第11話 夢現の狭間
集落に夜の帳が降り始めた頃、私たちは大鍋を囲んで食事をとった。森を揺らす風は肌を刺すほど冷たく、空には相変わらず不穏な赤い月が浮かんでいる。周囲の雰囲気こそ物々しいが、何よりも目の前の温かいスープが、その暗さを少しだけ和らげてくれるようだった。雄オークたちは口々に「グルル!」と威勢の良い声をあげ、木の椀いっぱいに注がれたスープを一気に飲み干していく。怪我を負っている者も、ゆったりと腰掛けて苦しそうにしながらも、やはり湯気の立つ飯には手を伸ばさずにはいられないらしい。ときおり、仲間同士で肩を叩き合うような仕草も見られ、まるで“地獄のような日常”の中に、ささやかながらも団らんの時間が生まれていた。
小柄なオークの子どもたちは、私が刻んだ紫の根菜や、塩でもんでから投げ込んだ肉のかけらを興味深そうに覗き込み、張り付くようにこちらの様子を窺っている。ときにブクブクと煮え立つ泡を手で潰そうとして、周囲の大人に“やめろ”と叱責される場面もあり、けれどひとかけらの悲しみも見せずにキャッキャと笑い転げる。それを見ていると、つい私も笑みがこぼれる。自分の子どもたちがまだ小さかった頃、台所で火を使うたびに同じように覗きに来ていたのを思い出すからだ。
一方、リーダー格のオークは黙々と食事をとりながらも、しばしば遠くの森へ視線を送っていた。おそらく次に人間が襲ってくるのを警戒しているのだろう。――幸い、この夜は何事もなく更けていった。昔の家族団らんとは比べ物にならぬほど粗野な宴だが、そこに“誰かと食事をともにする”という温もりが確かにあった。私は煮込みが煮詰まらないようにかき回しながら、まるで“主婦”だった頃のように、オークたちの器の減り具合を気にかけている。笑えてしまう。自分がこんな姿になっても、こうしてご飯を振る舞うことは変わらないのだ、と。
翌朝、集落はいっそう慌ただしく動き出した。若い雄オークたちが二手に分かれ、周囲の森で狩りをする者と、拠点候補地を再確認する者に振り分けられたようだ。私は雌オークたちと共に留守役として残り、子どもの面倒や傷病者の看護、食料を整理する仕事を担う。もどかしい気持ちもあるが、今の私には武器を扱う力もない。今できることをしないと、誰も私を必要としなくなるかもしれない――そんな不安すら脳裏をよぎった。
それから数日間は、比較的穏やかで平和な時間が流れた。時折、森の奥で謎の足音を聞いたという報告や、数名の冒険者らしき影を見たと耳にすることはあったが、大きな襲撃に発展することはなかったようだ。オークたちはそんな日々の中で、傷を治し、森の資源を活かした道具を補強し、次なる戦いに備えている。あるいは、いつか訪れるかもしれない“新拠点”への移動の準備を、少しずつ進めていた。
私が特に印象的だったのは、数名の雌オークに誘われて森の“薬草探し”に出かけたときのことだ。森の奥には薄暗く苔むした大木が群生し、その根元にはさまざまな種類の草花が自生している。オークたちは薬効のある植物を見分ける嗅覚や知識を持っていて、煎じて飲めば清熱作用があるもの、炎症を鎮めるものなどを上手に選り分けていた。私には判断が難しいので、彼女たちが摘むのを手伝いながら何度も見学する。すると、彼女たちは「グルッ、グアッ」と声色を使い分け、その草の特徴を説明しているようだった。
その最中に、私は奇妙な匂いのする紫色の花を見つけた。他の草と混ざっていたが、圧倒的に毒々しい見た目をしていて、思わず触れるのをためらうほど。それを雌オークの一人に示すと、彼女は目を剝き、あわてて私の手を振り払った。そして、周囲のオークたちに大声で何かを呼びかける。どうやらかなり危険な植物らしく、その“花粉”や“茎”に触れると重度の麻痺を引き起こす可能性があるらしい。森の奥には、こうした危険な植物も多いのだ。雌オークたちは手際よくその花を処分し、私に「これ以上は近寄るな」と厳しく言い含めるようにうなずく。
――この世界は、美味しい果実や薬になる草がある一方で、命を奪う毒草も隣り合わせに存在する。オークたちが、それらを慎重に使い分けながら生き延びているのを見ていると、本当に逞しいと思えてならなかった。人間より“野蛮”なイメージが先行するオークだが、少なくともここにいる彼らは、日常を守るために懸命に足掻いているし、独自の文化を築いている。この居場所を、私は大切にしたい――そう感じ始めたのはこの薬草探しの日からだったかもしれない。
そんな日々を送っていたある晩、私は夢を見た。荒涼とした風景の中、旦那と子どもたちがぼんやりと遠くに立っている。私は必死で声を上げようとするが、口がうまく動かず、「グル……グアッ……」というオークの唸りにしかならない。旦那は携帯電話を見ながらすぐにどこかへ行ってしまい、子どもたちはスマホをいじったまま私など見ていない。私は追いかけようとして、泥のような大地に足を取られて転んだ。すると両腕がたちまち灰色に変色し、牙がのぞく自分の顔が土に映って見える。――もう私は人間の姿じゃない。二度と家族に気づいてもらえない。そう悟った瞬間、喉の奥から絶叫がこみ上げた。
飛び起きたとき、夜の森が冷ややかに静まっているのを感じた。遠くでフクロウのような鳴き声がせわしなく響いている。何度も深呼吸を繰り返し、地面に敷かれた干し草の寝床を確かめる。――夢、だけど、決して笑い流せる悪夢ではなかった。もし私がここで暮らし続けるのなら、家族との再会は絶望的だ。自分の中のわずかな“帰りたい”という想いが、次第に薄れつつあることに気づいてしまった。いや、自ら記憶を薄れさせようとしているのかもしれない。胸の痛みがずきりと走り、呼吸がうまくできなくなる。
その夜はもう眠れそうになかった。私はそっと立ち上がって集落の外に出る。警戒のために焚かれた小さな焚き火に、ひとり腰掛けるようにして暖を取りながら空を見上げた。――闇の中でもギラつく赤い月は、まるで血を吸い上げて肥大しているかのよう。私はそっと目をそらす。頭の中には家族の面影と、オークたちと生きる覚悟のあいだで引き裂かれそうな思いが渦巻いていた。どちらを選んでも、失うものばかりが増えていくような気がする。自分はどれだけ弱いのだろう。――温かな場所を求めながら、一度もそれを得られず、ただここまで流されてきただけなのかもしれない。