止まらない。
これは、私が15年ほど前に実際に体験したお話です。
その当時、私はある温泉施設内のレストランで働いていました。そこは修学旅行生が泊まりに来たり、一般の方が様々な体験が出来る施設でした。
暑くて忙しかった夏のお盆の頃の事です。
その日、仕事が休みだった私の所にその時付き合っていた職場の先輩からメールが届きました。
「こっそり温泉に入れるから今から来いよ。」と。時刻は夜10時過ぎだったと思います。
「えぇ…勝手に入っていいのかなぁ。」と戸惑いながらも好きな彼からの誘いに私は嬉しくなって準備をして出かけました。
一人車に乗り、暗い道を走って行きます。
その施設は山の中にあり、大きな通りから山道に入ると街灯もなくかなり不気味でした。
「やっぱり何回通っても嫌な感じだなぁ。」
暗い山道を走らせながら、怖い気持ちを紛らわす為に小さく呟きました。
その時。
どこからか赤ちゃんの泣き声が聞こえた気がしました。
「…ん?赤ちゃんの声?…なんで?」
そんな訳ないか。と気のせいだと思い直しましたが、何故か背中がゾクリとして寒かったです。
「ラ、ラジオでも聞こう。そうしよ。」
乗っていた車は父の車を借りていたので、音楽を聞く専用のオーディオはなくラジオしか聞けませんでした。
普段はラジオなんて聞かないけれど、何か音がしないと不安で仕方なかったのです。
カチッとスイッチを入れると、賑やかな音と共に男性の声が聞こえてきました。
ホッとして再び運転に集中しようと思ったその時。
『オギャァ…オギャァ…』
先程よりもハッキリと大きな赤ちゃんの泣き声が聞こえました。
「えっ!?いやいやいや!!なんで!?」
思わず私は車を止めました。
ラジオからは変わらず元気な男性の声と音楽が聞こえています。
ボリュームを少し下げて窓を開けて外の音を聞いてみました。しかし、外からはなんの音もしません。
その間も赤ちゃんの泣き声はずっと聞こえていて、少しずつ大きくなっている気がします。
『オギャァ…オギャァ…オギャァ…オギャァ…』
「なんで!?赤ちゃんなんてどこにもいないじゃないっ!!どこから声がしてるの!?」
何がなんだか分からずパニックになりかけた私は、思わずラジオを止めました。
何故かそこから音がしていると思ったのです。
スイッチを切ると一瞬でシンと静まり返った車内。
「え…ラジオからだったの?なんで…?」
訳が分からずとにかくそこには居たくなくて、彼の元へと車を再び走らせました。
「…もうヤダ。早く行こう。」
慌てて車を発進させたその時。
再び赤ちゃんの声が聞こえるのです。
「えっ!?ラジオ止めたら聞こえなくなったじゃん!!今はスイッチ入ってないよ?なんで!?」
とにかく怖くてその声は気にせずに走らせようと、分からない何かから逃げるようにスピードを上げました。
「早く彼に会いたい…怖い…怖いよ。」
『オギャァ…オギャァ…オギャァ…オギャァ…』
赤ちゃんの泣き声は止まりません。
どんどん大きくなる声。
上がるスピード。
合間でラジオのスイッチを何度か入れたり止めたりしましたが、声は一切止まりませんでした。
「止まらない!なんで!?なんで止まらないのよ!!」
カチッカチッと何度もスイッチを動かしながら叫びました。
「もうなんなのっ!?近づけば近づくほど声が大きくなるじゃん!!なんでっ!!」
…自分で言って気づきました。
赤ちゃんの泣き声は施設に近づくほどに大きくなっている事に。
「えっ…これ、行くなって事?」
何故かこれ以上進んではいけないと言われたような気がして、私は慌てて狭い山道で何とかUターンをして今来た道を戻る事にしました。
『オギャァ…オギャァ…』
赤ちゃんの泣き声はまだしていますが、心なしか小さくなった気がしました。
「早く帰ろう…早く…早く…」
聞こえている声に怯えながらも車を走らせました。最初の大きな通りまで戻ってくると、赤ちゃんの声は一切聞こえなくなりました。
私は明るい通りまで戻った所で車を止め、彼に電話しました。なんでもっと早くしなかったんだろうと自分でも不思議でしたが、電話に出た彼は寝ていたようで、メールの事も知らないと話していました。
訳が分からず電話を切った後、届いたメールを見ようとしたのですが、どこを探してもそのメールがないのです。
一体、私は誰に呼ばれたんでしょうか?
それは今も分かりません。
その後、長くその施設にいる方に聞いた話では、何年か前に駐車場で自殺した方が見つかった事があったそうです。
男性でしたが一家心中の最後に自ら命を絶った方だったと。その家族には赤ちゃんもいたそうです。
私が呼ばれたその日は、数年前にその男性の車が見つかる前の日。そう。その方の命日でした。
私があの時赤ちゃんの声を無視して向かっていたら一体どうなっていたのか…。考えるだけで未だに寒気が止まりません。