14.ケルベロスの咆哮
本日一話目の投稿です。
よろしくお願いします。
その日は朝から不快な天気だった。いつ雨が降り出してもおかしくない黒い雲に覆われた空、まるでミストの中にいるような水分を含んでじっとりと纏わりつく空気。
見渡す限りが、べっとりとした灰色の絵の具で塗りたくられたようで、絡みつく不快感と、全ての色が霞む視界。それはきっと、これから起こる大惨事の予兆だったのかもしれない。
授業は終わったが、相変わらず不快な天気は続いて、いつ大雨になってもおかしくない黒い雲が居座っている。いくら寮が近いとはいえ、雨に濡れたくはない。いつもは放課後も学院に残っている生徒達も、雨が降り出す前に帰ろうと、誰もがいつもより早く帰り支度を始めている。
そんな中、建物がミシミシと軋む音と同時に、教室が、いや学院全体が縦に横に大きく揺れた。
「なに? 地震?」
キャビネットの上にあった大きなガラスの花瓶が落ち、大きな音を立てて割れた。活けてあった赤い薔薇が、ガラスの破片と共に無残に床に散らばった。
地震はそう簡単に収まらず、尚も縦に横に激しく揺れ続けている。教室内にいる生徒達も自力で立っていられず、固定されている机にしがみ付いていた。
教室の窓に亀裂が入ったと思うと、ガラスが呆気なく砕け散った。花瓶以上にガラスが飛び散る様子に、生徒達から悲鳴が上がる。
そこら中から漏れ聞こえてくる不安の声。
「やだ、こんなに大きな地震初めて、怖い」
「建物、大丈夫だよな? 倒壊したりしないよな?」
何かに掴まっていないと立っていられないほどの揺れに、全員が同じ感想を持っている。教室や廊下の窓が次々に割れるので、生徒達は自然と教室の中央に集まっていく。
魔法でも何でも、自然の力には敵わない。そう思っていた時、校舎の裏にある山の方から雷鳴が轟いた。
「雷か、うっかり外に出られないな……」
雷鳴と共に雲の黒さと厚みが増して光を遮断する。それに比例して、外が一層暗くなっていく。誰かの声の通りで、どこかに雷が落ちてもおかしくない。どこに落ちてもおかしくないなら、誰しも自分の上は避けたいものだ。
止まることなく雷鳴は轟いているが、真っ黒な雲の中に稲妻は光らない。雲が分厚過ぎて、見えないのだろうか?
廊下の様子が気になったソアセラナは、ガラスを避けながら窓の外に目を遣る。すると第一王子と生徒会役員らしき生徒達が、裏山に向かって走って行くのか見えた。
(何だろう? 何か物騒なものを手にしている気がしたけど……。生徒を避難させるより重要なことが裏山にあるの?)
「裏山に雷でも落ちたのかしら? 私ならきっと役に立てるわね、追いかけよう!」
いつの間にか後ろに立っていたデリシアはそう言い終える前に、嬉々として走り出していた。
先日生徒会室で、第一王子に全く相手にされなかったのが効いているのだろう。ここで役に立って好感度を上げようという気持ちが駄々洩れだ。
そんなデリシアにうんざりした視線を向けるのは、ソアセラナとナディエールとグレイソンの三人だけだ。他のクラスメイトも、以前に第一王子に叱責された失点を取り返そうとデリシアの後に続いた。
クラスメイトの後姿が裏山に吸い込まれて行く間も、獣の咆哮みたいな雷鳴は続いていた。その度に建物がビリビリと揺れる。
「……雷って、こんなにも揺れるものだっけ?」
ソアセラナの質問に、ナディエールが裏山を指差した。
「……雷じゃ、ない……」
裏山の木が一瞬で薙ぎ倒されると、開けた空間に頭が三つある真っ黒く獰猛な大きな大きな魔獣がが現れた……。
「……ケル、ベロス? 何で?」
誰も答えられない質問がソアセラナの口から洩れた時には、グレイソンが裏山に入っていった。それを見た二人も、弾かれたように走り出した。
裏山は地獄絵図だった。
雷が落ちた火事の後片付けを手伝って点数を稼ごうとしただけなのに、目の前にはケルベロス……。そんな状況に、特別クラスの生徒達がパニックを起こして、第一王子達の計画を乱しまくった。
大声を上げて逃げ惑う生徒達はケルベロスの攻撃対象となり、第一王子達も生徒を守るのに手一杯で、攻撃どころではない。ケルベロスだけではなく、泣き叫ぶ生徒まで相手にするのだから、もう戦術も何もあったものではない。
パニック状態の生徒達は魔法を使って自衛することも忘れ、多くの負傷者が出ている。第一王子達も致命傷ではないが、怪我を負って本領を発揮できる状態ではない。
とにかく邪魔な生徒達を退かせたいが、怪我人ばかりで動かせずそうもいかない。
予想外の事態に、第一王子達の焦りが伝わってくる。
疲労困憊の人間を嘲笑うように、ケルベロスの三つの口が勝利の雄たけびを上げているように見える。
大柄な人間二人分くらいの高さから、ケルベロスの雄たけびを喰らうだけで脳が揺れ身体も吹っ飛んでいきそうだ。
闇と同じ真っ黒な身体に、獰猛で真っ赤な瞳。それだけでもう逃げ出したいのに、鋭い牙が覗く赤い口から垂れてくる唾液は猛毒だ。ケルベロスの周りの草木は、シューシューと音をたてながら枯れて茶色く変色している。
この生臭い毒と血の臭いのせいで、裏山には息を止めたくなるような刺激臭が充満している。雨を含んだべっとりとした空気と臭いがまとわりついて、人間は立っているだけでも体力も気力も奪われていく。
この場所から遠い向こうに、王城の青い塔が小さく見える。学院から王城は距離が離れていて、騎士団の応援は時間がかかる。
教師陣も駆けつけたが、騎士はおらず癒しの魔法の使い手も一人しかいない。
戦う布陣としては非常に劣勢だが、応援が来るまで何とか乗り切らなければ全員の命がない。
結界を張ったソアセラナ達は、動けない生徒達を戦いの邪魔にならない森の奥に集めた。
「デリシアさんは癒しの魔法が得意なのよね? みんなを助けてあげて!」
火傷や毒の影響が大きすぎてソアセラナの能力では、クラスメイト達を助けられない。当然手を貸してくれるものだと思っていたが、返ってきたのは予想外の言葉だ。
「どうして、私が?」
「どうしてって、貴方が一番優れた能力を持っているからよ?」
「はぁ? 優れた能力だからこそ、使う相手は選ぶものよ! 力は無尽蔵ではないのよ? この後で第一王子に治療が必要になったらどうするの? その時に私の力が尽きていたら、誰が責任を取るのよ!」
その通りかもしれないが、目の前で死にかけているクラスメイトは放っておくのか?
こんな緊迫した場にいるのに、デリシアはソアセラナを馬鹿にした目で見る。
「助けたいなら、貴方が助ければいいじゃない? でも、魔力のない貴方には無理よね? だからって私に頼らないで欲しいわ!」
「今この場でみんなを助けられるのはデリシアさんしかいないのだから、力がある人に助けを求めるは当然でしょ?」
「魔力ない役立たずが、偉そうに言わないでもらいたいわ! 貴方は何もできないのだから、この私の機嫌を損ねない方がいいんじゃないの?」
デリシアの高圧的な言い方に唖然としてしまう。だが、傷を負って横たわっているクラスメイトは皆、ソアセラナに敵意のこもった目を向けている。これではまるで、ソアセラナがデリシアの治療の邪魔をしているみたいだ。
(魔力のない役立たずは何も言うなってことね……。確かに魔力のない私では、誰のことも助けられない。デリシアさんに気分良く魔法を使ってもらうなら、黙っているべきね)
外野も殺伐としているが、実際の戦場は最悪の事態だ。
ケルベロスの生気に満ちた赤い目と睨み合っているグレイソンが、誰もが思っている疑問を口にした。
「地上に出て来て大分時間が経っているはずなのに、どうして弱らないんだ? どうなっているんだ……」
魔獣にとって地上の空気は毒だ。地上に出れば、その毒が回って弱り死に至る。なのに目の前のケルベロスは至って元気、戦う気満々だ。
ケルベロスの爪で胸を抉られている第一王子の息も上がり始めていて、戦況としては非常に悪い。
「力のある術者が、ケルベロスに何らかの方法で地底の空気を送っているとしか思えない」
誰もが『えっ? 出来るの? そんな離れ業? 無理でしょう?』と思ったが、ケルベロスは軽く蹴っただけで地面が深くえぐれるほどのパワーを維持している。弱る気配は一向にないのだ。
この事実を前にグレイソンの目つきがより厳しくなり、目の前のケルベロスを見上げている。
「その結論しかないってことは、時間稼ぎしたところで、こっちの体力が奪われるだけか」
いつもの可愛らしい顔からは想像がつかないほど、好戦的な顔を見せるグレイソンの剣が光る。光に照らされた顔は、いつもの可愛さは欠片もなく恐ろしいほどだ。
剣が眩いほどの光を放つと、グレイソンが大地を蹴って高く跳ね上がり、ケルベロスの首に剣を沈める。それと同時に三つの首の内一つが、地面の上にゴロンと落ちた。ケルベロスの咆哮が裏山をビリビリと揺らし、のたうち回る身体の動きが激しくなっていく。
しかし、首を落とした側のグレイソンの顔は険しさが増し、「チッ」と舌打ちまで聞こえる。その態度が、計画通りの攻撃ではなかったことを物語っている。
ケルベロスは三つの首を全て切り落とさないと死なない。
グレイソンは一気に三つの頭を全て切り落とすつもりだったのに、剣も己の力も全く足りなかった。それは折れた剣と、激しい衝撃を受けて震えている両手を見れば明らかだ。
ケルベロスは怒りと痛みで叫びながら、暴れ回ろうと激しく体を揺らしている。教師達が渾身の力で動けないよう結界内にとどめていたが、ケルベロスの魔力の方が上回り始めてきた。魔法が振りほどかれ、ケルベロスが自由になるのも時間の問題だ。
「グレイ、デリシアさんの治療を受けて! 同じこと二回やって首を全部落としなさいよ!」
呆然と佇んでいたグレイソンにナディエールの激励がとんだ。
その声で自分の成すべきことを思い出して、グレイソンは顔を引き締める。力不足を反省するのは、生きて帰ってからだ。
そんな命の危機にさらされた状況で、場違いな声が飛んできた。
「お前は何を言っているんだ? 少しはデリシアを休ませろ!」
こんな台詞を吐ける馬鹿を、ソアセラナは一人しか知らない。
うっかりこの場に来てしまっただけで何もしていない第二王子が、デリシアを庇って前に立つ。
『生きるか死ぬかのこの一大事に、馬鹿か?』
この場にいる全員がその叫びを呑み込んで、第二王子に冷たい視線を送って非難を訴える。しかし、愛するデリシアを守れて満足気なドヤ顔を見せる第二王子は、自分の言動を誇らし気に胸を張って立っている。見たい物しか見えない王子が、苦り切った周りの空気に気づくはずがない。
横暴で面倒な第二王子にみんなが尻込みする中、ナディエール一人が気を吐く。
「そんなことをしている暇があるなら、殿下も戦闘に参加してください! 国を守るのは王族の義務でしょう?」
ナディエールに怒鳴られチラリとケルベロスを見るが、第二王子の足はすくんで動かない。魔法も剣術も平均的な能力しか持っていないのだ、第二王子には荷が重すぎる。
そんなことはナディエールだって分かっている。ただそう言えば、デリシアの前から退くだろうと思って言ったに過ぎない。
ヘタレ第二王子に、誰も何の期待もしていない。唯一頼むとすれば、「邪魔だけはしてくれるな!」だ。
みんながビビッて引っ込んでくれることを望んでいるのに、デリシアにいいところを見せようと第二王子も必死だ。
「こういう肉体労働は第一王子がやればいいのだ。俺や俺の仲間の戦いの場は別だから、この様な場では戦わないことが許されている!」
本物の馬鹿だ。
疑問を持たずにこの馬鹿の側にいるのだから、取り巻きも同じく馬鹿だ。馬鹿の言葉を鵜呑みにして、ホッとしたように戦列から離れだした。
「ケルベロス相手に剣が通じるのは第一王子殿下とグレイソンしかいません! 生き残りたいのなら、自分のできることを全うしなさい!」
ナディエールが第二王子の取り巻き達を怒鳴りつけた。
馬鹿達以外はクラスメイトも動ける者は皆、ケルベロスの足止めに全力を尽くしている。そんな誰もがいつ気力や体力が切れてもおかしくないギリギリの状況なのに、何もしていない第二王子が口だけを達者に動かす。
「お前、何様のつもりだ! この私に意見するなど、立場を弁えろ!」
「全員の命が危ないこの状況で、立場なんか気にしていられません!」
ナディエールの言葉に誰もが同意しているが、相変わらず第二王子は気づかない。
そしてまた、周りの状況を把握できていない者が一人……。
「もう疲れたぁ。カークライルがいいって言ったから休む」
目の前に毒や傷で苦しむ仲間がいるのにも関わらず、その場から離れようとするデリシア……。
「ちょっと何を言っているの? 私達を見捨てるの……?」
今まで仲良くしてきたクラスメイト達が、信じられないという驚きの視線をデリシアに向ける。しかしデリシアは難なくその視線を見返し、不敵に微笑んで見せた。
「私のこの力は神から与えられた大切な物よ? でも私の体力だって、限りがある。全員は助けられないわ。だったら、貴方達ではなく、もっと価値のある命を助けたい」
「ふざけるな! 目の前に苦しんでいる仲間がいるのに、何を言っているんだ! 誰の命にだって価値がある!」
比較的元気なクールドが、身を起こして怒鳴った。他の者も同じ気持ちで、デリシアに軽蔑の視線を送っている。
「ふーん、誰の命にも? その中には平民も入ってる?」
正直者のクールドは、「いくらでも替えのきく平民と、俺達貴族とでは命の価値が違う!」と鼻息荒く答えた。
「そう? 価値観なんて人によって異なるものね。貴方達にとって平民の命が石ころ同然なのと同じで、あんた達の命は私にとっては価値がない。貴族の子供ってだけで豊かな生活が約束されて、働いてもいないのに偉そうな態度で、世の中を何も知らないのに人を見下すあんた達に何の価値があるの?」
全員がデリシアに非難の目を向けるが、デリシアはそれ以上の強い目で見返す。
デリシアの言うことは正しいのかもしれない。だが、今はそんなことを言い争っている場合ではない。
一際大きい咆哮が山を揺らすと、頭を一つ失った赤い血で身体が濡らしたケルベロスが結界を破った。怒鳴り合うデリシア達が気になったのか、ケルベロスは毒の涎をまき散らす二つの頭を揺らして向かってくる。
それに気づいた第二王子は、デリシアを突き飛ばして逃げ出していく……。
そのおかげで、デリシアは真正面からケルベロスと向き合う格好だ。怒りと痛みで荒れ狂う魔獣が迫り寄ってきているのだ。逃げようにも、恐怖で足が動かない。
声を出せないデリシアの視界が真っ黒なケルベロスだけで埋まりかけた時、若草色の瞳には、シルバーブロンドが飛び込んできた。
ソアセラナがデリシアを庇い、両手を広げて荒れ狂うケルベロスの前に立ったのだ……。
ソアセラナは杖でしか魔法が使えず、大きな魔法も使えない。この中で一番最弱なソアセラナが、たった一人でケルベロスと対峙している。
デリシアを庇ったソアセラナがケルベロスに食い殺されたと、誰もが目を背けた。
だが、ソアセラナはケルベロスの真っ赤な口に食らいつかれる寸前に結界を張っていた。
魔獣の嫌う臭いが付加されているソアセラナの結界に、ケルベロスも一瞬だけ止まった。だが、結界自体に大した力はない。鼻息だけで飛ばされそうだ。
主の死を感じたのか、どこからともなく黒猫のエルがソアセラナの足元にやってきた。艶やかで真っ黒な短い毛を逆立てると、何百倍もあるケルベロス相手に威嚇する。
ちっぽけな黒猫相手にケルベロスが驚いた隙を逃さず、第一王子が左側の首を切り落とした。
またも痛みと怒りで雄たけびを上げて暴れるケルベロスを結界に閉じ込めようと、ソアセラナは杖に力を込める。四本の足を押えこまれたケルベロスは、逃れようと首を振る。
「誰か! 負傷者に毒がかからないように結界を張って!」
ソアセラナの叫びに反応できる者は少ない。負傷者が多いし、教師陣はさっきまでの結界で力を使い果たし動けない。真っ赤な髪をなびかせて駆けつけたナディエールが、ソアセラナの指示通り結界を張る。
「ラナだけではケルベロスを押さえつけられないわ。第一王子殿下が最後の首を切り落とせるように、動ける者は残った力を使いなさい!」
ナディエールの言葉に第一王子派の生徒達は、よろける身体を奮い立たせて結界に協力する。だが、第二王子派の生徒達は、チラチラと第二王子を見て第一王子に手を貸すことに踏み切れない。
第一王子に劣等感とライバル意識を持っている第二王子は、馬鹿だし横暴だ。第一王子に手を貸せば、後から何を言われるか分からない
ソアセラナが背後にいるデリシアを振り返らずに叫ぶ。
「デリシアさん、力を使っているみんなの体力を少しでも回復させられない?」
「……な、なによ? 有能な私を助けて、周りからの評価を上げようって魂胆なんでしょ! 汚いわ! 優等生ぶって、そういうところが気に入らないのよ! 魔力ないけど、頑張ってますって態度が気持ち悪いのよ!」
「この状況で、そんな打算的なこと考えてる余裕があるなら、さっさとみんなの体力回復させて! 私より貴方が無傷な方が、ここにいるみんなの生存率が上がるから助けたのよ! さっさと期待に応えて!」
ソアセラナの声にデリシアは答えなかったが、背後から温かい力を感じたので期待には応えてくれたのだろう。
この状況下で第二王子の顔色を窺って身動きが取れない者達に、真っ赤な瞳から怒りが迸るナディエールの怒声が飛ぶ。
「聞いてなかったの? 生きるか死ぬかなのよ? 自分の命を守りたいでしょ? 仲間の命を助けたいでしょ? だったら第一王子派か、第二王子派かなんて忖度している場合じゃないのよ! 自分の損得ばかり考える前に動きなさいよ!」
悪役令嬢の鬼気迫る表情に急き立てられた第二王子派の面々は、結界に力を注ぎこんだ。
読んでいただき、ありがとうございました。
まだ続きますので、よろしくお願いします。