24.ケルベロス、再び
本日二話目の投稿です。
よろしくお願いします。
ソアセラナへの風当たりが少し収まってきて、昼食を中庭で取れるようになってきた今日この頃。
あの日から第一王子に会うことはなく、迷惑をかけなくてホッとした気持ちと、避けられている重苦しい気持ちをソアセラナは抱えていた。
中庭の木立の下から空を見上げると、緑の葉の間から青空が……ついさっきまで見えていたはずだ。それが、裏山を覆うように分厚く黒い雲が湧き出ている。
つい最近目にしたばかりの、嫌な予感しかしない雲だ。
ソアセラナの視線に気がついたナディエール達も、視線の先にある裏山に目がいくと顔を曇らせる。
みんなの視線を辿ったナディエールは、スッと立ち上がると「これはまずいわね。私達では足手まといになるだけ。避難し……」
全員の顔が青ざめ、恐怖で一杯の瞳が恐る恐る裏山に向けられる。
前回と同じ、雷のような咆哮が裏山から轟いたのだ。それも、何度も……。
デリシアは身震いすると「これ、頭が三つだからってレベルの声じゃないわよね? 絶対に一頭じゃない!」と、叫んだ。
「とりあえず、教室まで走る!」
クールドの提案に全員が一斉に駆け出すと、第一王子達が前からやって来る。険しい顔をした第一王子は、ナディエールに向かって叫ぶ。
「オーベルの仕業だ! あいつは必ずソアセラナの下に来るから、気をつけろ!」
クールドとシンディも力強くうなずくが、ソアセラナの足はピタリと止まった。
(それって、私がみんなを危険に晒すということよね?)
その気持ちを察したナディエールが腕を引っ張って叫ぶ。
「駄目よ! ラナ。一緒に避難するの! 第一王子殿下達が必ず仕留めてくれるから、わたくし達は安全よ!」
「私は殿下達と一緒に行く。先生が空間無効の魔法を見せて退避してくれるなら、それに越したことないじゃない?」
「そんな簡単な訳ない! あいつはラナを連れ去って、何が何でも魔法について吐かせるつもりよ! まともな人間じゃないのよ! あの目を見たでしょう?」
オーベルはシナリオとは異なり、ヘカティアの研究に異常なまでに全てを注ぐ狂人だ。だからこそ、友達は巻き込めない。
「あの人は、逃げたって何度だって私を追ってくる。ここで断ち切らなければ、みんなをずっと危険に晒すことになる! それに、誰かに怯えて暮らすなんて、もう二度としたくない!」
ソアセラナを絶対に行かせたくないナディエールでさえ、ソアセラナの固い決意を前に何も反論できない。
「ちょっと、裏山からケルベロスが移動しているわ! ここで止まっている場合じゃない!」
デリシアの言葉に全員がハッとする。
唇を噛んだナディエールが「みんなは教室に避難して。私はラナと一緒に行くわ」と指示を出すが、デリシアがそれを止めた。
「貴方が行っても足手まといよ。その点私が役に立つのは前回証明済みだから、私がソアセラナさんについて行くわ! ほら、早く、教室に戻って、もう来るわ!」
二人に引きずられていくナディエールが、「殿下、ラナを守れなかったら許さない!」と叫ぶ。そんな不敬な言葉にも、第一王子はうなずいて答えた。
三人が校舎に入る頃には、青空は欠片もなくなっていた。重苦しい黒い雲が空一面を覆っていて、地上に闇を落としている。
そして、もう裏山に走る必要はなくなった。
もじゃもじゃ頭のオーベルが、いつもの薄汚れた白衣をなびかせて歩いてくる。髪の間からちらりと見えるブルーグレーの瞳が、真っ直ぐにソアセラナに向けられる。
「やぁ、会いたかったよ? ソアセラナ!」
そう言われて一番嬉しくない相手だ。
オーベルの後ろからは、黒い巨体に頭を三つ持つケルベロスが、五体……。一体でもギリギリだったのに、五体なんて奇跡でも起きない限り倒せない。応援だってすぐには駆けつけられないのは、前回証明済みだ。と思っていたら黒鷲隊を先頭に第二師団と魔法騎士団と宮廷魔術師の一団が現れて、ケルベロスとオーベルを囲む。
中庭とは言っても、ここは校舎の外れだ。ケルベロス五体と距離を取れる広さがあるのが、ありがたい。
雑木林のように日除けの木が多くあり、視界を遮るのに役立つかと思ったが……。ケルベロスに蹴散らされるのと毒で溶かされ林が見る間に消えて、あっという間に見渡す限り荒れ地と化した。
(ここには珍しい薬草も自生していたのに……)
見通しが良くなった中庭に立ったオーベルは、自分を取り囲む一団を楽しそうに見回した。
「あらあら、私がソアセラナに会いに来るの分かってた? ちょっとオスカーに喋っちゃったもんねぇ。でも、君達が集まったくらいで私やケルベロスをどうにかできるかな?」
オーベルはニタニタと笑いながら自信満々だ。
集まった面々がケルベロスの獰猛さを前に息を呑んでいるのだから、その余裕の態度も当然なのだろう。
騎士団員とはいえ、うっかり地上に出てきてしまった弱った魔獣や、ダンジョンの上層部にいる魔獣しか相手にしたことがない。
到底地上にいるとは思えないほど獰猛な最強難度の魔獣を相手にするなんて、通常では有り得ない話だ。
(明らかに戦って勝てる可能性の方が低い。だったら、目的を終えて帰ってもらうべきだ)
ソアセラナは前に出て、オーベルに向かって話しかける。
「先生は私の魔法が見たいんですよね? 見たらケルベロスを連れて帰ってくれますか?」
ソアセラナの言葉に、オーベルは身をよじって笑い出した。笑いすぎて溜まった涙を指で拭っている。
「そんな訳ないと分かってるんでしょ? もちろんソアセラナも連れて帰るよ? ついでに王都でもぶっ潰していこうかなぁ」
(そう、ですよね。分かってますよ。魔法を見て帰るくらいなら、ケルベロスを五体も召喚しませんよね。オーベル先生は、王都を殲滅つもりなんだ。ナディが言っていた、ゲームで私がする予定だったことを先生がするんだ。先生がラスボスってことなら、魔力の得られない私に勝ち目はない。戦ったところで犠牲者を増やすだけなら、私が先生の所に行くべきだ)
シューシューと黒い煙を上げる死の大地を進もうとするソアセラナの腕を第一王子が掴んで止める。
「ソアセラナが自分を犠牲にしたって、あいつは国を亡ぼすつもりなんだから意味がない」
そんなのは分かっているが、自分のせいで犠牲が増えるのは辛い。
自分を犠牲にするなと言うナディエールの言葉が頭に浮かぶが、自分が不用意に空間無効の魔法を使ったせいで引き起こした事態と思えば逃げる訳にはいかない。
「やだなぁ、そこまで考えてないよ? 私が反吐が出るほど嫌いなのは、王族と貴族だけだからね。そこだけは消えて無くなればいいと思っているけどね?」
オーベルの薄い唇が弧を描いて上がり、瞳は狂気を帯びたまま口元だけ歪めて笑っている。身体中を虫が這い回るようなおぞましさを感じる笑顔が顔から消え去ると、オーベルから一切の表情が失われた。
それを合図に五体のケルベロスが人間達に襲い掛かる。
予想通り、人間が劣勢だ。魔獣達の凄まじい力を前に、防御が精一杯で攻撃などしている余裕すらない。
デリシアも宮廷魔術師の治癒班と共に、次々と連れ込まれる騎士達の治療に文句も言わずに当たっている。ソアセラナただ一人が何もできずに、突っ立っているだけだ。
(無力だ。魔力のない私は、本当に無力だ。何かできることはないの?)
この場で役に立つ治癒魔法なんて、ソアセラナには使えない。怪我人は絶えず運び込まれてくるのに、ソアセラナにできることは何もない。戦いに参加しても足手まといになるのは目に見えている。
狙われているのが自分なのに、何もできずに立っているだけ。これでは何のために啖呵を切ってここに来たのか分からない。
(地底の空気をケルベロスの核に送り込んでいるから、弱ることがないのよね? 空間を捻じ曲げて送っているなら、その捻じ曲げた空間を消し去れば……? 空間無効の魔法は、対象の空間における理を消し去るから効果的なのでは? 例え魔法が効かなくても、何もせずに立っているよりましだ。可能性があるなら、かけてみよう!)
杖を強く握りしめたソアセラナは自分が近づけるギリギリまで前に出て、呪文を唱え始めた。
ソアセラナを見ていたオーベルがおぞましいほどに微笑んでいるのには、全く気がつかずに……。
空色の光が一体のケルベロスを包んだ。それを見た第一王子はグレイソンに「すまん、頼んだ」と叫んで、ソアセラナの下に駆け出した。
魔法を使うソアセラナを、うっとりとした目で見るオーベルが視界に入り込んだ。ゾワリとした悪寒が背中を這い上がり、全身から汗が吹き出し危険だと警鐘を鳴らしていた。
ソアセラナの予想通り、空間無効の魔法は効果的だった。
魔法をかけられたケルベロスがふらつき、断末魔の雄たけびを上げのたうち回る。口から毒を含んだ涎が飛び散るので、無防備なソアセラナにかからないよう第一王子は結界を張った。駆けつけるなりソアセラナを腕の中に抱き込んだが、それくらいでは不安は消えないし、オーベルの表情も変わらない。
断末魔をあげたケルベロスが倒れ、身体が塵となってサラサラと消えていく。
「良かった! 魔法が効きました! これをあと四体にやれば、みんな助かりますね!」
杖を握り締めたソアセラナは嬉しそうに微笑むが、第一王子の嫌な予感は増していく一方だ。
オーベルは変わらず恍惚の表情で、「あぁ、やっぱり我が女神! ヘカティア様の魔法だ」と叫んでいる。
オーベル以上にまずいのは、四体のケルベロス達だ。血が滴るような二十四の赤い瞳が、全てソアセラナに向けられている。仲間を殺された恨みなのだろうか? 獰猛さが増した四体のケルベロス達が、ソアセラナを囲い込むように近づいてくる。
四体ものケルベロスに集中攻撃されれば、誰にも防ぐことなどできない。ソアセラナの空間無効の魔法だって、一体にかけるのが間に合うかどうかだ。たった一体に魔法をかけたって、他の三体に襲われたら終わりだ。助かりようがない。
それが分かっているから、杖を握る手が震える。これではまともに魔法をかけることだって難しい。
そんなソアセラナに、オーベルは死刑宣告のような言葉を浴びせる。
「このケルベロス達はね、遠い昔ヘカティア様にペットとして使役され、こき使われてたんだぁ。ソアセラナの空間無効の魔法は、ヘカティア様の臭いがするんだよね。この子達はかつての苦汁を思い出し、恨みを晴らそうとしているんだよ!」
二十四の悪意ある瞳が、オーベルの言葉が正しいのだと物語っている。
オーベルの表情が醜く歪み、ケルベロス以上に残忍な顔になる。そして、興奮しきった顔を空に向け、叫んだ。
「さぁ、早くヘカティア様を呼べ! お前など一瞬で殺されるぞ? そうなる前に、ヘカティア様に助けを乞い願え! 私の前にヘカティア様を呼び出すのだ!」
オーベルの狂った笑い声がこだまする中、四体のケルベロスが大地を蹴ってソアセラナに飛びかかる。
四体の内、一体はソアセラナが魔法をかけた。二体は騎士や魔道士達が必死に動きを止め押さえつけた。残りの一体がソアセラナに向かって、三つの顔が牙をむく。
そのケルベロスを身体を張って止めたのが、第一王子だ。胸を爪で引き裂かれながらも、ケルベロスの二つの首を切り落とした。
第一王子は血に染まっているのに、それでもソアセラナを庇って前に立つ。
ケルベロスの爪で抉られた胸の傷は、とても立っていられる状態ではないはずなのに。前に出ようとするソアセラナを押さえる力は残っていないはずなのに。睨み合うケルベロスの戦意を失わせるような力は、第一王子の瞳にも身体にも残っていないはずなのに……。
ソアセラナはデリシアに習った魔法を第一王子に使うが、魔力のないソアセラナの魔法では瀕死の者は救えない。
「殿下、早く、早く、デリシアさんの所に行って! ここはもう、大丈夫だから!」
「嫌だ!……俺は、ソアセラナの側を、離れない。必ず、守る」
喋ると言うより、空気が漏れているという状態だ。傷が深すぎるのだ。
「もう、守ってもらいました! 殿下、早く治療を受けて下さい!」
ソアセラナが叫んでも、第一王子はソアセラナの前を離れない。
「ソアセラナ、ヘカティア様を呼べ! そうすれば第一王子だって助かるぞ? ヘカティア様以外にケルベロスの毒とそれだけの魔障を受けた怪我を治せる者はいないぞ? 早く、ヘカティア様を呼ぶのだ!」
「ヘカティア様なんて知らないんだから、呼びようがない! 出来もしないことをやらせるために、こんなにも多くの人の命を危険に晒すの? 狂っているわ!」
「そうだよ? 私は狂っている。でも私を狂わせたのは、愛情の一欠片もない父親達だ! 自分の都合だけで私を利用しようとするこの国だ! だから、こんな国など滅べばいい!」
そう叫んだオーベルのブルーグレーの目が、狂気から絶望へと変わっていく。もう、何もかも、あれだけ執着したヘカティアでさえどうでも良くなってしまったのだ。
いや違う。絶望から逃げる手段がヘカティアへの執着だったのだ。ヘカティアを追い求めている間は、自分の内にある絶望を見ずにいられた。
オーベルは空っぽになった瞳をソアセラナに向けた。何の感情も持たないその瞳は、ソアセラナを引き摺り込もうとする。
絶望を受け入れたオーベルは、安堵しているのか後悔しているのか分からない。そんな感情も、もうないのかもしれない。
「お前だって、俺と同じだろう? 魔力が大きいともてはやされるが、自由を奪われた。魔力以外は能無しだと蔑まれるのに、魔力は求められる。こんな理不尽なことがあるか? お前なら俺の気持ちが分かると思っていたのに! 六年前に俺の前に立ちはだかり、俺を打ち負かしたくせに呆気なく魔力を失った」
(六年前に第一王子を暗殺しようとした術者は、オーベル先生だったんだ……)
「そしたら、どうだ? 絵に描いたようなお払い箱だ。俺は自分の未来を見ているようで怖くなったよ。この国のために魔力と知識を使い、それが尽きたらゴミ以下の扱いで放り出される。俺は何なんだ? 俺は人か? 俺は家畜か? 俺は道具か? 俺が何なのか、自分だって分からないんだ!」
オーベルの叫びは、絶望は、ソアセラナにも記憶がある。
実際に放り出されたソアセラナには、オーベルの気持ちが手に取るように分かってしまう。
「自分が何者になりたいのかは、他人が決めるんじゃないんです。自分の人生なんだから、自分で決めていいんです、自分で決めないといけないんです。でも、たった一人だけで生きていたら、見えてくる世界が狭すぎて決められない。多くの人と出会い助けられ学び苦しみ感じていく中で、私は自分がどうありたいのかを知れました」
オーベルは苦しそうに顔を歪めた。オーベルの空っぽの瞳から憎悪が溢れ出して、ソアセラナに襲い掛かる。
「お前が憎い。唯一の生きている理由だった魔力を失ったのに、正しく生きようとする、お前が憎い! お前を助けなかった家族も、魔力を奪った第一王子も、自分を馬鹿にする国も、全てを恨まず笑っていられるお前が憎い! お前を見ていると、自分にもあったかもしれない未来を欲してしまいそうで苦しい」
オーベルの叫びと共に三体のケルベロスがソアセラナに襲いかかろうとした瞬間、ケルベロスの咆哮の中に猫の鳴き声が響いた。耳をつんざくような咆哮に呑み込まれてしまうような小さな鳴き声なのに、不思議なことにしっかりと聞こえた。
その声にケルベロス達の動きが止まり、突如現れた黒猫を目で追っている。
悠然と現れたエルは金色の目を光らせ、第一王子の前に立つ。前足を第一王子のブーツに乗せると、また一鳴きした。途端に金色の光が第一王子を包み、赤黒い傷が消えていく。
人々が呆然としていると、エルがまた一鳴きする。
それが可愛らしい猫の泣き声から、魔獣の咆哮へと変わり果てていく。
現実とは思えず誰もが言葉を失う中、赤黒い溶岩でできているような身体に炎をまとった恐ろしい魔獣が、ケルベロスを遥か上から見下ろしていた。
赤黒い大きな鱗で覆われた屈強な身体に、真っ黒な鋭い爪が伸びた太く長い手足。金色の瞳は鋭く光り、耳まで避けた口からは大きな牙が覗いている。赤い髪なのか炎なのか分からないものが、全てを燃え尽くすようにたなびいている。その様子を見ただけで、ケルベロスを含めた周りとの力の差は歴然としている。
その炎の魔獣の放った一撃で、三体のケルベロスは焼き尽くされ何も残らない。
あまりにも呆気ない結末すぎて、何が起きたのか分からなくなりそうだ。最初から何事もなかった気さえしてしまう。
だが、怪我人の呻き声は聞こえてくるし、中庭は焦土と化している。それにケルベロスの撒き散らした毒の匂いが生臭い。
「……エル?」
かつて黒猫だった魔獣が、ソアセラナの声に反応する。ケルベロスが逃げ出すほどに厳めしいを顔を向けられたソアセラナは、恐れることなくエルの下へ駆け出した。
ソアセラナが駆け寄ると同時に、黒猫のエルに戻ったが、呼吸が浅い。無傷なはずなのに、瀕死だ。
焦るソアセラナを他所に、オーベルがまた叫び声をあげる。
「嘘だろ? イフリート? その猫はイフリートなのか? エルって、魔獣の王の右腕であるエルドゥーラのことか?」
エルが何者かだなんて関係ない。エルを助けることが最重要だ。
「知らない! ダンジョンで襲われているところを助けたの! そんなことより、エルの様子がおかしいの! どういうこと? どうすれば助けられる?」
いつの間にか満身創痍のグレイソンがいて、エルを見下ろしていた
「襲われていたというのが、ラナの勘違いなんだよ。エルドゥーラが相手を食おうとしていたんだ」
読んでいただき、ありがとうございました。
あと三話で完結です。
明日さんを投稿する予定です。
もう少し、お付き合いいただければ嬉しいです。