第15話 荒廃の中の温もり
私はとにかく回復魔法を使うしかない。これ以上犠牲を出したくない一心で、傷ついた雄オークに近寄り、祈るように両手をかざす。頭の中まで真っ白になりそうな恐怖の中で、かすかに漂う“母の想い”を手繰り寄せる。これまで子どもが転んで大きな擦り傷をつくったとき、刻一刻と洗浄してガーゼで保護したことを思い出す。それと同じように、“頑張って耐えて”と語りかける気持ちを込める。すると、私の手のひらから柔らかな光が広がり、必死にもがくオークの出血を少しずつ止めていった。――すべてが絶望ではない、そう自分に言い聞かせるように。
しかし、冒険者たちは容赦しない。後衛にいた魔法使い風の女が呪文を唱え、空気がピリリと震えたかと思うと、人間の立ち位置を中心に“風の刃”のような魔力が飛び散った。かろうじて棍棒で防いだ雄オークも、その衝撃で体勢を崩して轟音とともに倒れ込む。――私は悲鳴を上げながら駆け寄ったが、すぐに別の冒険者がこちらを鋭い視線で睨みつけた。「あれ、あのオーク……やけに頭が良さそうだぞ。回復なんてしてやがる!」と叫び、こちらへ斧を振り下ろそうと駆け寄ってくるのが見えた。
絶体絶命――その瞬間、別方向から飛び出したオークの一人が、低い体勢から横合いにタックルを仕掛けてくれた。冒険者は軸足をすくわれ、斧を落としながら転がる。オークの戦士も、かなり無理をしたのだろう。肩のあたりがズキズキと裂け、私が慌てて回復魔法を向けると、またしても苦々しい息を吐きながら倒れ込んでしまった。――戦場は血臭と喧噪、荒い呼吸で満ちている。すでに私の視界は混乱の極みに近く、どちらがどれだけ被害を出しているかさえ把握できない。ただ、“一瞬でも気を緩めれば死”という緊張感が背骨を凍らせるように走っていた。
やがて、若い冒険者たちは思ったよりオーク側が粘っていることに焦り始めた。戦士の一人が血だらけで倒れかけており、魔法使いも魔力の消費で顔が青ざめている。完全武装とはいえ、“消耗”という点ではこちらと大差ない。さらに周囲の地形や、倒木などの障害物が味方して、彼らはなかなか自由に動けないようだった。集落施設の瓦礫はオークたちにとって多少なりとも隠れ蓑となり、挟み撃ちのような形で反撃に出られる。
「くっそ……。援軍を呼ぶぞ!」
冒険者の一人が仲間に声をかける。仲間たちも弱気になったのか、後退の気配を見せ始めた。もし彼らが撤退してくれれば助かるが、その先には必ず“冒険者ギルド”の力が待ち構えている。報告を受けたギルドがさらに強力な部隊を差し向けてくる可能性は高い。今度はこんな小競り合いでは済まないだろう。――それでも、今は引き延ばすしかないのが現実。勝ち続ける術はないのだ。
結局、冒険者の一行は何とか足並みを揃えて集落の外へ逃げていった。こちら側も大きな追撃をかける余裕はなく、甲高い金属音が遠ざかっていくのを、ただ見送るしかない。戦いが収まったとき、私の周囲には重傷を負ったオークが数名、地面に倒れこんでいた。駆け寄ってみると、既に事切れている者もいる。胸にえぐられた槍の痕から血が流れ、体温が失われていく――回復魔法をかざしても、数秒前に息絶えた命は戻らない。私は歯を食いしばってうつむき、斑に染まった地面を睨むしかなかった。何のための力なのか。仲間を救いきれない無力さに膝が震える。
空気には血飛沫の生々しい鉄臭さと、低くうなる悲鳴が漂う。ここで何度戦いを繰り返しても、いずれ限界がやってくる。その絶望感が、オークたちの顔に痛切に現れていた。
昼過ぎ、戦火の後始末に追われる中、リーダー代行のラグナスが深く嘆息しながら私に近づく。彼自身も肩に浅い傷を負っていたので、私がすぐさま回復魔法をかざし、軽く治癒を施す。雄オークは少し顔をゆがめたあと、「グフッ……」と礼をつぶやき、目線で集まってきた仲間たちを促す。どうやら何か方針を話し合うのだろう。
彼と少数の戦士らしきオーク、そして私を含む雌オーク数名が、折れかけの木々を少し寄せ集めて囲炉裏のような形をつくり、その場で指示を行うような仕草を始める。オーク語はわからないが、表情と声の調子だけで判断するに「これ以上の衝突は避けられない」「体力がない」「食料が尽きかけている」――そんな苦悩を共有しているらしいのが伝わってきた。
突然、一人の若いオーク戦士が立ち上がり、「グルアッ!」と興奮混じりの声を上げる。たぶん「我々だけで何とか戦う術を探そう」「そのためには気力を奮い立たせなければ」というような主張。「ギルドが本腰を入れる前に、装備を整えて応戦しなくてはならない」という意図が読み取れる。だが、周囲の雌オークたちは険しい表情でうなずくしかない。現実的には、捨て身で戦うには仲間が消耗し過ぎているのだ。
それでも彼は諦めずに声を張り上げ、地面に敷いた簡易地図のような革紙を指し示す。周囲には血まみれの仲間がいるというのに、なお怒りを燃やし続けている若さが痛いほど眩しい。ただ、その姿勢を咎めるオークも少なくなかった。ラグナスは深刻そうに唸り、やりきれない雰囲気で拳を固めている。結局、行き詰まったまま、オークたちは意気消沈してしまった。
――そんな重苦しい空気を、救ったのは“一つの提案”だった。誰が言い出したのか、きっかけは定かでない。ともかく「今夜、大きな鍋を囲んでみんなで腹を満たそうじゃないか」という声が上がったのだ。まさか、この血みどろの状況で“宴”まがいのことをするとは私も思っていなかった。しかし、その意図は単純な気晴らしではないと、すぐに理解する。飢えと疲れで心も体も限界に近い。まずは一度“息をつく”場を設け、皆で次の戦闘に備えられるように団結を強めようというわけだ。
「……グラ、グホッ……」
雄オークが私を見やり、続けて大鍋や家畜の残骸が保管されている場所を指し示す。今のところ、まとまった量の肉と、森で拾い集めた数少ない野菜がまだあるらしい。さらに、隙間を縫って森の端で採取していた薬草や根菜も、どうにか使えそうだという情報が混ざる。――なるほど、私が“主婦”として、ここで腕を奮える出番がきたのだ。血の臭いで散々な雰囲気ではあるが、このままみんなが心折れてしまったら、本当に終わりだろう。食事の力を侮るなかれ、と自分に言い聞かせる。
集まったオークたちの目に、一瞬だけ光が宿る。一緒に戦うための“英気を養う晩餐”――それを皆で作り上げるのだ。私も正直、体はヘトヘトで動くのがしんどい。だけど、こんなときこそ母としての底力を発揮しなければいけない。人間だった頃、どんなに夫や子どもたちに邪険にされても、私は家族のご飯を欠かさず用意してきた。何かあったら、とりあえず腹ごしらえ……ちょっと自虐混じりにそう思い出す自分が、今は頼もしく思える。




