59、商業の街スピカ 〜これが神矢のワイン?
「おいおい、坊やをからかうなよ」
僕に忠告をしてくれた料理人が、苦笑いを浮かべながらそう言った。えっ? からかわれただけ?
「ふっ、この少年が勝手に誤解をしているだけだ。まぁ、ルーシー様の坊ちゃんの解毒をしたらしいから、無理もない」
「新入り、言っておくが、この食事の間で、毒を盛るなんてことはありえない。旦那様だけでなく、奥様方の使用人も、互いに監視しているからな。安全のために、ここで食事をすることになっているのだ」
料理人は、僕にそう説明してくれた。でも、それならさっきの黒服の言葉は、どういうことなんだよ。
「そうですか。よかったです。フロリス様は、何を怖れているのですか」
僕がそう尋ねると、その黒服は気まずそうな顔をしている。料理人はその様子を見て、また苦笑いだ。
「フロリス様のそばに三日もいれば、わかっただろう? いろいろな嫌がらせだよ。小さな少女にひどい仕打ちだがな」
料理人は、それだけ言うと、厨房の奥へと入ってしまった。忙しそうだな。ご飯が食べられなくなる嫌がらせが何かは、言えないようだ。
黒服を見ても目を逸らされた。僕に声をかけてきたのに、そそくさとポットを持って奥様達がいる席へと行ってしまった。
言えないような嫌がらせ、か。
具体的な理由はわからないけど、そのせいでフロリスちゃんが食べなくなった。その原因を取り除かないと、痩せ細ったままか。
僕が、料理の受け渡し場所で立っていると、さっきの料理人が僕に再び声をかけてくれた。
「何の用事だ?」
「フロリス様に、夕食を食べてもらうための相談に来たんです。でも、嫌がらせが原因なら、それを取り除かないと食べられないんですよね」
「俺は詳しいことは知らないがな。昼のサラダは召し上がっただろ? 肉がダメなんだよ」
「えっ? じゃあ、パンも大丈夫ですか」
「おそらくな。だから、肉は出していないんだ」
菜食主義なのだろうか。だから、スープとパンだけだったのか。
「生まれてからずっとですか? それとも……」
「サラ様が生きておられたときは、ミートボールがお好きだったよ」
「そう、ですか。わかりました、ありがとうございます」
ふと、厨房では、慌ただしく何かの用意をしていることに気づいた。酒のおつまみになりそうなオードブルか。来客だろうか。
「ご来客ですか?」
「あぁ、こんな時間なのに予約なしの来客だ。また、恥をかくことになりそうだよ」
「おもてなし料理の材料が不足しているのですか?」
「いや、何をお出しすれば良いか、わからないんだ」
「大変ですね……」
「あぁ、まったくだ。きっと後で、バトラーからネチネチと嫌味を言われるんだろうよ。旦那様は気にしていないみたいだから、まぁ、いいんだが」
面倒くさい来客なのかな。好みがうるさいなら、何を出しても、結局は文句を言うのだろう。料理人も大変だな。
だいたいの情報収集はできた。
フロリスちゃんが食事をしてくれるように、うまく誘導しなきゃな。スープやパンなら、食べられることがわかったから、後は昼のような暴言を言いにくる坊ちゃんを防ぐ手段を考えなければ。
やたらと、僕は見られている。
どの奥様が有力なのかはわからない。声をかけてくれる人の話に乗ってみようか。その中で、薬師の力を使って、恩を売っていけばいいかな。少しでも、フロリスちゃんの味方を増やさないと。
僕は、戻るふりをして食事の間を、ゆっくりと歩いた。
「ヴァンくん、ここに居たのですか。捜しましたよ」
奥様ではなく、バトラーさんが声をかけてきた。フロリスちゃんに何かあったのだろうか。
「すみません、どうされました? フロリス様が何か?」
僕がそう尋ねると、バトラーさんは一瞬、変な顔をしたように見えた。すぐに、いつもの顔に戻ったけど、少し焦っているようにも見える。
すぐ近くにいる奥様達も、彼の変化に気づいたようだ。面白そうにこちらをジッと見ている。
「ヴァンくんのジョブは、ソムリエだったね?」
「あ、はい」
なぜジョブの話になるんだ?
「ちょっと、困ったことになっていて、力を借りたいのです。当家には、私以外にソムリエのスキルを持つ者がいない。私は、座学で習得した下級スキルしかないんですよ」
「はい。フロリス様のお食事の給仕の妨げにならなければ、構いませんが」
僕がそう返事をすると、彼はホッとした表情を浮かべた。だが、それと同時に焦ってもいるようだ。
「とりあえず、厨房へ来てください」
僕は、再び厨房へと戻ることになった。何人かの黒服が奥様達に指示されて、さりげなく厨房へとついてきた。
「ヴァンくん、中へ入ってください」
黒服が入ってはいけないはずの調理場へ、バトラーさんは入っていった。僕も、料理人の人達の厳しい視線を浴びながら、後についていった。
「トード様が持参されたワインは届いていますね」
バトラーさんがそう言うと、料理人は、ワインクーラーを指差した。大量の氷の中にワインが突っ込まれているようだ。
「ヴァンくん、あのワインに合う料理を提供しなければならないのです。お客様は、神矢のワインだとおっしゃっています。私の知識にはない銘柄で、途方に暮れていたのです。しかも、あんな奇妙な色のワインだなんて……」
「わかりました。見てみます」
僕は、ワインクーラーから、ワインを手に取った。これが神矢のワイン?
手に取り、ワインの精の技能を使った。すると、たくさんの囁きが聞こえる。このワインを構成するぶどうの妖精の声だ。
だが、気品のあるものではない。わちゃわちゃと大騒ぎをしているような雰囲気だ。やはり何を話しているかは、わからないな。
だけど、これは、ただのテーブルワインだ。いくつかのぶどうを混ぜ合わせたバランスも良くない。ちょっとケンカをしているような印象を受けた。このわちゃわちゃ感は、安価な品だ。
しかし、色が淡いピンク色のロゼワイン。珍しいといえば、珍しいか。
「これは、神矢のワインではありません。珍しいロゼワインですが、ただのテーブルワインです。バランスも良くない。水っぽい辛口のワインですね」
「おぉ、手に持っただけで、わかるのか」
「はい、ソムリエの技能、ワインの精を使いました。ワインに含まれるぶどうの妖精の囁きが聞こえるんです。ただ、僕は、ソムリエ上級なので、何を言っているかまではわかりません。イメージとして伝わってきます」
「ほう、私の先生と同じことを言っている。ソムリエ学校の校長は、上級ソムリエなのか」
そんな学校もあるのか。知らなかった。
「じゃあ、騙されていたのかよ。旦那様がワインを知らないからって、馬鹿にしやがって」
近くにいた料理人が怒っている。そうか、知識がないと、騙されるよな。
「これに合うおつまみはどうすればいいんだ?」
包丁を持った料理人がイライラしている。
「何でも大丈夫です。それがテーブルワインのいい所ですよ。おそらく、どんな料理と合わせても、それなりに合います」
僕がそう言うと、やっと料理人達は、落ち着いたみたいだ。だけど、バトラーさんの表情は暗い。
「ヴァンくん、これを持って来られたのは、大商人トード家の主人なんですよ。まさか、神矢のワインではなく、ただのテーブルワインだとは言えません。それに、冒険者ギルドの支店長もご一緒です」
「旦那様が、いかに新たな富に無知であるかを、あざ笑いにきたんじゃねぇのか」
別の料理人が、怒りを吐き出している。
貴族の世界って、大変だな。でも、この屋敷の旦那様はマイペースなようだ。自分に自信があるから、富の流行には無関心なのかもしれない。
「ヴァンくん、どうしましょうか」
バトラーさんとしては、自分が仕える主人があざ笑われるのは、耐えがたいのだろう。
「わかりました。僕がワインのサーブをします。あ、それから、テースティング後に、確実に合う一品をその場で作るパフォーマンスをしますよ」
そう提案すると、バトラーさんは初めて笑顔を見せた。この人、こんな風に笑うんだ。
「ヴァンくん! それは素晴らしい! どんな素材を用意しましょうか」
「そうですねー。あー、そのトマトをメインにしようかな。玉ねぎ、にんにく、挽き肉、オリーブオイル、あとは香草や塩コショウなど調味料を適当にお願いします」
「鍋か? フライパンか? 料理はできるのか?」
「両方をお願いします。家の手伝いをしていたので、少しだけできます。あとは、ソムリエの技能を使って、ワインに合う料理に仕上げます」