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第31話 母の誓い

 暗い陰鬱さが私の全身を包もうとしたその瞬間、どこからかラミアの小さな声が聞こえた。彼女は顔を上げ、こちらに向けて必死のまなざしを伸ばしてくる“負傷したオーク”を指さしているのだ。生き延びるため、まだ救える命に手を伸ばすしかないのだ――諦めてはいけない。私は唇を噛み締め、乱雑にかき集めた薬草と布切れを掴んで立ち上がる。戦闘はこれからますます激化するに違いない。今こそ、私が持ちうる回復魔法の力を一滴も残さず振り絞り、仲間を救わなければならない。


 見れば、仲間たちの視線はどこか覚悟を決めた色を帯びている。血まみれになっても、屈しないという意志だけは確かに感じられる。ここで踏みとどまり、生き残る道を探すのか。それともこの混乱の中、なんらかの反撃の機会を掴むのか。――オークたちはすでに、後戻りできない場所まで追い込まれているのだ。


 そう、私は心が震えるのを抑えつつ立ち上がる。何度でも仲間を救うため、回復魔法を使う。戦士たちはその横で武器を握り込み、荒野に鳴り響く太鼓や爆発の音を睨みつけている。森全体が灼け落ちようとも、私たちに逃げ場はない。闇夜はすぐそこまで迫り、スタンピードの狂乱が、この世界を飲み込むのは時間の問題だ。


 ――と、その瞬間、頭の中でまた何かが閃く。私の記憶の底には、“もし夫がここにいるなら、いや、あれが本当に夫だったとしたら、きっと私を蔑ろにしてきた彼の……なんらかの計画や執着があるのだろう”という疑念が渦巻く。だからこそ、あの装置と日本語っぽいロゴに関わるものが、私の唯一の手がかりではないか。あるいは、この混沌の渦中で彼と相対すれば、何らかの道筋が見え――もしくは、すべてを破壊し尽くすしかない道が見えるかもしれない。


(もう躊躇(ためら)いはやめよう。私は“母”として、今ここにいる仲間を守らなくちゃいけない。それが私を支える唯一の理由だ)


 息を整えつつ、私は絶望から生まれる微かな怒りと闘争心を燃やす。回復の力だけが救いではない。この身体が、オークの身体が持つ野性や逞しさも、もう押し殺してはいられないのだ。誰かを斬り殺すような残虐性は、本来の自分にはないと思ってきた。けれど、この状況で立ち向かわなければ確実に殺され、仲間も惨殺される。何を選ぶかは自明の理だった。


 血濡れの風が頬を打ち、夕焼けにも似た赤が夜闇に溶けていく。森の彼方ではふたたび爆音が三度、四度と轟き、硝煙と薬品のような臭いが漂ってきた。“装置”がさらに暴走してスタンピードを煽っているのか、あるいはギルドが既に仕掛けを起動したのか――いずれにせよ、平和だったこの森は完全に“戦場”へ変貌し、オークたちからあらゆる希望を奪おうとしている。


「絶対に負けない……! 私が、“母”として、ここを……」


 乱れた息の合間に、私はそう決意の言葉を呟いた。ラミアや若い雄オークも、私の背後に陣取るような形で息を潜め、覚悟を巡らせている。――暗く荒れる夜の中、スタンピードの嵐は刻一刻と近づき、血の雨を降らせようとしていた。だが、私たちオークは、死の運命をただ傍観するだけの存在ではない。ここで立ち止まるなら、すべてが終わりだ。それなら、たとえ些細な力でも思い切り振りかざし、最後まで足掻いてみせる。


 もしかすると、この先に“夫”との再会という更なる衝撃が待っているのかもしれない。それが嬉しい展開なのか、悲惨な結末なのか――考える余裕などない。だが、間違いなくこれから起こる惨禍は、私の運命を根こそぎ塗り替えるはずだ。愛する家族、捨てきれない未練、そして今、かけがえのない仲間を得た“オーク”としての私……


 それらすべてが、スタンピードという血濡れの嵐のなか、人間のギルドと激突する――その直前の夜は、あまりにも長く冷たい。一陣の風が吹き渡り、森じゅうに絶滅を予感させる腐臭と業火の気配が充満する。私は震える声で、寄り添う仲間にこう告げる。


「行こう。今、私たちが立ち止まったら……本当に森は終わっちゃうから」


 ラミアをはじめ数名のオークが覚悟の相づちを返し、互いの傷ついた身体を支え合いながら、ゆっくりと歩みを進める。どんな結末が待とうと、もう後戻りはできない。闇夜と血の匂いを縫って、オークたちの足音が密やかに響いた。――それこそが、次に繰り広げられる壮絶な大戦乱へと続く、最後の静寂とも知らずに。


 まもなく森全体が業火に包まれ、人間と魔物、生きとし生ける者の血が入り混じる“スタンピードの全面衝突”が始まるだろう。それはギルドの本隊が投入される、本格的な地獄の開幕だ。だが私たちが何もしなければ、無為に仲間が死に絶えるだけ。――何かを変えられるかもしれないと、ほんの少しでも信じる限り、私はこの足を止めない。どんなに迷い、涙を流そうとも、オークとして、母としての誓いを抱えて前進するしかないのだ。


 その先で待ち受けるのが、夫との対峙であっても、さらなる血塗れの惨劇であっても――。

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