獰猛さを引き出し、今ここで一矢報いるしかないのだろうか。けれど相手は、私がかつて夫と呼んだ男。今も日本に残してきたはずの子どもたちの父親である存在だ。彼が敵として立ちふさがるなど、想像すらしていなかった。


 ――このまま逃げ回っていては、オークたちの犠牲は増えるばかり。それならば、正面突破するしかない。私は覚悟を決め、壁に立てかけていた仲間の棍棒のような武器を手に取る。もともと主婦だった私が、こんな殺伐とした武器を持つ日が来るなんて思いもしなかった。でも、お鍋の杓文字を振るってきた腕力だって、少しは活かせるかもしれない。


「グルル……ガフッ!」


 ほかのオークたちも私の決意を察したのか、武器を握りしめ、互いにうなずき合った。言葉はないが、確かに“意思”は共有できている。もうここで腹をくくるしかない。私は深呼吸をしてから、洞窟の外へ踏み出す準備を始める。誰のせいでもない。命を狙ってくる者には抗う。それが今の私たちの唯一の道だ。


 外に出ると、夫の軍勢が一斉にこちらを注視する。その先頭に立つ夫は、目を細めて私を見据え、まるで笑っているような表情を浮かべた。こんなときに、何という態度……。私はそこに既に「愛」など微塵も残されていないのを悟り、胸が酷く痛んだ。


「ほう……ただのオークにしては、少し違うようだな」


 夫がひとりごとのように呟く。もしかすると――いや、考えても仕方ないが、彼はまだ私の正体に気づいていないのかもしれない。私は灰色の肌に醜い外見のオークだ。過去の私の面影なんて認識できないだろう。それだけがせめてもの救いかもしれない。


 すると、夫は手の合図を送る。弓兵たちが弓を引き絞り、一斉に矢の雨を放とうとしているのがわかる。絶望的な数だ。私はとっさに地面に伏せ、仲間のオークたちとともに奇跡的に何本かの矢をかわしたものの、一部のオークは身体を貫かれ、凄まじい悲鳴を上げて地に伏した。それでも、今ここで立ち止まるわけにはいかない。


「グフッ……!」


 苦痛にのたうち回るオークを、私は咄嗟に抱き寄せながら回復魔法を施す。すると、その背後から斧を構えた人間の兵士が駆け寄ってくるのが見えた。私は必死に棍棒を振りかざし、カツンと甲冑に当てる。だが、どうにも力が及ばず、受け止めた衝撃で痛みが走る。


 兵士は舌打ちし、再度斧を振り下ろす。しかし、後方から別のオークが「グルッ……!」と一喝しながら飛びかかり、兵士を横から殴り飛ばした。優勢に思えたのも束の間、周囲からさらに複数の兵士が殺到する。もうこちらは一枚岩と呼べるほどの戦力はない。みんな限界だ。


「……ガフッ、ガフッ……!」


 誰の声かもわからない断末魔が、喉の奥で泡立つように消えていく。この侵略者たちを止める術はないのか。回復魔法だけでは、仲間を救いきれない。戦いは苛烈を極め、私の心はあまりの惨状に引き裂かれるようだった。


 そのとき、視線の端で動く何か。夫が馬から降り、真っ直ぐこちらへと歩み寄ってくるのが見えた。仮面を外した横顔……やはり間違いない。懐かしいはずの容姿なのに、その心は見知らぬ冷たさしか感じられない。


「――貴様が、この森のオークどもの頭か?」


 低く語りかけられたその声は、昔耳にしていた夫の声と確かに同じもの。しかし、そこには愛情のかけらもない。私は絶望的な気持ちを抱えつつ、何とか呼吸を整え、夫を直視した。相手は私をオークとしか認識していない。言葉なんて通じるはずもない。でも、ほんの一瞬、目と目が合ったとき、私の胸の奥に眠る“妻”としての感情が奇妙に疼く。


「ク……グフッ……!」


 声にならない呻きしか出せない。一方、夫はその姿に一瞬だけ眉をひそめた。もしかしたら、私の中に残るかすかな人間性――というより、何か違和感を察したのだろうか。彼は私に視線を注ぎながら、口の端をつり上げる。


「オークのくせに、どこか懐かしい気配を感じる……気のせいか?」


 唇に下卑た笑いを浮かべ、夫は剣の柄に手をかけた。その動作ひとつひとつが、一家を支えるために焦りを見せながらも、小市民的に生きていたあの男と重ならない。私の知る夫は、こんなに冷酷な人間ではなかったはずだ。それとも、私が知らなかっただけなのか?


 周囲の兵士たちは、戦闘を続けながらも夫の挙動を見守っている。私がどう動くかで、一気に殺される流れになるかもしれない。視界の端では、多くのオークたちが血を流し、まだ懸命に生きようともがいている。そんな悲劇を前にして、夫はまるで実験動物でも見つめるような眸でこっちを見ている。


 もしここで私が“妻”だと名乗ったところで、救済が訪れるとは思えない。むしろ嘲笑され、興味本位に切り裂かれるだけではないだろうか。私は何度も目を見開き、涙が出そうになるのを堪える。こんな現実、認めたくない、受け止めたくない。でも、もう逃げ場はない。私の目の前でうち捨てられていく仲間たちを、また見殺しにするわけにはいかない。


 回復魔法を使っているだけでは足りない。ここで戦わないと、私たちは滅びてしまう。今がその決断を迫られる時なのだろう。まるで家族のために節約や工夫をして生き抜いてきたあの日々の延長線――しかし、こんなのあまりにも異質だ。私は歯を食いしばり、夫の前に足を踏み出す。


「おや? 吠えてかかってくるか?」


 夫が剣を抜き放った。その瞬間、私の中の血が逆流したような感覚が走る。元の世界では感じたことのない殺意。だが、同時に“母”としての守りたい気持ちも膨れあがる。二つの感情がせめぎ合い、脳髄が熱くなるような錯覚に見舞われる。周囲でオークたちも「グフッ!」と声を上げている。私を守るためでもあり、共に攻撃しようとしているのかもしれない。


 ――その刹那、夫がこちらを突き刺すように剣を繰り出した。私はとっさに棍棒で受け止めるが、勢いに押されて体勢を崩す。鋭い痛みが走り、硬い地面へ背中から落ちた。そこへ容赦ない追撃が来る。斬撃が振り下ろされ、私は危ういところでそれを転がって回避。血と土が入り混じり、視界がぐちゃぐちゃにぼやける。


「グフッ……! ガァァッ!」


 仲間のオークが割って入るが、夫は冷静に剣を払って斬り捨てようとする。その一瞬、私は夫の背中ががら空きになったのを感じ、棍棒を目いっぱい振り上げた。かつてはフライパンを大きく振るうくらいしかやったことがないが、ここでは全力で戦わなければ生き残れない。


 重たい一撃が夫の左肩付近に当たりかける。しかし夫は素早く身を翻して距離を取った。衝撃で地面がえぐれ、私の手は痺れに襲われる。夫の強さは尋常ではない。回復魔法を活用したとはいえ、所詮は非力な主婦上がりのオークと、魔物を幾度も葬ってきた指揮官とでは差が大きい。


 私は荒い息をつきながらも、なお立ち上がる。夫の視線が明らかに苛立ちを帯びてきたことを感じる。


「なぜ……オークでありながら、この程度の知恵と動きを……?」


 そう呟きながら夫は再び剣を構える。私は答えられない。ただの“主婦”だった私が、限界まで追い詰められた結果、今こうして本能を振り絞っているにすぎないのだ。無理に声を出せばグフッという音にしかならないが、それでも伝えたい。――あなたに騙されるな、仲間たちよ。そして夫よ、もうこれ以上、奪わないで…。

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