33.奈落(2)
理詰めで反論されたら、かなわない。
碧が口を開く前に、さっと陽は離れた。
鏡と鏡の間から、裏へ入っていく。
すぐ左下に、桃がいた。
大きな姿見の裏側に、小さな体が、へばりついている。
頭も手足も引っ込めた、ダンゴムシのポーズだ。
ここから飛び降りると聞いた途端、ずっと、こうしていたのだろう。
その後の話は、耳に入っていないに違いない。
思った通りだ。
よし、みかげが先だ。
陽は、床に座り込んだ人形の方に近寄った。
「ちょっと移動してくれるかあ」
ここだと、ちょうどコース上になってしまうのだ。
ちゃんと断りを入れてから、みかげの両脇を持ち上げる。
そのまま、陽は、みかげを鏡の真裏へと動かした。
やっぱり、されるがままだ。
ずりずりと、かぼちゃも床を付いてくる。
実の色が変わっていた。黄色から、薄いオレンジ色に熟し始めている。
表面の果皮をまじまじと見て、陽が表情を曇らせた。
うん。やっぱり急いだほうがよさそうだ。
暁が、にじり寄ってきた。こっちも、床をずりずりだ。
「いつのまに……」
こんなふうになっちゃったの?
続く言葉は、悲し気に萎んでしまった。
みかげは、スカートが乱れているのにも構わず、ぼんやり座り込んでいる。
なんとか直してあげようとしながら、暁は陽に問いかけた。
「うん。もう、喋れないみたいだ」
その様子を見ながら、陽は確信していた。
うん。暁になら、きっとできる。
「暁、みかげを頼む。いっしょに連れて降りてくれ」
みかげの過ちを許し、助けたいと願ってあげられるのだから。
手を差し伸べて、引っ張ってやることだって、きっとできるはずだ。
暁が、はっと陽を見上げた。
改めて見ても、人形さながらに整った容貌だ。
だが、人形じゃない。
青ざめていても、生き生きと動く表情。
そして、強い眼差し。
「……うん。わかった」
少しの間があったが、暁は頷いた。
恐怖も、迷いもない。意思の籠った返事だ。
よかった。これで行ける。
陽は、しっかりと頷き返した。
隣に立つ鏡の麓で、妹が小さく蹲っている。
「桃、」
陽は、柔らかく呼びかけた。
だが、反応がない。細かく震え続けている。
顔をあげることすら、できない様子だ。
陽は、なるべくゆっくりと近づいた。
驚かさないように、桃の肩に優しく触れる。
「よいしょ」
わざと声に出して、抱っこした。
しかし、なんて豪華なドレスだろう。
ごわごわした生地のスカートが、ぶわりと広がる。抱っこしにくいこと、この上ない。
ようやく、桃が口を開いた。
「むり……。できない。おにいちゃん、わたし、むり……」
かたかたと震えながら、小さく繰り返す。
そうだよなあ。
西センターの透明階段ですら、怖いんだ。
こんなの無理に決まってる。
きゅっと強く抱いてやった。
応えるように、桃が、しがみついてくる。
顔が、陽の胸元に埋まった。
よし。これで、もう何も見えない。
そこに、碧が近づいてきた。
何か言いたげだ。
「碧、もっと鏡の裏側に寄ってくれ」
かまわず、陽は顎で指し示した。
無作法だが、両手は塞がっている。
そこじゃ、進路の真ん中なのだ。
思わず、碧は言われた通りに動いていた。
隙間を隔てた反対側には、暁とみかげが座り込んでいる。
いや、なにやってるんだ、俺は。
陽に話さなくちゃ。
「よ」
名を呼びかけたところで、陽が桃に語り掛けた。
「大丈夫だよ、桃。あれさあ、ぜんぜん深くないんだ。お兄ちゃんに掴まってれば、すぐにエントランスホールに着くよ」
あまりの驚愕に、碧の声は凍り付いてしまった。
頭も、真っ白だ。
陽が嘘をついた!?
あの陽が?!
同等の衝撃を、暁も喰らっていた。
信じられない。
陽が嘘をつくなんて?!
しかも、あからさまな嘘だ。
案内板は、「非常に深い」と言ってたんだから。
「馬鹿」が頭に付くレベルの正直者。
地獄の閻魔様だって、舌を引き抜くどころか、舌を巻くに違いない、あの陽が……。
桃は、お兄ちゃんの胸に顔を埋めたまま、こくんと頷いた。
そっか。よかった、そうなんだ。
それでも……やっぱり怖い。
怖いよ、お兄ちゃん。
碧と暁は、息を詰めて、陽の顔を見つめた。
顔面機能は、いつも通りだったからだ。
思っていることが、そのまま浮かんできた。
次々に……。
ごめん、桃。
俺は嘘をついてる。
でも、しかたがないんだ。
どうか騙されてくれ。気付かないでくれよ。
ああ、そうか……。
碧は、心の中で唸った。
暁も、納得した表情に変わっていく。
二人とも、もはや何も言えなくなってしまった。
しん、とした空間に、陽の靴音が響いた。
鏡から少し離れて立つと、改めて、がっちりと桃を抱え直す。
よし。絶対に離さない。
最悪の場合、俺が下になって落ちる。
妹だけでも助ける。
「じゃあ、先に行くなあ」
にこり
陽は、暁と碧に笑顔を向けた。
二人は、強張った顔をこっちに向けて固まったままだ。
返事を待つつもりはなかった。
怖気づいた「待った」を掛けられても、まずい。
やにわに、陽は駆け出した。
鏡と鏡の隙間を目指して、真っすぐに走る。
これは走り幅跳びなんだ。
体育のときと同じでいい。
ただ、大切な宝物を抱えて飛ぶだけなんだ。
鏡を抜けた。ここで踏み切れ!
「っっ!!」
食いしばった口から、くぐもった気合の声が漏れた。
体が宙に踊る。
両腕に力を込めた。その瞬間、落ちた。
「陽っ」
腰が砕けそうになって、碧は鏡に取り縋った。
暁は、半分寝っ転がった格好だ。上体を伸ばして、鏡の隙間から弓形の穴を凝視している。
もう見えない。
どうなった? なにか聞こえてくるか?
碧は耳を澄ました。
首から下は、がくがくと震えているのに、なぜか頭は冷静だった。
そうしろと、体に厳しく指令を飛ばしてくる。
かたかたかた……
細かく震える音。
音だけじゃない。揺れている?
『奈落の第二段階が発動致します。先ほどよりも強い振動を伴います。お気をつけ下さい』
案内板がアナウンスした途端だった。
遠慮なく、ゆさゆさとステージが揺れ始めた。
まるで地震だ。
暁が、とっさに頭を両腕で庇って伏せた。
『繰り返します。衝撃に備えて下さい。発動まで、残り13秒。12、11、』
碧は、鏡の縁に手を掛けたまま、しゃがみ込んだ。
とてもじゃないが、立っていられない。
淡々とカウントダウンが続く。
『6、5、4、3、2、1、』
【次回予告】
34.崩落
6/14㈯の朝7:10に(1)、お昼の12:10に(2)を投稿致します。
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