第37話 赤い月の前兆
どれほど時間が経ったのだろう。背後から「ガルッ…!」という小さな叫び声がして、私はハッと目を開く。見れば、森の向こうがかすかに白み始めている。まさか夜明け?しかし、まだ地平線には暗い色がしっかりと残り、しかも空気は昼間に比べると遥かに冷たい。どうやら深夜から明け方にかけて、ほんのわずかな薄明りが差し込んできたらしい。
視線を巡らせると、ラミアやほかの仲間たちも眠りに落ちきってはいない様子で、皆が朦朧としながらも警戒を解いていない。私自身も体力は微妙によみがえった気がするが、痛みは全然消えていない。口の渇きと胃の空き具合に苛まれつつ、おそるおそる立ち上がる。
そして、空を見上げる。一面の薄雲に覆われながら、地平線近くには嫌に赤黒い月が重なっていた。スタンピードを象徴するように、月の輪郭は鈍く不気味なまま。これまで幾度となくシルエットを見せてきたあの“赤い月”が、まるで血の徴のように世界を包み続けている。何とも言えない悪寒が走った。
「みんな……行こう。もう、夜明けが近い」
鬱屈した声で仲間に呼びかける。時間が刻々と過ぎれば、ギルド側もスタンピードの本命を発動するはず。余裕がある今のうちに一歩でも先へ進んで、状況を確かめるほかない。ラミアらがゆっくりと体勢を整え、互いに傷口への包帯をポイントで結び直す。痛そうに呻く者もいるが、今は戦わずして休む場所などないのだ。
森の先の地鳴りは依然続き、何か大きな怪物が遠くで暴れ回っているのが分かる。おそらくギルド兵がモンスターの大群と交戦し、激しい火の手を上げているのだろう。私たちは恐怖に喉をからしながらも、二度と後ずさるつもりはなかった。装置を一つ壊した――それが小さな一歩。「もし他の装置も破壊できたら……」。そうした期待を抱え、荒野のごとき廃墟と化した森を踏みしめる。
「ガルッ、グタ…!」
先頭を戻った若い雄オークが小声で呼びかける。何か見つけたのだろう。私もかろうじて足を動かし、彼のそばへ寄る。すると、土に埋もれたような形で、またしても異形の金属片が散らばっているのが目に入った。まるで機械の腹部を引き裂いたかのような残骸だ。淡い光を放つ小さな結晶状の部品があり、それが微妙に煌めきながら煙を吐いている――。
(これ、間違いない。ギルド装置の一部か、あるいは試作品みたいなもの?)
顔を近づけてみると、割れたパネルの断面に刷られた文字列の断片がかすかに読み取れる。英語…?いや、ロゴっぽい記号は見えないけれど、どうにも日本語やアルファベットを絡めたような謎のマークだ。私が言葉を失っていると、ラミアが「グア?(何か分かる?)」と目を丸くする。――ここで得られる確証は、やはり“この企みを行う者”が現代世界の技術、もしくはそれに近い知識を持ち込んでいるという事実だろう。
「……やっぱり。本当に夫が関わっているのかも」
悲しいくらいに直感が当たっている気がした。やるせない怒りと、そこに混ざる喪失感。どちらへ振り切れるか自分でも分からないが、止まるつもりはない。ゴクリと唾を呑み、私は残骸をそっと土に埋め直すようにする。オーク仲間には理解できないだろうし、下手に持ち歩けば音を立てる危険もある。私自身が得られる情報は“やはり現代知識の産物”という確信くらいだが、それだけでも十分胸がザワついた。
反射的に、私は目を閉じて深呼吸する。一歩ずつ、ゆっくりとでも前へ――。森の瘴気に満ちた空を吸い込むたび、腹の底に決意の火がまた揺らぐ。恐怖はあるが、意地が勝っていた。ラミアや周囲のオークたちも、疲労の最中にあっても歩みを止めない。彼らの一人が根笹を傘代わりに持って、周囲の枝を払いながら道を拵えてくれた。当たり前のように混ざり合う息遣いを感じると、ふと“家族”という言葉が頭に浮かぶ。私がかつて夢見ていた、互いを思いやる優しい関係が今ここにある気がした。
(こんな場所で醜いオークとして生きていても、この仲間たちと過ごす時間が、あの家庭よりも尊く思えるなんて――私は、やっぱり変わってしまったんだろうか)
けれど、その途端に胸を刺すのは“母親として子どもを置き去りにしてしまった”という現実だ。あの子たちは今どうしているのだろう。私がいなくても生活に困らないかもしれないし、むしろ気づいていないかもしれない。どちらにせよ、あの冷え切った家庭に戻る意義は、私にはもう感じられない。――なのに、こうもオークたちと苦楽を共にし、死線を越えるたび、不思議なほど“かけがえのない家族像”を見てしまうのはどうしてだろう。
「グルッ(行こう)」
前を進む雄オークが慎重に振り返り、こちらへ頷く。周囲に敵がいないか見回しつつ、さらに奥へ行けそうなルートを確かめるようだ。一歩踏み込むたびに枯葉がざくりと音を立て、私の心臓はびくりと跳ねる。何度も小さな恐怖と戦いながら、足をやめなかった。やがて、遠くのほうからまた地面を揺らす爆音がとどろき、夜が裂けるような火光が浮かんだ。
(あれは、森の中心部か…?)
闇の奥から広がる閃光が、私たちの道標にも思える。うねる炎や炸裂する火球のかすかな反照が、高くそびえる樹木の上端を染め、空気を焦がしていた。どうやら、そこではギルドと大型魔物の壮絶な衝突が起きているのだろう。指揮官が陣取る場所も、その近辺にあるかもしれない。今まさに森の決戦場が出来上がろうとしている。そこへ向かえば、さらなる装置が設置されている可能性も高いし、“夫”との対面を回避できないかもしれない。だが、行かなければこの森は燃えるばかり――。
そう悟った時、私は不思議と決心が固まった。痛みも疲れも膨大だが、止まれない。止まったら全てが剥がれ落ちていく気がするから。ラミアを含む仲間たちも、目線を交わし合って、さも当然というように足を進める。他に帰る場所などない。魔窟と化した森で生きるには、どこかで勝負をかけるしかないのだ。私たちは低い姿勢のまま、お互いの体をささえ合い、傷に包帯を巻き直しながら黙々と進軍した。
こうして闇を切り裂くように目的へと歩みを進める私たちが、その先でどれほど壮絶な光景に出逢うかは、まだ誰も知らない。森を切り開き、魔物を焼く血煙。そしてギルドの“指揮官”が仕組んだ罠。――勝つか負けるのかでもなく、この戦が終わったところで何が残るのかすら分からない。それでも、私は最後の一滴まで戦う。オークとして、母として、あらゆる痛みを抱えながら。
周囲の木立を赤く映す閃光は、まるで私たちを嘲笑うかのように不規則な明滅を続けている。薄れゆく月夜にかぶさる疾風の音が、遠くで唸る魔物の声と重なりあい、森を永遠の悪夢へと変えつつあった。いつ倒れてもおかしくない肉体で、私たちは地獄を切り裂く光源にひたすら導かれるように進んでいく――。それこそ、運命に抗うために此処で戦うか、さもなくば森もろとも灰になるか。その岐路に差し掛かっていた。