第6話 希望
この作品は残酷描写を含みます。苦手な方はブラウザバックをすることをオススメします。
第6話「希望」
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バタバタと病院内を駆け抜ける。看護師の止める声なんて耳に入らない。俺はただ一つ、何よりも大切にしていた存在のことを考えて走り続ける。
「花音っ、花音っ!花音!」
家の前で血まみれで倒れていたという連絡。近隣住民の女性が救急車を呼び、運ばれたと聞いた。
「花音、花音、花音、花音、花音っ!」
奥底にいる何かが込み上げてくる感覚。俺はこれを知っている。母が亡くなった時と同じだ。
嫌だ。
花音だけは失いたくない。嫌だ、嫌だ、嫌だ。
「落ち着きなさいっ!」
突然、腕を掴まれて俺は尻もちをつく。ハッとして振り返ると、額に汗をかいた看護師が息を荒らげてこちらを見下ろしていた。
「花音さんは……今、治療中だから……っ、……こっちとは逆の病棟にいるのよ……!」
「あ………、そ、そう……なんですね……」
ようやく落ち着いた俺を、やれやれと言った様子で見る看護師。
俺はというと、さっきの衝撃で変に心が静まり返っていた。花音が治療中だと聞いて安心したから?
いや、違う。
慌てることで嫌な未来を予感してしまうから拒否しているんだ。
「…………あの、」
「はい?」
乱れた制服を整え、立ち上がると看護師が不機嫌そうに答える。
確かにさっきは取り乱していたが、家族が危険な目にあったんだ。これくらい大目に見て欲しい。
「花音の……妹のいる所へ案内してくれませんか?」
俺がそう言うと、看護師は雑な手招きをしながら廊下を進んで行った。
俺も何も言わず、看護師のあとにゆっくり付いていく。
それから集中治療室まで、俺と看護師は一切口を開くことは無かった。
ひどく重い、淀んだ空気をじんわりと感じてすごく居心地が悪かった気がする。
その後のことは……よく覚えていない。
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「花音がこんな目に遭ったのはあなたのせいです」
一命をとりとめ、治療室で眠る花音。その外からぼぅっと様子を眺めている優花さんを見つけた。
我が子がひどい状態だと言うのに、俺に気づくと優花さんは悪びれもなく「来たの?」と呟く。その様子に腹が立ち、先程の言葉を彼女に投げかけた。
「………私のせい、ね」
眉を下げ、口元を歪めて笑う優花さん。
何がおかしいのだろう。なぜ平然としていられるのだろう。この人は何なんだ。
俺はグッと拳を握り、「何がおかしいんですか!」と怒鳴る。その声が病棟に響き、優花さんは驚いたように耳を塞いだ。
「………それよ、あんたのそういうところが父親にそっくりだわ」
「………は?」
耳を塞いだまま、こちらを睨みつける優花さんは恨めしい表情をしている。
俺は突然、父親の話を出されて戸惑ってしまった。俺と父親が……似ている?なぜ?
俺の疑問を払拭するかのように、優花さんは怒りのこもった声で答える。
「あの人と再婚してから、私は毎日毎日家事にケチつけられて……前の奥さんならできていたとか……っ……!花音の頭が悪いのはお前のせいだとか……!言い返すと怒鳴り返してくるのよ、あんたの父親は!!」
一つひとつの言葉に強い恨みと憎しみを感じた。
優花さんがなぜ俺に対してキツく当たるのか。父親がなかなか家に帰ってこないのか。
全てのピースがぴったりはまったかのように答えが現れた。
「ちが……っ、お、俺は……父さんがそんなことしてたなんて知らなくて……」
「知らない?そんなこと関係ないわ。あんたが大事なのは家族じゃなくて花音なんでしょう?なぜなら花音が自分の理解者だと思っているから。でもね、史乃さん。花音はまだ幼いからあんたに懐いているだけなのよ。この先、花音があんたから離れていく理由なんて沢山できるようになるわ。それでも花音を愛せる?愛せないでしょう!?」
「な、……俺はどんなことがあっても花音のことを大事に思ってる!」
「嘘よ。花音じゃなくたっていいはず。あんたは自分のことを愛してくれてた母親の代わりを探しているだけ。あんたの愛は嘘なのよ!」
俺の花音を愛する理由が嘘?そんなわけない。母親の代わりだなんて、そんなこと思っていない。
俺は悔しくなり、目の前で笑う優花さんに近づいた。すると、「来ないで!」とつんざくような悲鳴とともに優花さんが後ろへ遠ざかる。
「自分の立場が危うくなったら、怒鳴る。手を出す。怒り狂って私に危害を加えようとする。ほんと、父親そっくりね」
その言葉にハッとし、足を止めた。
俺は今……優花さんに何をしようとしていた?
自分自身の行いにゾッとした俺は、そのまま何も言わずに踵を返す。優花さんもそれ以上は何も言わずに、また花音の眠る治療室の窓の方を眺め直した。
帰りの廊下が長く、暗く、歪んで見える。
病院の外に出ると、雨が土砂降りで降っていた。
俺は持ってきた傘をさして、ゆっくり歩を進める。
雨の激しい音にまみれて耳がよく聞こえない。跳ね返る水しぶきが手を濡らし、足を濡らし、顔を濡らす。
雨のせいで前がよく見えなかったが、気がつくと家の前に着いていた。
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━━━━ねぇ、大丈夫なの?
囁くような声。
その声を知っている。
俺は顔を上げ、部屋の窓の方を向く。
そこにはゴスロリのドレスに身を包んだ少女の姿があった。彼女……ロベリアは窓枠からひょっこり顔を覗かせてこちらに笑みを見せている。
「………また幻覚かよ」
━━━━あら、失礼ね。私は存在しているのに。
ぐったりとベッドに横たわって動かない俺に、やれやれといった様子で歩み寄るロベリア。手に持っていた日傘を開き、ふわふわと漂ってきた。
━━━━願いは定まったかしら?
「んだよ、願いって…」
━━━━願いは願いよ。希望だわ。夢と言ってもいい。
すとんと枕元に着地すると、俺の顔を覗き込んで偉そうに言い放つ。
━━━━そのために私が来たんじゃない!さぁ、言ってみなさいよ。
「………しらねー」
今はそんな気分じゃない。
ロベリアに顔を背けるようにして寝返りを打つと、彼女は慌てて回り込んで目を合わせてきた。
━━━━ちょっと、何なのよその態度?
ひどく耳障りなその声に、俺はカッとして起き上がった。そして、手元にあった枕をロベリアの横スレスレに向かって投げつける。
ロベリアは眉ひとつ動かさず、毅然としてこちらを見据えていた。ぐちゃぐちゃになった枕が力なくだらんと壁に垂れ下がる。
「俺に構うなよ…!」
彼女の真っ直ぐな瞳に耐えられず、俺は毛布を被って横になった。
もう誰とも口をききたくない。誰にも干渉されたくない。ほっといて欲しい!
━━━━ねえ、
「うるさい!あっち行けよ!」
まだロベリアは諦めていないようだ。存在をすぐ近くに感じる。彼女の幼い少女の声が、はっきりと耳に届く。
━━━━もし、あなたの家族が本来あるはずの形で存在していて……あなたが普通の高校生らしい生活を送れていたら、素敵だと思わない?
甘い、囁くような妄言だ。
ロベリアが何度も尋ねてくるこの質問。
「お前は……何が目的なんだよ……」
その言葉にロベリアの言葉が初めて詰まったのを感じた。しかし、すぐに取り直すように言葉を続ける。
━━━━目的はあなたを不幸から救うことよ
「不幸……?」
妙な言い方に、俺は被っていた毛布から顔を出す。相変わらず人形のように固まった表情をしたロベリアが、こちらを真っ直ぐ見ている。
「不幸ってなんだよ」
━━━━不幸は不幸よ、幸せがないこと
そう区切ると、「でも」と彼女は言葉を続けた。
━━━━絶望じゃないわ。希望がないわけじゃないから
「………希望が、……?」
希望ってなんだ。
幸せの可能性?不可能の実現?
俺の望む、最高の未来……?
「なんだよそれ……わからねぇよ」
母親が生きていた世界か?でも、その世界が必ず幸せだとは限らないだろう。もしかしたら、父親と母親が毎日喧嘩をしてギスギスした家庭になるかもしれない。
俺のその考えを読んだのか、ロベリアはにぃっと目を細めて笑う。
━━━━迷ってるの?
「…………」
俺は何が俺にとっての希望なのか分からない。
今だって友達がいるし、花音もいる。これ以上の幸せなんて考えられない。
逆だ。
これ以上の幸せを味わったことがないから知らないんだ。だから、俺には何が幸せで希望になるのかが分からないのだろう。でも、それはある意味幸せなのでは?
━━━━分からないのね
「…………」
ロベリアの言葉に俺は反応せず俯く。
しかし、それを同意と受け取ったのだろう。彼女は「じゃあ、」と口を開いた。
その先のセリフは何だったっけ。
雨の音がうるさくてよく聞こえなかった。
ざぁざぁと降りしきる雨音に混じって、何か聞き覚えのある名前が聞こえた気がする。
「………お前、今なんて言った」
━━━━……あなたの義妹の、花音ちゃんがいなくなったら幸せになれるんじゃない?
それは、俺の希望を打ち消す否定の最大級だった。
井の中の蛙は幸せなのでしょうか。
きっと、井の中であることを知らなければ幸せだったのでしょうね。
他人の幸せを自分の物差しで測るマネをしてはいけませんよ。