339、自由の町デネブ 〜レモネ家の別邸にて
レモネ家の倉庫通りの別邸では、ラスクさんが出迎えてくれた。
ついさっき、レモネ家の旦那様は、急な呼び出しがあって、商業の街スピカに戻ってしまったそうだ。
ラスクさんの奥様の妹さんは、レモネ家に嫁いでいる。だから、ルーミント家とレモネ家は、親しい付き合いをしているようだ。
なんだか、まるで自分の屋敷かのように、ラスクさんはくつろいでいる。
いや、これはラスクさんの特技かな。リースリング村のウチの家でも、まるで家族かのように溶け込んで、婆ちゃんのぶどうパンを食べてるもんな。
「ヴァン、やっと、フランちゃんから聞いたんだね。ふふっ、おめでとう」
「えっ? あ、ありがとうございます。な、なぜ……」
ラスクさんは、僕の顔を見ると、悪戯っ子のような笑みを浮かべながら、おめでとうを言ってくれた。
「うん、フランちゃんが、ヴァンのことを気に入っていたのは、随分と昔から知っているからね。神の像が輝き、祝福を与えたということは、好きな人と結ばれたということだろう?」
「そ、そうなんですか。彼女から聞いていたわけではないのですね」
「直接尋ねても、教えてくれなかったよ。だけど、見ていればわかる。これからは、ヴァンは、ドゥ家の屋敷で暮らすのかな」
ラスクさんは、爽やかな笑顔で、サラリと尋ねてくるけど、興味津々なんだよな。下手なことを喋ると、神官様に叱られそうだな。
「いえ、まだ何も話せていません。彼女は、忙しそうですし」
「あぁ、そうか。六精霊の分身が宿る家を、教会に置いたんだっけ。以前、その話をしたときには、フランちゃんは乗り気じゃなかったんだけどね」
何? 以前から、そんな話があったのか。
「なんだか、光の精霊様がリーダーシップを発揮して、どんどん決めてしまわれたのです」
「へぇ、光の基本精霊は、恥ずかしがり屋だろう? そんな風に、率先するなんて珍しいね。ということは、六精霊の壺かな」
恥ずかしがり屋? いやいや、ないない。めちゃくちゃ、あたしが! ってタイプだよ。
「はい、人の背丈ほどの大きな壺です」
「それは、いいね。六精霊の壺なら、マナを凝縮して集めることもできる。精霊の森に、小型の壺が設置できれば、風の精霊シルフィの力が増すよ」
うん? そういえば、精霊の森にも作ると言っていたよな。
「たぶん、いま、精霊の森にあるシルフィ様の大樹の近くに……あっ」
マナの強い波動が、窓から入ってきた。
「おぉ、これはすごいね。光の精霊の力を感じる。町全体に、何か仕掛けたみたいだよ」
何を仕掛けたんだ?
ラスクさんは、あちこち、キョロキョロと見回している。レモネ家の黒服やメイドも、ラスクさんにつられて、キョロキョロし始めた。
「あぁ、アレだね。窓を開け放していたから、食卓に付いてしまったね」
ラスクさんの指差す先には、見たことがあるような、ふにゃりとした緑色の線が見える。これは、ただの線だよな。
「テーブルの脚に付いてますね。光の精霊様の落書きが」
「あはは、落書きだなんて言うと叱られるよ? この家には、風の精霊の加護が備わったみたいだね」
黒服やメイドも、それぞれテーブルの脚を確認し、驚きの表情を浮かべている。一人が、慌てて部屋から出て行った。誰かに報告するのだろう。
「これで、この町の価値はさらに上がるよ。海側の方の空き地も、すぐに埋まってしまうね。海賊対策になるよ」
「はい、それならいいんですが」
海側の方は、まだ、ほとんどが空き地になっている。前に、海賊が攻めてきたが、あれ以来、大規模なものはないけど、小競り合いはあるようだ。
光の精霊様は、再び、精霊の森が焼かれることがないようにと、対策されたということか。
あんな喋り方だけど、光の基本精霊のトップの彼女は、他の精霊や妖精への配慮が完璧なんだよな。
教会で聞いたけど、六精霊は、弱い精霊を守る存在のようだ。気軽に召喚しているけど、すごい精霊様たちなんだよな。
「ラスクさん、僕が呼び出された用事というのは、ワイン講習会の件ですよね」
「うん、そうだよ。明日、頼みたいそうだ」
「ええっ!? 明日ですか? ちょ、準備が……」
あまりにも突然すぎる。
「あはは、レモネ家は、いつも突然、言ってくるんだよ。明日、大通りの方の屋敷では、パーティがあるんだ。だから、講習会をするんだよ」
「パーティがあるのに、講習会ですか?」
僕が首を傾げたのを見て、ラスクさんはケラケラと笑っている。いや、だって、パーティの日に、勉強はしないだろう。
「パーティだからだよ。月に一度のお祝いなんだ。今回は、スピカの本邸とこの町の別邸を結ぶ転移魔法陣が完成した、お祝いらしいよ」
そういえば、マルクがスピカに貸してくれている部屋に、転移魔法陣を描いてくれたよな。かなり、大変な作業みたいだけど。
「転移魔法陣のお祝いで、ワインを飲むからですか?」
「いや、違うよ。ヴァンは、奴隷だった人達の心の状態がわかるかい?」
「わからないです」
そんなの、僕が想像しても、絶対に違うと思う。
「彼らの多くはね、常に働いていないと殺されると思い込んでいるんだ。いや、そう洗脳されているとも言える」
「えっ……叱られるじゃなくて、殺される?」
「あぁ、だからパーティをしても、彼らは楽しめない。そこで、講習会なんだ。知識を得る仕事だと考えるだろう? そして、講習会後は、他の人と親しくなり親交を深める仕事としてのパーティだ」
「そんなパーティって、しんどくないですか」
そう尋ねると、ラスクさんは、ふわりと微笑んだ。
「だから、ヴァンが、楽しくさせればいいんだよ。奴隷だった人達の多くは、笑うことを忘れている。ヴァンは、超級『道化師』だろう?」
「む、難しいかもしれません……」
「あぁ、難しいことだよ。だけど、この町に逃げてきた奴隷だった人達は、その心を取り戻してあげないと、裏ギルドでしか生きられなくなってしまう」
ラスクさんは、やわらかな笑顔を浮かべている。だけど、その目は笑っていない。奴隷の現状や、逃げた奴隷の末路を、彼はきっと、見てきたんだ。
僕に、そんな役目が務まるのだろうか。
「とりあえず、状況は、少しだけ理解できたと思います。ですが……」
「ヴァン、何でも一度に解決しようだなんて、無茶なことを考えてはいけないよ。オールスさんの治療も簡単ではないだろう? だけど、ヴァンは、一歩前進させることができた。少しずつでいいんだよ」
「ラスクさん……はい、やってみます」
僕は、やっと笑顔を浮かべることができた。不安しかないけど、やれるだけやってみたい。
「明日のテーマは、既に告知されているよ。赤ワインと白ワインの違いについての講習会だよ」
「えっ? もう、決まっているんですか? というか、赤ワインと白ワインの違いって……。どんな話をすればいいのか……」
あまりにも、広すぎるテーマだ。すべてのぶどうの特徴だろうか。だけど、産地によっても味わいは変わる。生産者によっても、また、作り方によっても味は変わる。
「ふふっ、ヴァンは、ソムリエの顔をすると、ぐんと大人っぽくなるね」
「ええっ? そうですかね」
ラスクさんは、悪戯っ子のような笑顔を浮かべた。何? なんだか、嫌な予感がする。
「ヴァン、この講習会は、ヴァンが引き受けなかったら、レモネ家のソムリエがやることになっていたんだ。レモネ家のワイン講習会は、いつも、最初は同じテーマなんだよ」
「えーっと、赤ワインと白ワインの違いって、すごく深いテーマなんですが」
「ふふっ、ヴァン、頭の中からソムリエモードを消す方がいいかな。ワイン講習会に来るのは、奴隷だった人達だよ。ワインが何からできているかも知らない。たぶん、ワインが酒だということさえ知らない人もいるよ」
「ええっ!! まさか」
いや、そうか。僕は、ぶどう産地のリースリング村で生まれたから、物心ついた頃から、ワインのことは知っている。だけど、そういう環境じゃなければ、知らなかったかもしれない。
「リースリング村で生まれたヴァンには、驚くことだろうね。だけど、俺も、ワインのことは成人するまで知らなかったよ。今も、よくわかってないけどね」
「あっ、はい。神矢の富が、ワインだったから、急に、ぶどう農家は忙しくなりました。なるほど……」
「試飲用のワインは、レモネ家で用意されるよ。そのまま、パーティ用にも使うから、多めにね。それ以外は、ヴァンが用意してあげて」
「わ、わかりました」
どうしよう、大変だ。




