第2話 未知の地
そのとき、森の奥から微かな“ざわめき”のようなものが聞こえた。私はハッとして足を止める。振り返ってみると、倒木や大きな石の陰になった先のほうで、何かの声がごちゃごちゃと混ざり合っている。興味や好奇心、そして恐ろしさが同時に芽生えた。だが、このまま無視して奥へ突き進めば、もっと危険な目に遭うかもしれない。――まずはどんな相手か確かめよう。私は木の陰に隠れながら、そっと様子を探ることにした。
草木の枝を少し掻き分けて覗き見ると、そこには数体の“オーク”らしき姿があった。私と同じように灰色の肌をしていて、鼻や牙の形こそ若干違えど、種族としては同じに見える。私と違って雄っぽい立派な体格をしており、獣皮の服や粗末な武器を携えている。何かを叩きつけるような音や、低く唸る声が聞こえてくる。彼らはどうやら動物の皮を剥ぎ、それを集落に運ぼうとしているようだった。それを見て、私は思わず後ずさりしそうになる。ここは人間社会じゃない。私が慣れ親しんだルールも言葉も、通じない世界なのだ。
けれど、もしこのまま離れてしまっては私は空腹と疲労で倒れるだけ。どのみち先はない。思い切って声をかけようと一瞬考えるが、うまく意思疎通できるかどうかも分からない。そもそも“自分がオーク”だという事実にまだ慣れきれていないのだ。私は必死で息を殺し、彼らの危険度を推し量ろうとした。見たところ、彼らの動きに悪意は感じられない。むしろ獲物を仕留めた後の処理作業を落ち着いてこなし、それぞれが手際よく行動しているように見える。野蛮で凶暴――そんなイメージを抱いていたオークだが、こうして見る限りどこか“生活のために必死に働いている”ような雰囲気がある。
そのとき、私の小さな気配を察知したのか、一体のオークが「グルル……?」と短く唸ってこちらを振り向いた。私は瞬時に身を固くし、動けなくなる。予想以上に鋭い目つきで、まるで周囲を警戒する番人のように森を見渡す。そして、その視線が明らかに私の隠れているあたりを捉えた。
心臓が飛び出しそうなくらい焦ったが、私も姿を見せるしかないと覚悟を決め、そっと身体を現す。すると彼は驚いたように目をむき、「……グルド?グフ?」と問いかける声を上げた。何を言っているのかさっぱり分からない。こちらもどう返したらいいか分からず、ただ喉の奥で「ぐ、グル……」と苦しげな声を漏らす。まるで幼児が初めて言葉を覚える瞬間のように、舌が回らなかった。彼の仲間もこちらを見て、困惑したような表情を浮かべている。
しかし、不思議と彼らから攻撃の意思は感じられなかった。むしろ「ケガをしているのか」とでも言うように、私の腕や体を指さし、何度か首をかしげる仕草を見せる。そうして少しずつ近づいてくると、私の身なりを見定めるように観察し始めた。長い間、過酷な仕事と家事で痛めつけられた私の肩をポンポンと軽く叩き、“大丈夫か”とでも言うように目で訴えているようだ。
「……あ、ありがとう……?」
人間の言葉が通じるわけもないが、思わずお礼らしき言葉が唇からこぼれた。すると彼らは「グホっ」と少し笑うような声を立て、一体のオークが私の手を引いてくれる。どうやら“とりあえず来いよ”と招いているらしい。驚き半分、警戒心半分。だけど私はこの誘いを断るわけにいかないと感じていた。何より、荒野で一人孤立していたらいずれ死にかねない。それなら、少なくとも自分と同じ種族のような彼らを頼ってみるしかない。
そうして私は、彼らが住む小さなオークの集落へと足を踏み入れることになった。ここでは想像していたよりも狭い敷地に、何棟かの粗末な小屋が建ち並び、それぞれ手作りの道具やら干し肉やらが吊るされている。正直、煮炊きや衛生面はどのように保たれているのか分からないが、女性らしきオークや、子どもらしき小柄な個体もいるように見えた。
彼らが会話している言語はほとんど理解不能だ。しかし、私はふと“母親”としての勘からか、オークの子どもたちが私を見つめる好奇のまなざしに気づき、つい微笑んでしまう。すると子どもらは最初ぎょっと身を引いたものの、私が害意を持たないとわかると、ちょこちょこと集まってくる。まるで人間の子どもと変わらない仕草に、私は胸が熱くなった。彼らは言葉にならない奇妙な発音で話しながら、私の手や髪に触れてくる。そう、私だってずっと“母”として我が子に寄り添ってきたのだ。その感覚だけは、変わらず身体の内から湧き上がってきた。
集落の中心に案内された私は、そこに置かれた木の椅子らしきものに腰掛けると、不思議な安心感に包まれると同時に、急に疲れが押し寄せてきた。人間の世界では一晩寝ても取れなかった疲労が、一気に襲ってきたようでもあり、私は何度か大きな息をつく。オークの仲間たちは何やら私に食べ物や水らしきものを手渡そうとするが、慣れない風味や強烈な匂いに、私は少し尻込みしてしまった。それでも空腹感は限界に近い。恐る恐る一口かじると、意外と味は悪くない。乾いた肉は塩と香草で軽く味付けされていて、飢えをしのぐには十分だった。
そうするうち、彼らの中でも何か上位の立場にあると思しきオークが現れ、私をじっと見つめて「グォフ、ラグツ……」と話しかけてくる。おそらく“お前はどこから来たのか”とでも聞いているのだろう。私は答えたくても答えられないから、苦笑いして首を振るしかない。彼らも困ったように周囲を見渡し、それから私を“保護”するような動きを見せる。どうやら私は、怪我や疾患はないけれど、言葉が不自由な、奇妙な同族扱いをされているようだ。
これが幸か不幸かは分からない。でも、今の私にとっては思いもよらぬ救いだった。殺されるどころか、助けられている。疲れも少し取れてきて、私は先ほどまでの絶望感がいくぶん和らいだ気持ちになる。――そうだ。生き延びる手段がここにあるなら、まずはそれを掴めばいい。その先に家族のもとへ帰る方法があるかもしれない。私は震える手でわずかに握りしめたオークの子どもの手を離し、もう一度、森の集落を見回した。
ここから始まるのだろうか。“妻”や“母”としてではなく、“オーク”として生きる日々が……。私はまだそれを認められない。自分の姿がオークであることも、家族がいなくなったことも。けれど、辛いと嘆くだけでは何も進まない。人生の大きな転換を迎えたのだとすれば、私に与えられた新たな道をどう選ぶか。――そんな大層なことを考えられる余裕もないほど私は疲弊していたが、それでも胸の奥に微かな決意が芽生え始めていた。
こうして、私の異世界での生活は幕を開けた。元の世界で崩壊しかけていた“日常”が、俄かに霧散してしまったかのように。私はオークとしてここにいる。醜い姿に、言葉も通じない仲間たち。だが不安の塊だった私に、彼らの温かい行動が一縷の救いを与えてくれたことは事実だ。――家族のもとに帰れるかはわからない。けれど、眠りの果てに迷い込んだこの世界で、いま私は確かに呼吸をしている。
日が沈みかけた頃、私は拙い言葉で挨拶しようと試みた。何度もぎこちない声を出しては、オークの仲間からクスクスと笑われる。それでも、よくわからない意思疎通を繰り返すうちに、私の中にあった混乱が少しずつ溶けていく。ここで、きっとまたどんな苦難が待ち受けるのか分からないけど、それでも私は、生きていたい。帰りたいという希望を抱きながら、ひとまずはこの集落での第一歩を踏み出すしかない。
荒野で目覚め、オークとなった私。あの世界での主婦としての日常は壊れ、現実味を失いつつある。一方、この世界での奇妙な生活が、やがて私の新たな“戦い”へと繋がっていくとは、このときまだ想像もしていなかった――。