92、商業の街スピカ 〜常駐『薬師』のノワ先生
ファシルド家の裏庭にある治療院……その扉の先には、まるでゴミ屋敷かと疑う光景が広がっていた。いや、魔物の襲撃にでも遭ったのだろうか。
床には様々な物が散乱し、テーブルや椅子そして棚、さらには簡易ベッドまでもが、ひっくり返っている。
そして、一つの椅子には、腕を怪我したらしき門番の制服を着た若い男が座っている。その表情は、苦笑いだ。
「キャー! な、なんですかぁ〜、バトラーさん」
バトラーさんは、軽くため息をつき、僕の方を向いた。何か言いたげなバトラーさんの表情……だけど僕は、この惨状に言葉が見つからない。それに、この人って?
「ノワさん、これは何事ですか? 治療院を片付けてくださったのではないのですか」
「だぁって、虫が出たんですぅ。それに、どばどばぁっと血を流した死人みたいな人が、オバケみたいに入ってきたんですぅ〜」
やはりそうだ。このフリフリな服に、この不思議なしゃべり方……間違いない、ノワ先生だ。
確か二年ほど前に、薬学の先生として魔導学校にやってきて、半年くらいでクビになった人だ。薬師なのに、虫と血が怖いんだっけ。薬草に虫がついていて、教室ごと爆破したことで解雇されたらしいと噂になっていた。
あの頃は、ジョブの印が現れたばかりだと言っていたっけ。かわいい先生だから、学年制の学生にめちゃくちゃモテていたんだよな。
魔導学校をクビになっても気にせず、家の力を使って、あちこちの学校を渡り歩いているっていう噂を聞いたことがある。家は有名な薬師の家系らしい。
「小さな虫くらいで大騒ぎしないでください。死人みたいな人というのは、彼のことですか?」
「無理、無理、無理ですぅ〜」
まじか……。全然、成長していないじゃないか。彼女は、手足をバタバタさせて、半狂乱だ。
バトラーさんは、僕の方を向いて、苦笑い。ファシルド家は、なぜこんな人を雇っているのだろう。いない方が平和なんじゃないかな。
「ヴァンくん、彼女は、少し前から専属薬師として常駐で働いてもらっているノワさんです。彼女のお爺様が、高名な極級薬師なのですよ。旦那様が大怪我をしたときに、治してくださった恩人なのです」
「極級の薬師ですか! すごいですね」
なるほど。先生は、お爺様のコネで、仕事先を見つけているのか。
ギルドの話では、この依頼の10日程前から働いている新人薬師って言ってたっけ。だけど新人じゃないよね? 彼女の様子を見て無理だと判断して、一週間前にギルドに依頼した、ってことか。
えーっと計算してみると、先生は、もう17日もここで働いていることになる。僕がフロリスちゃんの世話係として来る3日前から居たんだ。アラン様の毒の件では、常駐薬師が居ないって言っていたのにな……。
もしかして、先生がこんな感じだから、神官様は急に僕をファシルド家へ派遣させたのだろうか。急いでいたのは、フロリスちゃんの状況の改善だけじゃなかったのか?
神官様は、僕が超級薬師だと知っているし、魔導学校に通っていることも知っている。ノワ先生と面識があるだろうから、教育係に最適だと考えたのかもしれない。
うーん、すべてが神官様の策略だとしか思えない。だけど、フロリスちゃんの世話係の二週間では、先生とは一度も会わなかった。うーん、考えすぎかな?
むちゃくちゃだけど、少なくとも神官様が僕に期待してくれていることはわかった。期待に応える自信はないけど……。
「ノワさん、こちらは、今日から緊急時の対応をお願いすることになったヴァンくんです。ジョブ薬師ではありませんが、超級のスキルを持つ人なので……」
「ええぇ〜っ? 私、もう、クビですかぁ? 困りますぅ。ここでダメなら、もう行くところがないのですぅ。バトラーさん、いじわるしないでください〜」
彼女は、また、手足をバタバタさせて大騒ぎだ。
「いえ、話をキチンと聞いてください。彼には、緊急時の対応だけをお願いする契約です。常駐ではありません。彼はジョブ薬師ではありませんからね」
バトラーさんがそう説明すると、ノワ先生は少し落ち着いたみたいだ。でも、ソワソワと床を気にしている。まだ虫がいるのかもしれないな。
バトラーさんの視線が僕に向いている。挨拶をしろってことだよね。僕が魔導学校に通っていることは言わない方がいいかな。彼女の黒歴史の一つだもんな。
「ノワさん、初めまして。ヴァンといいます。よろしくお願いします」
「ええ、初めましてぇ〜……ええっ? あれあれぇ? 見たことあるぞぉ、少年! どっか、学校通ってない?」
ありゃ、記憶力がすごい。
「はい、魔導学校に……」
すると、彼女は、近くに倒れている簡易ベッドをバシバシ叩いている。
「わかったぁ! キミ、私の薬学の授業を受けてたよね? 初めての生徒は覚えてるのぉ〜。おこちゃまクラスの子だよねぇ」
おこちゃま……。
「は、はぁ。少年期生です。ノワ先生」
「きゃーん、そうそう、それそれぇ〜。おこちゃまクラスの子って、先生って呼んでくれるから、だぁい好きっ。大人クラスの子って、ノワちゃんって呼ぶのよぉ。ひどいよねっ」
「は、はぁ」
「おや、ヴァンくんと知り合いでしたか。それなら、仕事もやりやすいですね」
バトラーさんのその笑顔……知ってたんですね。
「うんうん、バトラーさん、おこちゃまクラスの子なら、大歓迎ですぅ。あれ? 薬師ってことは、成人になっちゃったのぉ?」
「はい、まだ魔導学校は卒業できていないですけど。明日から、学校が始まるんです」
「あら、なぁんでも、先生に聞いてねー。遠慮しなくていいわよぉ」
「は、はぁ。座学は終わっているので……」
「私は、薬学なんかより、武術の方が得意よぉ〜。薬学なんて、うっざいんだもんねぇ〜」
いやいや、ジョブ『薬師』でしょうが。
「あ、あの……そろそろ何とかしてもらえませんか」
完全に忘れ去られている門番が、声をかけてきた。すると、先生は、ギクリとしている。
「キミ、お願いねー。私は、ほら、片付けないとバトラーさんが睨んでるのぉ」
「先生、僕は緊急時だけで……」
「今は緊急事態よぉ〜」
バトラーさんは苦笑いを浮かべながら、口を開いた。
「ノワさん、彼の名はヴァンくんですよ。彼は、貴女の教育係でもあります。ノワさんは上級薬師、ヴァンくんは超級薬師ですから……」
「バトラーさん! そんな級なんて、関係ないですよぉ。彼は……えーっとヴァンくんは、私の生徒なんだから、私の指示に素直に従ってくれるんですぅ」
そう言いつつ、彼女は、転がっている簡易ベッドや机や椅子を元に戻し始めたようだ。
仕方ない……先生は、血が出てる人には近寄らないもんな。
僕は、転がっている薬草入れから、薬草を取り出した。そして、門番の怪我に効く薬を作った。
「これを飲んでみてください。手の痺れにも効くように調合しました。肩の腱を切ってしまったみたいだから、一日はあまり動かさないようにしてください」
「あぁ、ありがとう。見ただけでわかるんだな」
「はい、薬師の目という技能なんです。ノワ先生も見たらわかるはずですが、血に慣れていないみたいで……」
門番は、薬を飲むとすぐに立ち上がって、腕を動かしている。
「確かに、傷は治ったが少し肩に違和感は残るな。明日までは、剣を抜かないようにするよ」
門番は、先生にもお礼を言って、治療院を出て行った。ここでも、彼女は人気者になりそうだな。明るくて良い人だもんね。
「ヴァンくん、この建物に隣接して、薬草の畑があります。そちらの管理は、ジョブ農家の人に頼んでいるのですが、薬草専門の人ではないので、たまに見てもらえますか」
「はい、わかりました」
「じゃあ、案内しますね。ノワさん、ここの片付けをお願いしますよ」
「わっかりましたぁ。緊急時には、ヴァンくんを呼べばいいんですね。呼び出し用の魔道具は渡してあるのですかぁ? ここには、呼び出しベルがないんですけどぉ」
「私が持っていますよ。緊急時には私の判断で、ヴァンくんに連絡します」
「ええ〜っ? ここに置いておいてくださらないと困りますぅ。緊急時にバトラーさんを捜さなきゃいけないんですかぁ?」
ちょ、先生には渡さないで。
僕の方を見て、バトラーさんは苦笑いをしている。
「ノワさんに渡すと、こんな風に部屋が散らかって紛失してしまうかもしれません。私が持っておきます」
た、助かった。
「えーっ、不便じゃないですかぁ。もうっ」
ぶつぶつ文句を言う先生から逃げるように、僕は治療院を出た。