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第41話 深淵の呼び声

 そんな追い詰められた状況の中……ふと、どこか遠くから不自然に甲高い笑い声が聞こえたような気がする。耳を澄ませば、それは人間の声に違いない。敵の兵士のものか? あるいは――まさか、いや、考えたくもないが、“あの指揮官”なのではないか。


 恐怖と疑念がない混ぜになり、私は心臓の鼓動を押し殺すように呼吸を整える。だが、その合間にキンと澄んだ声が高らかに響いた。


「――そこの森の奥にいるオークども! 残らず出てこいッ!」


 その声は、どこかで聞いたような……だが、はっきりした確信は持てない。けれど、かつての夫の声とは違うようにも思える。一体だれなの?そっと木陰から覗くと、思ったより近くに数名の兵が立ち並び、先頭には若い女の冒険者風の人物がいるように見えた。烏羽色の髪を短く切りそろえ、首からはギルドの紋章が刻まれたネックレスを下げている。ギルド幹部の高位職員、あるいは将校クラスだろうか。王都で権力を振るう冒険者ギルド内のエリート――そう直感できる威厳をその女は漂わせていた。


「さあ、出てきなさい。抵抗をやめれば命だけは助けてあげるわよ?」


 その甘い言葉を、オークたちが理解することはできない。そもそも、助けると言ったところで、彼らの目的は魔物の殲滅であるはず。私は女の言葉の裏にある偽善を感じ取り、唇をかみしめた。あの戦いでこれだけの血を流しておきながら、今さら降伏しろなどと誰が信じるというのか。


「グ、グフッ……」


 傍らにいるオークが小さく声を漏らした。まるで「どうする?」と尋ねているような気もする。迷いはあった。けれど、ここで降伏すればただ殺されるだけだろう。いま私たちができることは、少しでも組織的な攻撃を回避し、指揮官の裏をかいて生き延びることしかない。私は震えながらもオークの手を取り、さらに奥へ奥へと進む。


 だが、その先の景色は――私たちがかつて暮らしていた森の集落の面影を感じさせる場所だった。見覚えのある蔓や朽ちた倒木の配置を頼りに、すぐ近くに古い洞窟の入口があることを思い出す。かつてオークの幼い子たちを連れて、ちょっとした隠れ家的に利用していた洞窟だ。


 そこならば、一時的に敵の目を逃れることができるかもしれない。私は周囲にいるオークたちを振り返り、「グフッ……」と低く息を吐く。すると、それを察してくれたのか、何体かのオークが先行して洞窟の方へ駆け出した。残った数体のオークたちは、私と一緒に周囲を警戒しながら、その後を追う。


 洞窟の入口は薄暗く、湿った空気が鼻を突くが、ここで立ち止まるしかない。すでに外周は兵士たちに囲まれている。立てこもりのような形にはなるが、今のところはそれが最善策だろう。私は壁際をそっとなぞりながら、奥へ奥へと進む。何体かのコウモリのような小動物が羽ばたき、頭上をかすめていく。やや薄気味悪いが、この状況で文句を言っている余裕はない。


 洞窟内のわずかな空間に、オークたちは身を寄せ合うようにして座り込み始めた。皆、体中に傷や泥がこびりついている。中には一歩歩くたびに痛みでうめき声を上げる者もいる。私は呼吸を整えながら、回復魔法の行使が可能な限り、少しでも手当てをしようと近づいていった。


「……グフッ…ガフ、ガフ……」


 しかし、いつものようにじっくりと魔力を込められる状況ではない。洞窟の外の気配からは、まだ兵士たちの声が聞こえてくる。いつ突入してきてもおかしくない。先ほどの女も、あっさりと撤退するはずがないのだ。短期決戦で押し込めると踏んだのか、あるいは指揮の手違いがあったのか……。いずれにせよ、私たちに猶予はほとんど残されていない。


 私は回復できる範囲の外傷をさっと治しながら、何とか気まずい沈黙を破りたい思いで、そこにいるオークたちへ声なき声で語りかける。もちろん真正面から言葉は通じない。「グフッ」と言うだけだけれど、彼らは黙ってこちらに耳を傾ける仕草をする。私の表情やジェスチャーから、少しでも意図を汲み取ろうとしてくれているのだろう。そうした小さな努力が、私をほんのわずかに救ってくれる。


 ――そのとき、不意に洞窟入口付近から何かが飛び込んできた。大柄なオークがびくりと身を震わせる。私も咄嗟に身構えたが、それは兵士ではなく、血まみれになって倒れこむオークの仲間だった。おそらく外で迎撃していた個体かもしれない。ただ、息が浅く、目には焦点がない。胸からおびただしい血が流れ、腕の一部が裂けていて、すでに指先がない……。あまりの痛々しさに、私は動揺で口元を押さえた。


「グ、グフッ……! ガフッ……ガフッ!」


 周囲のオークたちが必死に呼びかける。さっきまで一緒に逃げていた仲間のはずなのに、これほどまでの深手を負ってしまったのか。私は震える手をなんとか抑え込み、急いでそのオークのもとに膝をつく。回復魔法を使わなければ……。だけど、ここまで傷が深いともう無理かもしれない……。


 血管が浮き上がった腕に触れると、かすかに息をしている。私は奥歯を噛み締め、少しでも希望を捨てまいと必死に術式のイメージを膨らませる。じんわりと緑の光が掌からあふれ出す。しかし、あまりにも損傷が大きく、魔力の消費が激しい。加えて私自身も連戦の疲れで限界に近い。せめて止血だけでも――。


 必死に祈るように魔法を注ぎ込んでいると、オークの呼吸が一瞬だけ落ち着いたように思えた。周りの仲間も「グフッ…! グフッ…!」と歓喜するかのように声を上げ始める。私は希望を見出し、さらに力を込める。けれど、その瞬間、オークの身体が不自然に痙攣し――最後の呼吸が、しゅうと音を立てるように抜けていった。


「…………」


 静寂。私は再び、その両手にこびりつく命の重さを感じる。時間が止まったようで、何も考えられない。外では兵士の声がまだ続いているはずなのに、耳が閉じたように何も聞こえなくなった。こんなこと、あまりに惨い。私が主婦として疲れ切って眠りに落ちたあの日から、どうしてこんな理不尽な旅路に迷い込む羽目になったのだろう。


 ふいに洞窟の入口付近がざわつき、そこへ先ほどの女兵士の声が響き渡る。


「オークども、どうせその中に隠れているんでしょう? そこをどけなさい! 私たちが名誉あるギルドの名にかけて、貴様らを狩り尽くしてあげる!」


 怒号が押し寄せ、入口がぐらりと揺さぶられる。どうやら入り口をバリケードのように塞いだオークを排除しようとしているようだ。今は洞窟の狭い通路のおかげで、奴らは安易に突入できない状態だが、時間の問題だろう。ここは逃げ道も少ない。閉じ込められれば終わりだ。


「まずい……」


 私は歯がゆさに胸を痛める。一か八か外へ打って出て、森の更なる奥を目指すべきか。それともこの狭い空間で籠城しつつ、奇襲の機会をうかがうべきか。しかし、兵士の数は圧倒的に多い。下手に飛び出せば一瞬で蜂の巣にされてもおかしくない。けれど、ここに留まるのも危険には変わりないのだ。


 ……そのときだった。外で大きな歓声が上がり、何やら兵の動きが変化した音がした。奥に潜む私たちにもわかるくらい、大勢が入り口周辺から散っていく気配がある。突然の出来事に、私もオークたちも動揺を隠せない。「グフッ…?」と小声で互いに顔を見合った。

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