第17話 血雨の夜明け
血臭が広場の隅々にこびりつく闇夜を越え、私はほとんど眠れないまま朝を迎えた。あちこちに散らばる蒙昧な死の気配と、前夜の“大鍋いっぱいのスープ”の余韻が、奇妙な対比をもって胸に残っている。辛うじて微睡んだ時間にも、頭の奥では仲間が血を吐き倒れる悪夢が繰り返し蘇った。心臓が軋むような痛みで目を覚ましては、まだうっすらと残る煮炊きの臭いを吸い込み、「ああ、私はオークの姿になってしまったんだ」と再認識する。――人間の頃には想像もしなかった生活だ。
一方、前夜の“最後の晩餐”を共にしたオークたちの間には、不思議な一体感と虚調の入り混じった空気が漂っていた。あれほど疲弊していたはずの雌オークや若い戦士たちが、早朝から集落の補修に取りかかっている。血にまみれた壁を洗い流し、倒れた柵を立て直し、物陰に隠されていた古い武器を磨く姿が見られた。――まるで嵐の夜を越えた後のわずかな安息の日差しを見つけ、次の戦いに打って出る意志を確かめるかのようにも思える。
だが、いつまた冒険者が来るかもわからない。前夜に逃げ帰った彼らがギルドへ報告すれば、いっそう大規模な掃討隊が派遣される可能性は高い。戦うにしても、再度森の奥へ逃げ込むにしても、果たしてどれだけの仲間が生き残るのだろう。そんな不安が消えぬまま、私は怪我人たちの手当てと回復魔法を施しに回る。夜通しの負担で私自身の体力も限界に近いが、それでも横になっている彼らのうめき声を聞いていれば、じっとなんてしていられない。自分にできるのは、せめて傷を少しでも癒やし、痛みを和らげることだけ。
そんな折、息を切らせた偵察役のオークが集落に駆け込んできた。私も慌てて立ち上がり、周囲の仲間とともに様子を探る。見ると、そのオークの体のあちこちが土埃や折れた枝で傷だらけになっており、大きく肩で息をしながら絶望の色を宿した瞳を向けている。――嫌な予感が走る。何が起きたのか、わからないまま喉が乾く感じがした。
リーダー代行のラグナスや戦士たちは、偵察役のオークの言葉を食い入るように聞き、次第に表情が蒼白に変わっていく。断片的に聞こえるオーク語から、私は「ギルド……スタンピード……」という単語を拾い上げる。スタンピード――多くの異世界物語で描かれる“魔物の大群が一斉に暴れ出す現象”のことだ。だが、今回の噂はどうやら“ギルド”が意図的に仕掛けている可能性が高いらしい。
偵察役が見てきた光景によれば、人間たちは森の反対側で何らかの大型生物を追い立てているかのように動き回っており、巨大な角を持つ怪物の死骸らしいものもちらほら転がっていた。その一方で、苛立ちや焦りをむき出しにした冒険者たちが集団で森の資源を荒らしており、まるで“魔物の逆襲”を誘発するような行動を取っているとのこと。さらには、人間が設置した奇妙な装置が森の奥で稼働しているのを見かけたという。――何か大規模な企みが進行中であることは否定できないだろう。
言葉は通じずとも、オークたちの反応は深刻そのものだ。“スタンピード”的な現象がいざ起きれば、この森に住むあらゆる魔物が暴走する恐れがある。その混乱に乗じてギルドが一掃作戦を敢行すれば、弱り果てたオーク集落など、一瞬で灰燼に帰すに違いない。私は恐怖に背筋が凍る思いだった。――人間だった頃は、まさか自分が“魔物側”として追い詰められるとは想像もしなかった。けれど、今この瞬間は、確かにオークの一員として森に生きている。逆巻く大渦に飲まれようとしているのは、私自身なのだ。
ラグナスが険しい表情で周囲を見回す。同時に、若い戦士オークが歯ぎしりしながら立ち上がり、武器を引きずる音が聞こえる。――再び慌ただしい議論が巻き起こり、森の奥へ移動するか、ここで踏ん張るか、意見が割れるのが見て取れた。ただ、どちらにしても安全は保証されない。“スタンピード”は森全域を呑み込む災厄であり、動物や魔物が狂乱的に人里へ押し寄せる現象だ。もしギルドがそれを意図的に誘発しているのだとしたら、森の奥へ逃げ込んでも同じく餌食になるかもしれない。
そんな中、ある年配のオークが低く唸りながら静かに口を開く。深く刻まれた皺と、無数の傷痕が彼の長い歴史を物語っていた。雌オーク数名が耳を傾ける中、彼は「ここに骨を埋める覚悟がある者は残り、そうでない者は子どもを連れて少しでも安全な土地を探せ」と示唆するような仕草を見せた。まるで、このままでは森の崩壊は避けられないから、個々の自由意志で行動すべきだ、という提案にも聞こえる。それは“集落の解散”と同義にも思えた。
どよめくオークたち。中には憤怒の声を上げる者もいれば、悲嘆する者もいた。私自身どうすればいいのかわからず、震える手をぎゅっと握りしめる。もし現実的に“仲間と家族の安全”を最優先するなら、子どもたちと弱い者は森を離れてどこかへ隠れなければならない。だが、人間の領域にも行き場はない。流民のように町へ紛れ込める姿でもないし、見つかれば即座に排除されるだけだろう。他の大陸や遠方へ逃亡するほどの余力もない……。立ち尽くす私に、ただもどかしさと虚しさが込み上げた。
ふと視界の端に、子どもたちが不安そうな顔で固まっているのが見える。昨晩、私とともに大鍋をつつき合い、「おかわり!」とはしゃいでいたあの子たちだ。小さな鼻をすすりながら、私と目が合うと一瞬だけ笑いかける仕草を見せるが、恐怖で顔が引きつっているのが明らかだった。――まだ幼い彼らが、なぜこんな世界で生き抜かなければならないのか。不条理すぎる運命に胸が締めつけられる。家族に蔑ろにされたあの頃の私と、今ここで途方に暮れるオークの子どもたちが重なって見えて、やるせない気持ちに襲われる。
私は何とか頭を振り、考えを巡らせる。今の私が持っているのは、オークとしての強靭な体と、ささやかながら“回復魔法”の力、そして人間世界の基礎知識――それだけだ。強大な魔法を操れるわけでもないし、誰かを従えるカリスマがあるわけでもない。けれど、もし森の奥へ逃げてもスタンピードに巻き込まれるなら、ここに留まって準備を整えるのも手かもしれない。支離滅裂な思考の中で、私はわずかに“昨晩の温かい食事”を思い返していた。あの食卓には確かに希望があった。ならばせめて、どんな決断を下すにせよ、もう一度オークたちが心を一つにできるような場を作れないか――。
その瞬間、ラスナスが鋭い声で私を呼んだように感じる。先程の年配オークもこちらを見やり、何やら大きく頷いている。私が怪訝な表情を浮かべると、周囲のオークたちが次々と私に視線を注ぐ。どうやら、森から何などを調達して次の大鍋を準備しろ、というような合図らしい。理由は分からないが、たった今、これまで意見が割れていたあの戦士たちも雌オークたちも、一つ意志が固まったかのように見えた。“最後の晩餐”と呼ぶにはあまりに残酷な語感があるが、もしかすると戦いを前にした“一致団結の儀式”が必要なのかもしれない。
私の頭には昨日の賑わいが浮かんだ。戦火のあとであっても、大きな鍋を囲めば仲間たちはほんの少し笑顔を取り戻した。無理矢理にでも空腹を満たし、士気や連帯感を取り戻すことで、絶望を押し返せる。戦いという現実がすぐそこに迫っていても、空腹のままでは心が折れてしまう。その多くが一度は体験した貧しく苦しい暮らしの中で、オークたちは“腹を満たす”ことを最優先してきたのだろう。――ささやかながら、私の“主婦”としての力が再び試されようとしているのだ。