表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
40/43

第40話 血染めの森

 森が紅く染まっていく――それが夜の暗さではなく、夕刻とも異なる禍々しい色味を帯びているのは、周囲の樹々が血の粘液を吸い込んだかのように朱を宿しているからだろうか。それとも、何十、何百、何千という命が散った現場に立ちこめる生々しい鉄臭さが、空気中に赤い瘴気のようなものを運んできているのか。どちらが真実かは、もう私自身にもわからない。頭の中には、さっきまで響いていたオークたちのうめき声、そして前半で必死に立ち向かった戦闘の残響がこびりついて離れない。


 私は地面に膝をついたまま、荒い呼吸を繰り返す。濃厚な血のにおいが鼻を焼き、数刻前に食べた塩気の残る硬い肉の味が、逆流しそうになるほど気持ちを乱す。自分の両手のひらを見下ろすと、血と泥とが混ざり合ってこびりついている。私以外の、オークの――仲間の血だ。


 かつて私は、ただの主婦だった。家族に振り回され、文句も言わずに家計を支え、家事に追われ、子どもの反抗や夫の冷淡な態度に耐えてきた。私を必要としないように見えたあの家族さえ、なんだかんだ言って大切だった。なのに今、私は“オーク”として、この異世界の森の中で、仲間と呼べる存在たちと過ごしている。たった数日やそこらでも、一緒に食卓を囲み、些細なことで笑い合い、少しずつ心を通わせてきたのだ。言葉は通じなくとも、私が笑えば彼らも「グフ…」と微かに返してくれた。それだけで、ことばにならない温もりが確かに生まれていた。


 けれど今、その小さな安らぎは、強大な威圧感を放つ人間の軍勢によって、無残に踏みにじられようとしている。――これまで、私たちはギルドが仕掛けた大規模なモンスター掃討作戦“スタンピード”の先鋒部隊を迎え撃ち、多くのオークが命を落とした。それでも生き残った仲間たちは、今まさに森の奥へ退避しながら、かろうじて集落の残党を守り抜こうとしている。


 私はその後方に回復要員として残っていたが、再び人間の増援部隊が迫り来るという報せを聞き、気力を振り絞って立ち上がったところだ。遠くから、甲冑のきしむ音や馬の嘶きが聞こえる。次はどれほどの数が押し寄せてくるのか……。もう考えるだけで恐ろしい。


 だが、その恐怖よりも、胸を締めつける絶望がある。それは、この地獄を引き起こした“謎の指揮官”の正体が、もしかすると――いや、まだ確証はないが――私のかつての“夫”なのではないか、という疑念。先ほど、森の入り口付近にいたギルド兵士の背中に、どこか見覚えのある企業ロゴ――元いた世界を思わせる印字が施された布袋を担いでいるのを見たのだ。思わず息を飲む私の耳に「指揮官様より特別支給だ」という会話がかすかに入り、凍えるような戦慄が走った。


 夫は出張や飲み会と称して何日も家を空けていた。日本にいた頃から家族を顧みない生活だったけれど、ある日、彼はまるで逃げるかのように家を出て、そのまま帰らなくなったことがある。もしや、彼も私と同じようにこの世界に来ていて、しかも――。そんなことが本当にあるのだろうか? しかし、この異様な状況で“日本企業のロゴ”を見かけるなど、ただの偶然では済まされない。そこに夫の影を感じ取ってしまうのは仕方のないことだった。


 私はその残酷な可能性に葛藤しながら、どうにか周囲のオークを探して声にならない声をかける。「グ、グフッ……!」と叫んでも言葉にはならない。それでも仲間のオークは「グル…ガフッ」と短く喉を震わせ、私を見つける。視線が交わり、無言のまま互いが生きていることを確認した。その眼差しは、ほんのわずかでも希望を求めているように感じられる。もし次の攻撃で集落が完全に崩壊すれば、もう再起はできないだろう。


 止まってはいられない。私には回復魔法がある。今はそれだけが、皆を支えられる唯一の力だ。森の闇に沈んだまま動けない仲間の負傷したオークのもとへ近づくと、手をかざすようにして意識を集中する。英語でもラテン語でもない、奇妙な呪文が頭の中に浮かび、発せられない声でそっと唱えると、手のひらから淡い緑色の光がゆっくりと広がった。見る見るうちにオークの傷口の血が止まり、盛り上がっていく。


「グフッ……!」


 そのオークの瞳に幾許かの生気が戻り、私の腕へと力なくしがみついてくる。言葉こそ交わせないけれど、その行為だけで「ありがとう」と言っているように思える。私はわずかに微笑み、彼の背中をそっと叩いてやった。


 私たちが重苦しい空気の中で再び立ち上がろうとしたそのとき、森の入り口とは逆方向、比較的安全だと思っていた方角から、地響きのような馬蹄の振動が伝わってきた。慌ててそちらを振り返ると、鬱蒼とした木々の間に人間の精鋭兵らしき影が複数、こちらへ殺到してくるのが見える。


 どうして……? そちらには一応、オークたちが張った見張りもいたはずなのに。まさか、すでに突破されたというのか。ギルドの大規模な作戦は、もしかすると複数の隊列による包囲網だったのだろうか。先ほどの前哨戦が陽動にすぎなかったとも考えられる。私たちはギルドの戦略眼を甘く見ていたのかもしれない。


 精鋭兵たちは、血塗られた鎧を纏い、剣や槍を手にまるで闘争を楽しむかのように突進してくる。その先頭には、ひときわ大柄な男が馬上で目を光らせていた。長い槍が突き出され、森の樹々を容赦なく切り裂いていく。その振り方は熟練の“冒険者”というより、訓練された“兵士”に近い。ギルドが雇った民兵や傭兵だけではなく、何らかの正規の軍隊か?もしくはギルド資本で組織された私設軍かもしれない。


 私は思わず後ずさりしようとしたが、背後には先ほど救ったばかりの仲間のオークがいる。ここで逃げても彼らを見捨てることになってしまう。その事実が足を止めた。もう、逃げ場はそう多くない。


「グフッ……! ガフッ、ガフッ……!」


 仲間のオークが必死に私の腕を引っ張り、別の方向へ促す。危険から遠ざけようとしてくれているのだろう。だが、その先にあるのは鬱蒼とした森の深部――私たちがかつて生活圏にしていた小さな集落とはまた違う、未知の領域だ。そこにはいったい何が潜んでいるのか。想像するだけで背筋が凍る。けれど、今いる場所ももはや安全とは言えない。私は意を決して、仲間の腕にすがりながら森の奥へと踏み込むことにした。


 奥へ奥へ、俺たちを追い払うかのように馬蹄の音は近づいてくる。樹々に遮られながらも、すき間からは人間の鎧の金属的な光がちらちらと見える。もう振り返る余裕などない。触れた枝葉からは嫌な湿り気と腐臭が漂い、まるでこの森自体が私たちを阻もうと蠢いているかのようだ。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ