485、自由の町デネブ 〜ヴァン、父親になる
「ヴァンくぅん……」
ノワ先生の目から、ぶわっと涙が溢れてくる。僕は、気づけば、走り出していた。
そして、フラン様の部屋の前に到着。ノックする余裕もなく、僕は、その勢いのままに扉を開く。
「フラン様! 僕がすぐに治療を……ムフォッ?」
僕の顔面に、飛んできたクッションが直撃した。
「ヴァン、何を騒いでるのっ。お子ちゃまねっ」
クッションが床に落ちると、仁王立ちのフロリスちゃんの姿が見えた。僕は、彼女にクッションを投げつけられたのか? 少女の表情に焦りはない。ということは……。
「ふぇっ、ふえっ、ふぃ〜っ」
部屋の奥、仕切られたカーテンの先から、泣き声のようなものが聞こえた。この声は……?
「旦那さん、まだ準備ができてないから、もう少しお待ちくださいね。部屋に呼びに行きますから」
困ったような笑みを浮かべた年配の女性が、カーテンの隙間から顔を出した。彼女はドゥ教会の信者さんで、この町デネブでは、産婆さんとして知られている。
「あ、あの、フラン様は無事なんですか」
「ふふっ、大丈夫ですよ。今は、体力回復のために眠ってもらっています。私だけじゃなく、神官様のお知り合いの冒険者さんも、手伝いに来てくれているから、ご安心ください」
「そ、そうですか、よかったぁ」
僕は、思わずその場にヘナヘナと座り込んだ。ノワ先生のあの顔は、なんだったんだ!?
「ヴァン! 部屋から出なさいっ。男の子が入ってきたらダメなのっ。ぷぅちゃんも、扉の外にいるでしょっ」
フロリスちゃんに怒鳴られた。
確かに、そういうしきたりだ。男が近寄ると、邪気を与えかねないと言われている。薬師のスキルを持つ僕としては、それは、何の根拠もない宗教的な考えだと思うけど……。
「おーい、ヴァン、部屋から出てこい。ノワ先生の話を聞かずに飛び出してどうする」
マルクが、部屋の外から手招きしている。目に涙を溜めたノワ先生も一緒だ。
僕は、クッションを手に持ち威嚇するフロリスちゃんに、追い立てられるようにして部屋から出て行く。なぜか少女は、クッションをたくさん持っている。武器であり盾なのだろうか。
「ヴァンくん、ごめんなさい。誤解させちゃったみたい」
ノワ先生は、目に涙を溜めながら、小さな声で謝っている。その隣で、マルクは苦笑いだ。
「もしかして、ノワ先生は血を見て……」
「ひぃぃん」
あちゃ……。
ノワ先生の目からは、涙がこぼれ落ちる。なるほど、それで泣きべそ顔だったのか。僕は、てっきり、フラン様の身に何かが起こったのかと思った。
「ノワ先生は、血を見て倒れそうになったから、ヴァンの部屋に行ってなさいって言われたらしいよ」
「なるほど、そっか」
マルクは、ノワ先生の方をチラッと見て、批判的な小さなため息をついた。でも、ノワ先生も頑張ってるんだと思うよ?
「聞いたかもだけど、無事に産まれたってさ。性別は、ノワ先生は見てなかったらしい」
「そっか。うん、よかったよ」
マルクの口からそう聞いて、僕は、やっとホッとできた。フロリスちゃんや信者さんの様子から、大丈夫だということはわかっていたんだけど。
そっかぁ、僕は、父親になったんだ。あっ、子供の誕生日は、僕と同じじゃないか。嬉しい偶然に、頬が緩む。
「おい、おまえな〜」
扉を閉じると、不機嫌そうな白い天兎が空中に浮かんでいた。そういえば、どこにいたんだろう?
「ぷぅちゃん、ごめん、うるさかったよね」
「は? おまえなー、オレは危うく扉の隙間に挟まれるとこだったんだぞ。めちゃくちゃ毛が抜けたじゃねーか!」
「へ? どこにいたの?」
そう尋ねると、不機嫌な天兎は、扉の下角を指している。確かに、白いふわふわな綿毛のようなものが付いているようだ。扉を勢いよく開けたときに、扉の前に居たぷぅちゃんごと……。
「天兎のくせに、どんくさいんじゃないの? ぷぅ太郎」
「はぁ? どんくさいのは、おまえの友だろ。ちゃんと見張っておけよ、ルファス」
マルクも、ぷぅちゃんのことをぷぅ太郎と呼ぶのか。最近のぷぅちゃんは、呼び名に反応しなくなった。ぷぅちゃんも、大人になってきたのかな。相変わらず、フロリスちゃんにはベッタリだけど。
しばらくの間、扉の前で、ぷぅちゃんとマルクの言い争いを眺めていた。僕にはとても長い時間だと感じた。
ノワ先生の涙が乾いた頃、やっと扉が開いた。
「もうっ! ぷぅちゃん、ケンカしないのっ。マルクさん、ごめんね。ぷぅちゃんは、放っておくと寂しくなるみたいで、すぐにケンカを売ってしまうの」
「大丈夫ですよ、フロリスさん。ぷぅ太郎をからかうのは楽しいですから」
マルクは、フロリスちゃんには紳士的な態度だ。貴族同士だもんな。
「ありがとう。いつまでもぷぅちゃんはお子ちゃまだから、困っちゃう」
フロリスちゃんにお子ちゃまだと言われても、天兎は気にする様子はない。タッと少女の腕の中に飛び込んで、スリスリしている。
コイツ、お子ちゃまキャラを演じているな。
ブラビィが言うには、フロリスちゃんに甘えることが、ぷぅちゃんの生き甲斐らしいから……まぁ、いっか。
「さぁ、旦那さん、入ってきていいですよ」
信者さんが優しい笑顔で、そう声をかけてくれた。奥のカーテンの仕切りがなくなっている。
「はい、ありがとうございます」
僕は、部屋の奥へと、早足で進んでいく。
「ヴァン、途中で乱入したの?」
ベッドに座っているフラン様は、まるで天使のように輝いて見えた。
「えっと、あはは。フラン様、大丈夫ですか?」
そう尋ねながらも、僕の目は、彼女が抱く小さな命に向いていた。眠っているためか、性別はわからない。とんでもなく小さな手の指が、ときどき動く。
あぁ、生きてる。
僕は、なんだか、不思議な感覚だった。こんな、産まれたばかりの赤ん坊を見るのは初めてだ。触れると壊れてしまいそうな怖さを感じる。
「私の心配なんてしてないでしょ。ふふっ、抱っこしてみる?」
「心配してましたよ。いや、抱っこは、今は遠慮しておきます。下手に触れると、壊れてしまうかもしれない」
僕がそう言うと、彼女は片眉をあげた。その意味は、わからない。というか、意味なんてどうでもいい。彼女が無事で……あっ、無事なのかな?
僕は、いまさらだけど、スキル『薬師』の薬師の目を使って、彼女の状態を調べた。うん、問題ない。そして、彼女の腕の中の小さな命を調べようとすると……。
「ヴァン、まだ、それはダメよ。マナの流れを乱すわ」
奥にいた女性から、そう注意を受けた。そうだ、確かに、まだダメだ。マナの流れがまだ上手くできていない小さな命に、強い力が加わってしまうと、マナの流れが止まる危険がある。
「そうでした、すみま……うん? ふぁっ?」
僕に注意をした女性に視線を移し、僕の思考は一瞬停止した。
「ふふっ、なんて顔をしているの?」
フラン様がクスクスと笑っている。
「だって、フラン様の冒険者仲間って聞いてたから……何してるんですか、マリンさん」
そう。目の前には、僕の従属のマリンさんが居たんだ。彼女は、白き海竜。もちろん、人の姿に変化している。
マリンさんは、普段は妖艶な雰囲気の服を着ているけど、今は白衣だ。だから、彼女がいるとは気づかなかった。
「マリンさんは、私の冒険者仲間よ。知らなかったの?」
知らなかった……。
マリンさんの娘のミラさんなら、王族だから、いろいろな所での目撃情報は聞いている。だけど、海を守る海竜のマリンさんが、地上に居るのは珍しい。
おそらく、僕達を心配して来てくれたんだ。
「ふふっ、ヴァンってば、変な顔」
フラン様が、ケラケラと笑っている。それに釣られたのか、眠っている小さな赤ん坊も、笑みを浮かべているように見えた。
「あはは、なんか、いろいろと驚きすぎて」
「ふふっ、マリンさんが立ち会ってくれたから、この子には竜神様の加護も備わっていると思うよ」
そうか、そのために来てくれたんだ!
「マリンさん、ありがとうございます」
僕がそう言うと、マリンさんは、妖艶な笑みを浮かべた。
「これで貸しができたから、ご主人様の子を私が産んでもいいわよね?」
はい?
「マリンさん、また、その話? でも、お子ちゃまなヴァンは、嫌なんでしょう?」
「そうね、あと20年後くらいがいいかしら」
フラン様とマリンさんの視線が僕に向いた。以前からそんな話を、二人でしていたのだろうか。
なんか、こわっ。
「そろそろ朝ね。私は帰るわ」
そう言うと、マリンさんはスッと姿を消した。




