89、商業の街スピカ 〜視線の変化
僕はいま、フロリスちゃんの部屋の物置部屋にいる。着替えを済ませたところだ。
あの後、アラン様の兄達は、門番にどこかへ連れて行かれた。呪霊に乗っ取られていた術者は、あのまま燃え尽きて灰になったから、自ら望んで呪霊を取り込んでいたようだ。神官様がその灰を浄化して土に返していた。
「ヴァン、やっぱり、髪にお花をつけた大きな女の人と仲良しなのね。すごく強いの。怖い声の人を燃やしたの」
フロリスちゃんは、ずっと見ていたみたいだ。
「フロリス様、頭に花をつけていたのは、精霊ブリリアント様です。綺麗な顔をされていますが、男性ですよ?」
「女の人だったもん」
「声は聞こえましたか? 男性の声だったでしょう?」
そう尋ねると、少女は、ぷくっと頬を膨らませた。
「フランちゃんの方を向いたり、ヴァンの方を向いたりしていたけど、離れていたから声は聞こえなかったの。マーサが、近くに行っちゃいけないって言うんだもん」
「そうでしたか。確かに危険でしたからね」
少女は、素直に頷いている。でも、その表情は、何かを思い出したのか、少し危うさがある。術者……彼女の兄が死んだことがわかっているからだろうな。人の死は、母親の死を思い出してしまうのか。
「フロリス様、少しお昼寝されたらいかがですか?」
「眠くないもの」
「でも、腕の中のぷぅちゃんは、怖い思いをして疲れているようですよ。一緒にお昼寝してあげる方がいいと思うんですけど」
僕がそう言うと、少女はハッとした顔で、天兎に視線を移した。天兎は、ずっと震えている。この辺りには、呪霊が放出した何かが残っているのかもしれない。まだ、妖精達が上空から降りてきていないもんな。
「わかったの。ぷぅちゃん、一緒にお昼寝しよう」
メイドに連れられて、フロリスちゃんは、寝室へと向かった。
「ヴァン、助かるわ。お茶にしましょう」
メイドのマーサさんが、そう言って、紅茶をいれてくれた。何か、話をしたいのだろうか。
「ありがとうございます」
彼女は、三人分の紅茶を用意している。寝室から、もう一人のメイドも戻ってきた。この人の名前は知らないんだよな。
「フロリス様があんな風にしっかりされるなんて、夢のようだわ」
「はい、ぷぅちゃんの力は偉大ですよね。神の神殿跡に生息していた子だから、不思議な癒しの力があるのかもしれません」
「そうね、確かに。でも、ヴァンが、魔物が生きるために自分より弱いものを食べるのだと、フロリス様に教えたでしょう?」
「えっ? あ、はい。ぷぅちゃんの友達を食べることになりますから……みんな、そうやって生きているから、過剰な罪悪感をもたないようにと思って……」
食べられないだろうと思っていたけど、食べてくれたんだよな。
「あの後、フロリス様は、サラ様が亡くなったのは、お腹が空いて困っていた魔物と出会ってしまったからなのだと、私に説明してくださいました」
「そうでしたか。やはりフロリス様は賢い子です」
「はい、本当に。あんなに小さな身体で、お母様が亡くなったことを受け止め、そして私にまで教えてくださった。私が生き残ったことを悔いていたことに、フロリス様は気づいておられたのです」
サラ様が亡くなった場に、マーサさんは居たのか。
「そう、ですか。優しい子ですね」
マーサさんは、涙を流しながら頷いている。もう一人のメイドは、そんな彼女を気遣うような視線を送っていた。
僕は、どういう状況でサラ様が亡くなったのかを尋ねたい衝動にかられた。だけど、それは、僕から口にすべきことではない。
「ヴァンの契約期間は、あと数日よね」
「あ、はい」
「また、来てくれたら嬉しいわ」
「ありがとうございます。ですが、僕の役目はもう終わったと思います。フロリス様は、もう大丈夫ですから」
「派遣執事でしょう? あっ、ソムリエだったわね。旦那様は、あまり流行には関心がない方だから……ソムリエを雇う機会はないかしら」
「僕は、このスピカの魔導学校に通っていますから、また、どこかでお会いできることもあると思いますよ」
「そうね、確かにそうだわ。ふふ、ごめんなさいね。少し不安になってしまったわ」
僕は、やわらかく微笑んだ。メイドの二人が僕を頼りにしてくれている。そうとわかると、温かい気持ちになった。
フロリスちゃんの夕食時間になった。なんだか、食事の間に行くのは久しぶりな感覚だ。
少女は、天兎を腕に抱き、スタスタと廊下を歩いていく。僕は、初めて来たときのことを思い出していた。五歳の少女が自分の足で歩くのは当たり前のことだ。だけど人形のように、メイドに抱えられて行き来していたんだよな。
僕はいつものように厨房へと向かった。初日は無視されていた。その後、敵視されるようになり、そして怖れられるようにもなった。好奇の視線を浴びることに慣れてきたと思う。
だが……何、これ?
「やぁ、ヴァン、フロリス様の食事だな。もうちょっと待ってろ」
「はい」
初日から話しかけてくれている料理人は、いつも以上に機嫌が良さそうだ。それは、まぁ、いい。だが、僕が戸惑っているのは、他の黒服達の視線なんだ。
僕の前を通るときには、どの黒服も、僕に軽く会釈をしていく。その表情は、みな、好意的で控え目な笑顔だ。
どういうこと? 気持ち悪いんだけど。
そして、待っている間、誰も僕に話しかけてこない。ドラゴンを従えているという噂で怖がっていたあの時とも違う雰囲気だ。なぜ、こんなことになっているんだ?
フロリスちゃんの元へ食事を運ぶと、少女は静かに食べ始めた。その表情は、落ち着いている。まわりでは、たくさんの子供達が食事をしている。僕が視線を向けると、なぜか子供達まで会釈をする。いやいや、おかしい。ファシルド家の坊ちゃんお嬢ちゃんが、なぜ、黒服の僕に?
「ヴァン、ぷぅちゃんの晩ごはんだから、片付けたらすぐに部屋に戻ってきて」
「フロリス様、かしこまりました」
少女が立ち上がるのを待って、僕は彼女の食器を片付け、厨房へと運んだ。
やはり、気になる。尋ねてみようか。昼間の中庭での騒動のことだと思うけど……でも、精霊の姿が見える人なんて、ほとんどいないはずだよな。
「おっ、完食だな。もう少し品数を増やす方がいいか?」
「はい、夕食はもう少し量があっても、食べてくださると思います。あの、ちょっとお伺いしたいことがあるんですが、構いませんか?」
「あぁ、どうした?」
「はい、なぜか、皆さんの視線がガラリと変わってしまっていて……何か、噂になっているのですか? ボックス山脈のドラゴンの噂のときとはタイプが違うというか……」
すると、料理人はニヤニヤしている。
「それは、ヴァンが、フラン様の婚約者だと知れ渡ったからじゃないか? 中庭でも、フラン様を上回るチカラを使ったんだろ? 俺にはよくわからねぇが、精霊使いのスキルを持つ奴らが騒いでいたぜ」
「えーっと……そうですか、あはは」
いや、婚約者のふり、なんだけどな。
「フラン様は、おそらく、アウスレーゼ家の分家として独立される。神官家の当主となる方の婚約者には、皆、媚びたいんだよ」
「なるほど……。でも、婚約者の噂って、前からありませんでした?」
「あぁ、婚約者のふりをする者は多いからな。フラン様がチカラのない男を選ぶわけがない。昼間の件で、ヴァンは、仕えているフロリス様を無視して、フラン様を助けに行ったそうじゃないか。それで、噂が事実だとわかったんだよ」
「いや、フロリス様を無視したわけでは……」
「あはは、まぁ、より危険な方を対処しようとした適切な判断だったんだろうけどな。俺も屋敷の中から、中庭を必死な顔で走っているヴァンを見たからな。クックックッ」
「あはは……」
うー、返す言葉が見つからない。僕は、あいまいに誤魔化して、厨房を離れた。
フロリスちゃんの部屋に戻ると、少女は、小さな紙袋のようなものを持って、ソワソワしていた。
「ヴァン、遅いよっ」
「申し訳ありません。料理人とフロリス様の明日からの食事の話をしておりました」
「私のごはん?」
「はい、フロリス様が完食してくださったので、明日からは、夕食の品数を増やしてくれるようです」
「ふぅん。それより、早くっ」
そう言うと、少女は僕の腕をつかんで、部屋の横の畑へと連れ出した。もう日が暮れているんだけどな。天兎は、すでに畑で食事中だ。
「ヴァン、明日、アラン兄様の誕生日なの。お花の種よ」
少女は満面の笑みで、紙袋を掲げた。