第1話 日常の綻び
私の一日は、決まって朝の五時半に始まる。弁当づくりと朝食の準備、子どもたちの着替えを確認しながら洗濯機に回す服を探し、出勤前の旦那の書類カバンをテーブルに置いて、深い呼吸を一つ――。この数年、ずっと変わらないルーティンだった。私は四十一歳。郊外の小さなスーパーでレジ打ちのパートをしている傍ら、週に数回は更に掛け持ちの清掃のパートにも出ている。家族の生活を支えるためには仕方ないと思っていたし、“妻”や“母”がやるべきことだと信じていた。
だが、もうここ数か月は心が折れそうだった。旦那は出張が多く、家にいても飲み会やゴルフの話しか頭にない。たまに顔を合わせたと思えば、私の手料理にはほとんど手を付けず、「最近さぁ、店で食べるほうが安くて美味しいんだよ」と冗談めかして笑うばかり。そして私より仕事で稼ぐ自信があるのか、「家計が大変なら、もっと時給の良いところに勤めれば?この年じゃキツいかもしれないけどさ」と軽口を叩く。子どもたちももう中学生と高校生、反抗期が重なっているせいか、私が声をかけてもスマホ画面から視線すら外してくれない。きっとただの“便利な召使い”か“うるさいだけの母親”くらいに思っているのだろう。
そんな荒んだ気持ちを抱えたまま、ある日私は大失敗をした。朝食の準備中に洗濯物を干す時間がなく、子どもが「今日の体育で使う体操着が湿ってる!」と喚き、旦那は旦那で「出張準備がまだ終わってない」と出際に書類をぶちまける。あっちとこっちで火種が飛んでいるような修羅場だった。結局、子どもを送り出す頃には私もすっかり疲れ果て、化粧をする間もなく慌ただしく家を飛び出す。間に合うはずだったバスは目の前で行ってしまい、次を待てばシフトに遅刻確定。結局タクシーで勤務先へ急ぐ羽目になってしまった。
昼頃、スーパーのレジ休憩で社員用の休憩室に腰を下ろすと、重だるい疲労感がぐっと押し寄せる。店長や同僚たちは忙しそうに立ち回っているし、私の居場所も気持ちも、すでにどこか消えかかっているようだった。少しでも睡眠時間を確保したかったけれど、掛け持ちの掃除バイトが夜には待っている。休日もろくに休めず、家族のために細切れの時間をつなぎ合わせ、ただただ無我夢中で走り続けてきた――その結果が今の“限界寸前の私”だった。
夜のバイトから帰ってきても、自宅には誰の気配もない。旦那は「取引先と飲みに行く」と言い残し、子どもたちも勝手に外食かコンビニ飯で済ませるのが当たり前になっていた。私は買ってきた割引弁当をテーブルの隅で広げ、プラスチックの箸を持ってぼんやりとする。誰も帰ってこない暗いリビングに蛍光灯の音だけが響き、まるで“そこに人は住んでいない”家のようだった。
『……わたし、何してるんだろう』
そう呟こうにも、声が出なかった。家族を支えるために頑張ってきたはずが、それを誰も望んでいないかのような現実。身体と心をすり減らす日々に、ふと虚しさが広がる。母親だから、妻だからと自分を奮い立たせてきても、私以外の誰もその思いに気づかない。むしろ誰も気にも留めない。まるで人間関係が壊れていくのを眺めるだけの部外者になった気分で、冷え切った部屋を見回した。
その日はもうヘトヘトで、夕食をとった後の記憶すらあやふやだ。少しでも布団に倒れ込みたいと願いながらベッドに向かい、スマホを充電器に挿すと、そのまま意識が遠のいていった。ほんの数分のまどろみだったかもしれない。けれど私には、それが永遠にも等しい“解放”に思えた。眠りだけが私に安らぎをもたらしてくれる。それが逃避だと言われようと、もう構わなかった。
そして――。
遠くから、強い風の音が聞こえた。薄い布団を剥ぎ取られたような感覚と、乾いた土の匂い。そして私は、信じがたい光景に出くわすことになる。目をこすり、何度まばたきをしてもそこは見慣れた寝室ではない。どこまでも広がる荒野の大地が、赤い朝陽に染まっていた。
『え……何、ここ……?』
頭が混乱する。私は確かに今日もパートと掃除のバイトを掛け持ちし、疲れ切ってベッドに倒れ込んだはずだ。けれど、硬い地面に手のひらをついている感触は明らかに夢ではない。むしろ痛いほどリアルだった。吐きそうなほど冷たい風が頬を打ち、身体に寒さを突き立てる。おまけに、この身体に何かがおかしい。
まず視界がずいぶん低い。いつもより自分の目線が地面に近い。ただ単に地面に座り込んでいるだけではないようだ。手を動かすと、それは“太く、灰色がかった腕”に見えた。自分の皮膚の感触にしてはあまりにも粗くて分厚い。慌てて胸元に触れてみると、どこか巨大で硬い筋肉の塊がある。そして喉から漏れた声すら変だ。意図せずに出した唸り声が、まるで野獣の咆哮のように聞こえた。
『なに……これ、私……?』
頭がうまく回らず、震える手で自分の顔――いや“獣じみた大きな鼻”をまさぐる。そこには人間離れしただんご鼻に似た突起があった。さらに唇――いや牙に近い前歯が二本、無骨に突き出している。髪の毛もゴワゴワしていて、質感が異様に固い。思わず私は喉を鳴らし、声にならない叫びをあげた。まさか、小説やゲームで見かけるような“オーク”になってしまったとでもいうのだろうか。
言葉にできない恐怖が体を駆け巡る。急に思考がまとまらなくなり、私は荒野の地面に膝をついて震えた。なぜこんな場所にいるのか。なぜ私の姿がオークなのか。旦那は?子どもは?みんな一体どこへ行ったのか。いや、それ以前にここはどこだ。日本じゃない、少なくともあの寝室じゃない。いくら考えても答えが出ない。混乱が極限まで高まり、涙とも唾液ともつかない液体が、口元から垂れ落ちる。
時間の感覚がまるで消し飛んでいた。ほんの数秒であったかもしれないし、数時間だったかもしれない。ただ涙をこぼした自分の顔を、汚れた手の甲で拭おうとしたとき、ようやく少しだけ冷静になった。朝日が昇り始め、地平線に赤い光が広がっている。――とにかく、こんな何もない場所でジッとしていても仕方ない。私はフラフラとした足取りで立ち上がった。
不思議なことに、体は重いのに力が入りやすかった。腕の筋肉がやたら発達しているぶん、ドスドスと足元が安定しないが、不思議な安定感がある。おそらく走れば人間の頃の比ではないパワーを発揮できそうだ。しかし同時に、服もまったく合わない。いつの間にか胴体に粗末な獣皮らしき布をくくりつけているだけなので、肌はむき出しのままだ。あまりに恥ずかしい姿に「ああ、なんでこんなことに」と視線を落とす。だが、羞恥心よりも不安や恐怖のほうがはるかに上回る。
『ちょっと、待って。落ち着け、私』
声を言葉にしようとすると、どこか野太い響きが混じる。もはや自分の耳にも馴染まない。こうして喋っていないと、気が狂ってしまいそうだった。――帰らなきゃ。家に帰って、あの子たちの洗濯物を取り込んで、それから晩ご飯の買い出しに……。そう思いながらも、突きつけられる現実はあまりに理不尽。まわりには荒れ果てた大地だけが広がり、空すらもどこか鈍い赤灰色に濁っている。
わずかに見えるのは遠くの地平線上に、黒ずんだ木々のシルエットがうっすら映っているだけ。森があるなら、せめて水や木の実くらいは手に入るかもしれない。私は最後の望みに縋るように、そちらの方向へ歩き始めた。
荒野を歩きながら、ふと子どもたちと旦那の顔が脳裏をよぎる。正直、今となっては“なぜ急にこんな異常事態が起きたのか”さえ飲み込めず、ただ混乱するばかりだ。夢、なのかもしれない。でもあまりにも生々しすぎて、夢だというには痛みも、寒さも、むせるような大気もリアルすぎる。
『一体、どうなってるの……』
幾度となく呟いても答えは返ってこない。大地は硬くひび割れ、ところどころに転がる大きな石はまるで墓石のように荒涼としていた。ふと足元を見ると、何か動物の骨のようなものが風にさらされている。嫌な予感が全身を覆い、横目で見ぬふりをしつつ、急いでその場を離れた。
日はまだ朝だというのに、陽光は濁りきった空に阻まれて力がない。その薄暗い世界の中を、私はただ歩く。そんなとき、かすかに草木のような匂いが鼻を掠め、遠くで鳥の声らしき音が響いた。人間のころより鼻が利くのかもしれない。助けを求めるなら、少なくとも生き物のいる方向へ行くしかない。そう思い、私は半ばすがる思いで足を速めた。
――それからどのくらい歩いただろう。やがて視界が開け、遠くに森が見え始める。鬱蒼とした森林が壮大に広がっている……というには少し薄暗く、どことなく不気味な雰囲気をたたえている。だが、ほかに行く宛もない。私は喉の渇きと空腹を感じながら、慎重に足を進めた。この身体、やたらエネルギーを消費するのかもしれない。とにかく喉がカラカラで、腹の奥から鳴るような渇望感が襲ってくる。
森の入口に差しかかると、木の枝や根が絡み合って足元が悪い。さらには絡み合うツタや密集する葉の奥には、小動物らしき気配がガサガサと動いているのがわかる。彼らは私を怪訝そうに警戒し、すぐに逃げ去ってしまう。むやみに追いかけても仕方ないし、この醜い姿で追い回したらますます嫌われるだろう。
森の中を進むうち、森の中心へと通じる少し広めの道を見つけた。土が踏み固められているところを見ると、きっと誰かが通っているのだろう。こんな異世界めいた場所で、助けになる人間――いや人間じゃなくても誰か生き物がいればと思う。そして、そこで初めて私は恐怖を抱く。もしここで出会うのが危険な存在だったら?私の姿も、どう見ても人間とは呼べない“魔物”のそれだ。下手に姿を見せればすぐ狩られるかもしれない。
『どうしたらいいの、こんなの……』
もう考えても仕方ない。とにかく、一歩でも進むしかないのだ。歩かずにこの荒野や森に取り残されれば、飢えと寒さで死ぬだけ。そう覚悟を決め、地を踏みしめる。日頃のパートや家事育児の疲れとは違う、背筋に襲い来る恐怖。それでも私が震える足を動かせているのは、かすかな希望を捨てきれないからかもしれない。家族に蔑ろにされて疲れ果てたとはいえ、完全に見捨てたわけじゃない。まだ私が生きて、どこかで真相を確かめられるなら、何とかして元の世界に帰りたい。いつかまた家族に優しい言葉をかけてもらえるなら、私の頑張りも報われるはずだ、と――。