第14話 逃避と抗戦
森の奥へと逃れる苦しい行軍から、私たちはようやく古い集落へと戻ることを決断した。完全に安全とは言えないが、食糧も薬草もまともに手に入る見込みがある場所だ。移動組と残留組で分断されていた仲間の一部が、合流のために人知れずやって来るという連絡が入ったことも大きい。血塗られた戦火を逃れた先に待つのは、いつまた冒険者に襲われるとも限らない不安定な情勢に変わりはない。しかし、長期にわたって続いた逃避行と飢えは、オークたちの心身を限界まで蝕んでいた。立ち止まって体制を立て直さなければ、次に襲撃を受けたとき“全滅”の危険すらある――それがリーダー格を含む多くの意見だった。
集落へ戻る道のりは、暗鬱な霧が横たわる森の中をゆっくり慎重に歩を進める。途中で、傷や疲労で歩行困難になった年配のオークを支え合いながら進む光景は痛ましく、子どもたちはひどく痩せこけていた。私が回復魔法を使っても、一度に全員をカバーできるわけではない。小さな怪我や炎症なら癒やせるが、蓄積する飢餓と衰弱まではどうにもならず、もどかしい思いが胸に突き刺さる。
――ようやく、森の木々が途切れ、小高い丘から“かつての集落”の姿が遠くに見え始める。あんなに荒涼としていた場所に、なぜか懐かしさすら感じるのは、やはりここが“自分の居場所”に近い場所だからだろう。森の深部で感じた逃げ場のない閉塞感に比べれば、腐葉土と血の臭いが混ざった重苦しい空気のほうが、まだ耐えられる気がした。少なくとも、ある程度の拠点があって、寝る場所や雨風をしのぐ小屋がある。怖いのは、“人間の冒険者”からの次なる襲撃だけだ。
夕刻、私たちはそろりそろりと集落へ踏み込み、瓦礫や折れた柵の破片の奥へ進む。前に戦いがあった痕跡が生々しく残り、地面には黒ずんだ血の跡がこびりついていた。子どもたちがそれを見て泣き出しそうになるのを、雌オークが必死になだめる。かつて共に過ごした仲間の形見や残骸がそこかしこに散っており、“平穏”という言葉からは程遠い光景だった。それでも、私たちには選択の余地がない。――すぐに使えそうな小屋を探し、罠や仕掛けがないか慎重に見回しながら、各々が散り散りに整えていく。数日間だけでも構わない、この地で体力を回復し、今後を考えねばならないのだ。
翌朝、一息つく間もなく、私たちはさっそく“小さな衝突”に巻き込まれることになる。森の外れで偵察に出ていた若い雄オークが、血相を変えて戻ってきた。彼によれば「下級らしき冒険者の一団が森に足を踏み入れてきた」という。彼らはギルドの獲得した魔物討伐の依頼をこなすためか、それとも単純に討伐の実績を稼ぎに来ただけなのか――その真意はわからない。ただ、森を漂う漂着者のように、無差別に手当たり次第狩りをしているらしい。
オークたちは急に緊張を強いられる。移動で疲弊した仲間が多い以上、今この集落が攻め入られたら危険極まりない。とはいえ、慌てて森の奥へ逃げ込む体力も残っていない。リーダーの代行を務めていた雄オークの『ラグナス』が唸り声をあげ、周囲へ指示を飛ばすが、その声には焦燥も滲んでいた。――このままでは数時間も経たぬうちに、血まみれの戦闘に突入するかもしれない。
「……どうにか、ならないの……?」
小さく呟いても、答えは返ってこない。オーク仲間たちも、戦いに疲れきっている。しかも、負傷や病気、飢えなどが蔓延する今、まともに集落を防衛する戦力が揃っているとは言い難い。私はあの夜の悪夢を思い出す。槍や魔法で無慈悲に襲いかかる人間の集団。傷つく仲間を癒そうと必死に手を伸ばしても、間に合わず散っていく光景。――もう二度とあんな惨状は見たくない。けれど現実は非情だ。ここに踏み込めば、冒険者が見逃してくれるはずなどない。
その後、森のほうから人間の声がいくつも重なり合って響いてくる。「この先にオークの巣があるって話だぜ……」「たいした報酬にはならないが、金にならないよりマシだ」などと軽薄で乱暴な口調がこぼれ、時折子どもがはしゃぐような笑いが聞こえる――どうやら実戦経験の浅い下級冒険者のようだ。油断しているかもしれないが、だからといって楽に勝てる相手ではないだろう。彼らは“ギルド”という後ろ盾に守られながら、魔物退治の名目で森を闊歩し、遠慮なく殺りたい放題をする。もし状況が悪化すれば、上級冒険者や騎士団が援軍として駆けつける可能性すらある。
やがて、冒険者たちの足音が集落へ近づいてきた。あと少しで、こちらが発見される。オークの仲間のひとりが居住スペースの木陰に弓を構えようとしたが、腕が震えて狙いが定まらないのがわかる。まともな装備も矢の本数も足りない。あまりに分が悪い戦いだ。――そのとき、私は無意識のうちに足を踏み出していた。心臓が早鐘を打ち、何をすべきかなど頭では整理できていない。ただ、力なく立ちすくむ仲間たちを放っておけなかった。
「……どうか、助かって……!」
胃の奥がひっくり返るような恐怖を抱えながら、私は胸の奥の“何か”に祈った。家族を守れなかった無力さを、今度こそは繰り返したくない。オークとして生きることにまだ戸惑いは消えない。でも、仲間が死ぬ姿を黙って見ていることだけは耐えられない。呼吸を整える暇もなく、私は森の入り口付近に出て、そこから覗く複数の人影を凝視した。案の定、防御も甘い下級冒険者が入り乱れている。魔法使いのような服装の人間、軽装で短剣をぶら下げる剣士、革鎧にごつい鈍器を持った者……。どいつもこいつも、若い面をした連中が笑いながら雑談する。世界を救う勇者などではなく、“人を傷つけること”に無自覚な、危うい連中だ。
私は懸命に声を上げようとした。しかし、出てきたのは荒々しいオークの唸り声で、「グルル……!」という威嚇にも似た音になってしまう。案の定、冒険者たちはそれを聞きつけ、真っ先に武器を構えた。見つけた獲物を仕留めるように、笑みを浮かべる者すらいる。――ダメだ、やはり言葉で分かり合うのは無理なのか。胸にこみあげる悲しみと諦念。彼らは“また退治対象を発見した”とばかりに、散開しながら包囲の準備を始めた。
すると、そのとき奥の影から雄オーク数名が吠え声をあげ、こちらへ加勢する形で飛び出してきた。まだ体は万全でないが、なんとか弓や棍棒を掲げて、冒険者たちへ威嚇する。冒険者のほうも「おい、あんまり数は多くないみたいだぞ?」「よし、ここで一気に撃退してやろう」と興奮気味に叫び合う。両者の間に漂うのは圧倒的な殺気だけ。私は恐怖で頭が真っ白になりつつも、数歩後ろへ下がった。――また血が流れる。分かっていても止める手段がない。
結局、激しい小競り合いが始まった。槍を突き出して前に出る冒険者に対し、オークの雄たちは棍棒で応戦するが、吐息が荒く、動きが鈍い。森で潰えかけた体力が回復していないのだろう。敵の槍は鋭利ではないものの、的確にオークの太い腕や胴体を狙ってきて、赤い血が飛沫をあげる。悲鳴にも似た咆哮が空気に混ざり、息苦しさに喉が焼けるようだった。




