第10話 分かち合う幸せ
そんな穏やかな数日が過ぎた頃、森へ遠征に出たはずのグルドたちが戻ってきたという報せが届いた。集落の入り口付近に立っていたオークが大声で叫ぶのが聞こえる。私は急いで外へ飛び出した。遠くから見える一行の姿は疲労困憊で、まとまりのない足取り。リーダーの背には大きな傷跡が増え、グルドの腕にも血がにじんでいる。どうやら道中で戦闘があったらしい。
駆け寄った私に、グルドは苦笑混じりにうめき声をあげた。私はすかさず彼の腕に手をかざして回復魔法を試す。いつもより気持ちが焦っているせいか、黄緑色の光が一瞬煌めいたが、そのまま弱々しく消えていった。――足りない。焦ってもうまく力が引き出せないのだろうか。リアルに戦場をくぐり抜けたかもしれない深い傷には、とても追いつかないかもしれない。
「グフ……ガル……」
グルドは弱々しく声を漏らし、血で汚れた腕をだらんと垂らす。ほかのオークたちも皆、重傷ではないものの他所での激しい争いを示す痕跡が明らかに残っていた。私は心を鎮めようと息を吸い込み、再び両手をかざす。――どうか、一人でも多く救わせて。念じながら、必死に回復魔法の力を拾い集めるイメージを描く。子どもが転んで泣いたとき、そっと手当てをしたあの感覚。あの温もりを思い出すように、内なる母性を呼び起こす。
すると、再び淡い光が手のひらから広がり、グルドの腕を緩やかに包み込んだ。血が止まったかどうか、傷口が深いかどうか、すべてを確認する余裕はなかったが、彼の苦悶の声がやや和らいだのを感じて少しだけほっとする。周囲の雌オークたちも私を手伝い、傷薬の調合を始めてくれた。薬草を潰して作ったペーストを、私の回復魔法がかかった布に塗り込む。すると、グルドの肩が微かに弛緩し、痛みが引いていくのか、深い息をついた。
「グ……ゴ……グア……ッ」
彼はなにか言いたげに、私の手をギュッと握る。まるで「命を救われた」と感謝を伝えるように。その目には知らず涙が浮かんでいるように見えた。オークが泣くという発想はなかったが、人間でも動物でも、苦痛が和らいで安堵すれば自然と涙がこぼれるのかもしれない。この瞬間、私の胸には言いようのない温かいものが広がり、“自分の存在が誰かに必要とされている”という実感が押し寄せてきた。
とはいえ、彼らの表情は決して晴れやかではない。遠征の成果としては、“森の奥には確かに安全そうな隠れ場所がある。だが大勢が生活するには問題が多い”という報告らしい。加えて、道中で下級冒険者の一団と遭遇し、戦闘になったという。怪我人は出したものの、倒した人間の装備をいくらか奪ってきたらしい。ただ、それを誇らしげに語る者はおらず、むしろ苦い顔をしている。人間たちの装備には‘ギルドの紋章’らしき刻印が施されていて、今後彼らが本格的に森を捜索しに来るのではないかと警戒しているようだ。
『……また戦いが来る……』
もちろん声に出して言ったわけではないが、喉の奥で呟いたその言葉が、妙にリアルに響く。こんな不安定な場所で、オークの力だけで生き続けるには限界がある。だからといって、私が何か画期的な方策を講じられるわけでもない。頭の中は混乱していた。――自分は、何の役に立つのだろうか。回復魔法で傷を癒やすだけで未来は開けるのか。元の世界にいたときもそうだった。掛け持ちの仕事も、家事育児もすべて“何とかやってはいる”が、それが自分の幸せや家族の絆に繋がったかというと、決してそうじゃなかったのだ。
しかし、今の私は、かつての絶望のどん底で塞ぎ込んでいるだけの自分とは違う。少なくともこの世界では、私が“手を伸ばす意味”が目の前にある。同胞と呼ぶにはまだ戸惑いがあるかもしれない。けれど、こうして傷ついたオークを救い、彼らの笑顔や喜びの声を聞くことができる。誰かに必要とされる実感が、辛くとも私を前へ押し出すのだ。
グルドや他の負傷者の様子をいくつか確認し終えたころ、雌オークたちが大きな鍋を用意し始めた。どうやら獲物を手に入れ、久々に“まともな食事”をする計画だったらしい。――狩りに成功したのか、それとも倒した冒険者の装備の中に保存食があったのか。詳しい話は分からなくても、食欲をそそる匂いが鼻をくすぐれば、自然と人は集まってくる。オークたちは必要最低限の言葉しか交わさないようで、黙々と作業を運んでいるが、その表情には少しだけ希望が見えるように思えた。大変な戦いを乗り越えても、一瞬の安らぎが得られるなら、それは何よりだ。
私も何か手伝おうと目を走らせていると、ふと幼いオークがギュッと私の手を引いてきた。大きな鍋の近くに連れて行かれ、どうやら野菜らしき作物をちぎって放り込む作業を手伝えということらしい。ここの野菜は見たこともない紫色の根菜や、苦そうな草のような葉など、どれも独特だ。でも、私には“主婦”として料理をしてきた経験がある。日本の料理知識とは違うが、どうにか上手くやれるのではないかと胸が弾んだ。子どもたちは私が皮を剥こうとする仕草に興味津々で、口をぽかんと開けて見つめている。
包丁もなく、石の刃を利用した不安定なカッターでゴリゴリと削るように皮を剥く。多少不細工になってしまったが、やわらかい果肉が出てくると、子どもたちは「グオッ!」と感嘆の声を漏らす。私は少し得意げに胸を張り、その野菜片を大きな鍋へそっと入れた。煮立っている液体からは、既に野趣あふれる強烈な香りが立ち上り、鼻を刺激する。――こういう“食事作り”の場面では、なぜかいつも心が落ち着く。それはきっと“家族にご飯を作る”ことに慣れていた私が、その場の空気を味わえるからなのだろう。
手早く野菜を風袋から出しては刻み、他の雌オークにも手伝ってもらいながら、やがて大鍋には具材がぎっしりと詰まった。肉のそぼろ状のものや赤い果実を混ぜて煮込む独特のスープは、見た目こそ豪快だが、どこか旨みがありそうで唾液が湧く。煮込むあいだ、煮立ったアクをすくい取る道具を探したが、そんなものは見当たらない。仕方なく木の皿を傾けてアクを浅くすくい、そのたびに子どもたちから歓声が上がった。「ガフッ、ガフッ」と喜ぶ声に、私までほっこりと微笑んでしまう。
――すると、ひときわ大きな声でグルドやリーダー格たちが集落の中心に戻ってきた。彼らの穏やかではない面持ちを見て、一瞬嫌な予感が過ったが、同時にこのスープの匂いにホッとしたような表情にも見える。どんなに厳しい戦いが待ち受けていても、今はひとまず腹を満たして休息を取るしかない。そんな暗黙の了解があるかのように、リーダーが大鍋を見ながら静かに頷いた。
仲間が帰ってきて、そこに煮え立つ熱々のスープや肉料理があれば、自然とみんながそちらへ集まってくる。特にグルドは怪我の痛みをこらえながらも、私の姿を見つけるとニッと牙を剝いて笑い、「グフフ……」と低く喜びを表現した。皆が囲む中で、大きな木の器にスープが注がれる。それを目にした瞬間、私はなぜか胸が温かくなると同時に、ほろ苦い思いがスッと浮かんだ。――日本で一家団らんの食卓を囲んだのは、いつのことだっただろう。
あの頃、私は仕事や家事に追われ、家族が揃う夕食などほとんどなかった。旦那は外食、子どもたちは勝手に済ませる。せっかく作った料理は片付けられないまま冷めていき、そのうち誰も興味を示さなくなる。そんな孤独の記憶が、異世界の森に佇む今の私に警鐘のように思い出される。――ああ、あそこにいた私と、今ここで一緒にスープを作っている私は、同じ人間なのか。それとも何か新しい生き物になってしまったのか。
やがて大鍋から立ち上る湯気に誘われるように、オークたちの間に笑い声が弾みはじめ、小さい子どもを抱えた雌オークが遠巻きにその様子を眺める。夜を迎えるころには、私たちはおそらくこの鍋を囲み、ささやかな“宴”を開くことになるのだろう。食材は決して豊富ではないし、悲惨な戦いの傷痕もまだ痛々しい。それでも、温かい食べ物を分かち合える一瞬があるだけで、私たちは明日への一歩を踏み出せるのかもしれない。
それがこれからどれほどの苦難や絶望、血塗られた闘争に塗り潰されるかを、今はまだ誰も知らない。私も、手を動かしながら“いつかまた冒険者が襲い来るのではないか”という不安を拭い去れずにいる。だけど、今この瞬間はオークたちと共に健気に生き、心のどこかで少しだけ笑顔を取り戻した自分を感じていた。
こうして私とオークの仲間たちは、まるで血の匂いを忘れるように、夕闇が迫る森のなかで鍋を囲んで笑い合う。“家族”とは呼べないけれど、互いに支え合う新たな絆が、日は浅くとも少しずつ育まれはじめていたのだ。