第16話 魂を繋ぐ夕餉
日が暮れるまでに、何とか戦闘の後片付けと犠牲者の弔いを終えたオークたちは、すっかり荒れ果てた集落の中央に集まり始めた。昏れかけた空の下、そこかしこには血濡れた戦の痕跡が散らばり、木々は黒ずんだ瘴気をまとっている。鼻先にかすかに漂う鉄臭い匂いが、まるで夜の闇より先に広がっていくかのようだった。さっきまで熾烈な衝突があったとは思えないほど森は静まり返っているが、それは決して平穏を意味しない。仲間を弔う嗚咽が沈んだ空気に混じり、悲しみが底なしの泥沼のように集落を覆い尽くしていた。
それでも私は、“母”として今やるべきことがある――そう自分に言い聞かせる。雌オークたち数名と共に手分けして、何とか食事の準備を整えていく。怪我人や子どもたちをできるだけ参加させるため、粗末な布を広場の隅に敷いて座らせたり、微弱な火の粉を防ぐ即席の煙よけを組み立てたりと、それぞれが少しずつ役割を担って動いている。石の瓦礫や折れた木材が散乱している広場の中央を片付け、そこに大きな鍋を据えて薪を積む。まだ死者の葬儀の灰がこびりついたままの薪を見ていると、胸がきゅっと締めつけられる。けれど、泣いてばかりはいられない。私は回復魔法がまだわずかに残っているのを確かめ、自分自身に「もうひと踏ん張りだ」と言い聞かせた。
空が完全に暗闇へ変わり始めた頃、オークたちは続々と集まってくる。戦闘の影響からか大人たちは武器を手放せず、重症を負った仲間は互いに肩を貸し合いながら歩いていた。傷口に巻いた粗末な包帯は血が滲むほどだが、それでも彼らは“共に食べる”ひとときを渇望している。大鍋の底に水と薬草を入れ、そこへ獣臭さの強い肉片を投げ入れると、鼻をつく苦味が一瞬で広場を包む。煮え立つ肉汁が白く泡立つたびに、私の意識は、目の前の現実を否応なく思い知らされていく。これから大鍋で作るのは、せめて今夜だけでも“腹を満たす”ための温かいスープ――奇跡じみた安らぎを、どうにかして彼らに届けたいという一心だった。
大きな石を使った即席のまな板で野菜らしき根菜を刻み、割れかけた木の杓子でゆっくりとかき混ぜる。薬草が醸し出す独特の苦味と肉汁のうま味が混ざり合い、ほのかな香りが立ちはじめると、子どもたちが「グルッ…」と期待に喉を鳴らしつつ近寄ってくる。いつまた敵が襲ってくるとも限らないという緊張感が漂う中でも、その幼い瞳には微かな好奇心と“生きたい”という熱が宿っていた。そんな無垢な姿を見ると、不思議なほど胸が暖かくなると同時に、人間だった頃の家族を思い出し、指先が微かに震えた。かつての食卓では、夫も子どもたちも私の努力に気づくことすらなかった。けれど今は、オークの姿になった私が振るうこの食事を、皆が心から求めてくれている。もう戻れない日々を思うと切ないけれど、今はこの瞬間に全力を注ぐしかない――そう、鍋をかき混ぜるほどに覚悟が定まっていく。
夕闇の中でふつふつ沸き立つスープが仕上がる頃、グルドやリーダー代行のラグナスたちが器を手に並び始める。彼らは武器をすぐ取れる位置に置いたまま、まるで警戒を解けないかのようだ。それでも、肉の煮立つ香りが闇を切り裂くように鼻腔をくすぐると、自然と表情がほころんでいくのが分かる。その様子を確かめた私が手招きすると、子どもたちが「ググッ」と嬉しそうに笑いながら駆け寄ってきた。数時間前まで死と隣り合わせの戦場だったことを忘れてしまいそうなくらい、束の間の賑わいが集落を包む。
「……さあ、できた!」
思わずこぼれた私の呟きはオーク語ではないが、雌オークの仲間が歓声を上げて応えてくれる。それを合図に、大鍋からスープを柄杓ですくい、木の器へとよそっていく。肉の塊と根菜、少量の薬草を浮かべた即席スープに、オークたちは最初こわごわと鼻を近づけるが、次の瞬間、勢いよくすすり込んでは「グル……グホッ、グホッ」と喉を鳴らして笑いはじめた。どうやら“旨い”と思ってくれたらしい。先ほどまで曇っていた眼差しに活力が蘇り、まるで宴のような空気が広がる。子どもたちは夢中になって器に頬をこすりつけるように飲み、口の端からスープを垂らしながら喜びの声を上げる。その一方で、弔ったばかりの仲間を思い出したのか、涙をこらえきれずすすり泣きながらスープを口に運ぶ者もいた。そこには嬉しさと悲しみが同居し、何ともいえない重苦しささえ感じられる。
そんな様子を見守っていると、隣にいたグルドが小さく鼻を鳴らして、「グラッ」と短く声をかけてきた。器を持ったまま誇らしげにこちらを見つめ、胸に拳を当てる仕草をする。きっと“よくやった、ありがとう”という意味なのだろう。言葉の通じない私が照れ笑いしか返せないでいると、グルドはもう一度力強く頷く。守り合い、支え合う気持ちは、生きるか死ぬかという瀬戸際の森の中でこそ、はっきりと通じ合うのだと感じた瞬間だった。
夜が更け、煙の匂いと肉の香りが混じり合う広場には、疲れきったオークたちがところどころ座り込み、朽ちかけた木の壁にもたれてうとうととまどろみ始める者もいる。けれど、誰もが完全に眠りには落ちない。見張り役は必須だし、いつギルドの兵が戻ってくるか分からないからだ。それでも、先ほどまでの戦火を忘れたかのように、低い笑い声と捕食する音が混ざり合い、子どもたちは器を抱え込んでまだ“おかわり”を期待している。遠くの森からは不気味に蠢く気配が絶えず伝わってきたが、今だけはこの明かりの下で鍋を囲む平穏をかみしめたいと思った。
ふと、“最後の晩餐”という言葉が頭をよぎる。今生でみんなが一緒に囲む、最後の食事になるかもしれない――そう考えると、胸が重く軋む。この世界での戦いはまだ始まったばかりで、本格的な襲撃がいつ来てもおかしくない。このちっぽけな幸せを明日には血の海が飲み込んでしまう可能性だって十分にある。けれど“だからこそ、今夜だけは”という想いが、私の心を支えていた。ぐしゃりと潰されるような恐怖の中であっても、温かいスープを分かち合い、少しだけ笑い合うこと。それは儚く消えてしまうかもしれない光だとしても、確かにここに生まれた希望の灯火のはずだ。
「だからこそ……」
誰に聞かせるでもなく、小さく声を出す。私は薬草の苦い匂いが残る大鍋の底を木の杓子でそっと撫でながら、泣きそうな笑みを浮かべた。回復魔法も戦闘技術も、私ができることは限られている。けれど一人でも多くの命を、この場所で繋いでいきたい。異世界に放り出された見知らぬ存在の私を“仲間”と認め、同じ釜のスープをすすってくれるオークたちを、私は見捨てることなどできない。それがどんなに無謀であろうと、私は最後までこの居場所を守り抜きたい――その決意だけが、崩れかけた心を何とか立たせているのを自覚していた。
遠くの空を見上げれば、濁った月が輪郭を失いかけた光を重苦しく落としている。死者の血が染みる大地へ陰鬱な帳が下りていく中で、オークたちは熱いスープの余韻に浸りながら、わずかな安堵を胸に抱えていた。だが、その姿さえ“嵐の前の静けさ”にすぎないのではないか――森に漂う瘴気が、そんな暗い予感を囁いているようにも思える。やがて来る地獄絵図を前に、それでも私は明けない夜を見つめ続けながら、心の奥でこう誓った。
――「絶望に沈む闇夜であっても、生きねばならない」。
この世界で“母”として、弱き者たちを一人でも救い、守りたい。今、このぬくもりの中で誓う想いが、たとえ儚くも消えゆく火であっても、それを絶やさずに鍋をかき回し続けるのが私の使命なのだと。




