対の物語
目を覚ますと、すでに蝉の大合唱は始まっていた。僕はすぐに飛び起きて、五階からのいつもの景色を目に焼き付けた。
蝉の声も、隣の部屋の掃除機の音も、もはやうるさいとは感じなかった。心地よいBGMにさえ聞こえたのだ。
理由は多分――これから楽しい夏休みが始まるから!
突然の悪魔の叫び声。居間にある電話が鳴ったのだ。大げさな表現かもしれないが、どうも電話に出るという行為が嫌いな僕は、この音にだけは耳をふさぎたくなる。
しかし今日の自分は迷わず受話器を取り上げた。何年ぶりだろうか。
しばらくの沈黙の後、向こうから声がした。いや、"声"というより、"音の集合体"といった感じだろうか。しかし妙に明確に、耳へと届いた。
「103号室へ急げ」
訳が分からぬまま、質問の猶予も与えず、一方的にぷつと音信が途絶えた。
僕は無意識のうちに戸口まで走っていた。
途中、濡れたコンクリートで滑りそうになりながらも、早々と五回階段を下りる一連の動作を終えて、103号室の前までやってきた。
ぱっと見て何も変わったところはなかったので、辺りを調べて、これからどうすべきなのかを思考しなければならなかった。
その結果、ここは"前田"さんちであり、どうやら留守であるという事だけは分かった。
少し気になったのは、"前田"という文字の横に、"R"とある事だ。名前の頭文字を書く必要は果たしてあるのか。
それと……番号プレートをよく見ると、"3"の右上に小さく落書きがされている。上から時計回りに円を描いて、四分の一で止めたような矢印の細い線だ。僕はそれを理解するのにやや時間を使い、やっと答えに辿り着いた。
"3"だけを矢印の通りに傾けると、"W"のようになる。それが分かった時、その前の二つの数字は何もしなくてもローマ字に見えてきた。そしてつなげると、"low"になる。つまり、低い位置を見ろということだ。
地面に四つん這いになってすぐ下の壁を調べると、そこには本当に小さな文字で"近くの公園"と掘ってあった。
僕の足は、また脳より先に動いた。
近所の公園といったらここしかない。が、はやり変化は見当たらなかった。
僕はベンチに腰掛け、蝉をのんきに鑑賞しながら辺りを見回した。
「やあ、ここへよく辿り着いたね」
それは不意に聞こえてきた。再びあの不思議な声。
僕は顔を上げる勇気がなく、ただその人の足元を見つめていた。
「かくれんぼをしよう――。私が鬼になるから好きに逃げるといい」
その言葉を合図に、僕は走り出した。水たまりを飛び越えて、ちょうどいい大きさの木の下に身を隠してうずくまった。
さあ、来い。今度は見つからないぞ!
"今度は?"……ああ、そうだ。思い出した。僕は昔、ここへ隠れたことがある。家族でこの公園に来てかくれんぼして遊んだっけ。その時はあっさり見つかってしまったけど、リベンジする機会もないまま人は成長して、そんな遊びの事はすっかり忘れていた。
「もういいね?」
僕は黙っていた。距離があるはずなのに、あの声は相変わらずはっきりと聞こえる。
それから、どれくらい時間が経ったのだろう。
気づいたら蝉も大分おとなしくなって、高かった太陽も沈みかけていた。
「見つけた。またここにいたのか」
やっと、あの声が僕を捕らえた。
"また"――そう、なぜかこの場所が好きなんだ。
その時、以前僕が隠れた場所を何故この人が知っているのかなんて疑問は、浮かんでこなかった。
「同じ場所に隠れたのに、私が何故すぐに見つけられなかったか、分かるか?」
そんなの、知るはずがない。
単に僕が隠れ上手になったのか、そっちが探すのが下手なのかってことじゃないのか。
「木が育ったからだ」
……そういえばこの木、あの頃はまだ背が低かった。全身を隠すほどの太さがなくて、見えてしまっていたのかもしれない。
僕も成長したが、今は木も大きくなって、すっぽりと身を隠してくれていた。だから、僕は長いこと見つからずに済んだのだ。
「よし、そろそろ帰れ。学校の宿題がまだだろう?」
そんなもの、どうでもいいよ。まだ休みは始まったばかりだし。
そう言うと彼は何やら悲しげな表情をして、口を曲げてしまった。それからゆっくりと僕に言葉を発した。
「時だけはこの先も流れ続ける。ゆえに"明日"は必ずやってくる。そして周りはその度変わりゆく。だからこそやらなくてはならないことを見つけて、その時にそれを成す意味があるのだ」
……何だかよく分からないけど。
直感だが、この人には逆らえないと思った。彼の背中には後光がさしていた。太陽まぶしくて、未だに顔がよく見えないのがくやしい。
彼は僕の肩を強く掴んで言った。
「さあ、行け。もう大丈夫だろう」
僕の影をしっかりと踏んで離さない。完全に支配されているようなのに、少しも嫌じゃない。守られているような気がした。
☆★☆
「あなた……あの子が可哀想よ」
まだ空が薄暗く、朝が明けぬ頃。その女性は仏壇の前の写真に語りかけた。
「夏休みの直前に逝ってしまうなんて、勝手すぎます。家族三人で旅行に行くって、約束したじゃない。あの子、たまにぼーっとして、夜になると隠れて泣くのよ?せっかくのお休みなのに、ずっとそうなの。私の前では平気な顔して……大人のふりして。なのに私には、どうすることもできないのよ」
部屋中の乾いた空気のせいか、その声は枯れている。
「あの日から、あの子の時間は止まってしまった」
彼女は時計を見た。そこで我に返り、少し慌てた。
「あら、もうこんな時間。朝食の準備しなくちゃ……。今日ね、もう始業式だって。だからもう少ししたら、あの子起こさなくちゃ。中二にもなって、まだ一人で起きられないのよ」
彼女は潤んだ瞳を片手で押さえながら、立ち上がりかけた。が、背後から叫び声がして一瞬止まった。
「母さん、大変だ!」
彼女は驚いて、勢いよく振り向いた。声の主が分かったから尚更だ。この家にはもう、自分と"あの子"しかいない。
パジャマ姿のままだったが、その彼の目はしっかりと見開いていた。
「宿題やり忘れた……」
その予想外の言葉にしばらくの無言を強いられ、やがて"母さん"と呼ばれたその女性は、自然な微笑みを見せて言った。
「まだ登校時間まであるし、あきらめるのは早いわ。手伝うから、出来る限りやりましょ」
「ありがとう」
その後二人は真剣に、時に談笑を交えながら宿題を片づけていった。
一枚の写真は、その様子を最後まで見守り続けた。
まずは全ての読者に感謝!
夢の中で目が覚めた経験はありますか?私はあります。前半は少年の夢、後半は現実世界。タイトル通り、そういうものを意識して書きました。終業式と始業式、喜びと悲しみ、などもそうです。
前半部分は夢の中だと推理できるように、わざと数か所矛盾点をいれています。
残されたのは「前田R」の謎。これはあえて解説するまでもない些細な仕掛けなのでスルーさせていただきます。(知りたいという方は感想として書いてくださればすぐにレスします)
余談ですが、「103」の暗号は自身の夢の中に出てきた一部です。これだけ成り立っていたので。というか、いくら暗号を作るのが好きだからといって夢にまでみるとは、我ながら驚きです。
それではこの辺で、また次の機会に。