308、商業の街スピカ 〜マルクの変化
「はい?」
返事をすると、屋敷側の扉の鍵がカチャッと開く音が聞こえた。マスターキーを持っているということは……。
「ヴァン、久しぶり〜!」
妙にハイテンションなマルクだ。
「マルク、久しぶり。どうしたの? 今、薬屋の方から、この部屋に入って来たばかりだよ」
「鍵を使ったのがわかったからさ。部屋の前で、待ってたんだ。晩ごはん食べるだろ?」
何か話があるみたいだな。
「カラサギ亭で、中途半端な時間に、ちょっと食べたけど……」
「飲み屋のつまみだけなら、すぐに腹が減るだろう。ウチに来てよ。ちょうど、帰ってきたんだ」
「うん? 帰ってきた?」
僕が首を傾げると、マルクは悪戯っ子のように笑っている。変わらないな、そういうところ。
急かされるように、僕は、屋敷側の扉から出て、長い廊下を歩いた。マルクがワクワクしているのが伝わってくる。
マルクの屋敷の食事の間への扉が開くと、マルクのこの顔の理由がわかった。
扉を開けてくれたのは、綺麗な大人っぽい女性だった。少しぽっちゃりしているけど、背が高く、ゆったりした服を着ているから、そう見えるのかもしれない。
「初めまして、薬屋の部屋を借りているヴァンといいます」
僕がそう笑顔で挨拶すると、彼女はケラケラと笑い出した。何? なんか変なことを言ったっけ?
「ヴァンさん、ご無沙汰ね。初めましてじゃないわよ」
「ええっ!? 失礼しました。えーっと……」
マルクも、ニヤニヤしているんだよな。でも、こんな女性は、知らない。
オギャー、オギャー!
奥の方から、赤ん坊の泣き声がする。赤ん坊? 誰の子? えーっと、ここは、マルクの屋敷で、奥さんのドルチェ家のフリージアさんが建ててくれて……。
「あらあら、坊やが起きちゃったわ」
大人っぽい女性が、慌てて奥へと走って行った。あの人の赤ん坊かぁ。来客なのかな。
「ヴァンも、入って」
「あ、うん。でも、来客じゃないの?」
「へ? あー、あはは」
マルクは、一瞬、ボーッとした後、ケラケラと笑い始めた。何かわからないけど、笑すぎて苦しそうなんだよな。
さっきの女性が、赤ん坊を抱いて、僕達の方へと戻ってきた。まだ、生まれて半年も経っていない感じだ。だけど、すごく賢そうな、綺麗な顔立ちをしている。
「すごい賢そうな子ですね。大人になったらイケメンになりそうです」
「そう? そうかしら? ふふっ、うふふ」
女性は、愛おしくてたまらないという顔で、赤ん坊にほおずりしている。
「ヴァン、ありがとう」
うん? なぜ、マルクに礼を言われたんだ?
「マルク、何が?」
「あはは、まだ、わからない? だよね、もう一年くらい会ってないんだっけ?」
「えーっと、魔導学校で半年前くらいに会ってるよ?」
マルクは、ケラケラが止まらない。何?
「あーははは、ヴァン、お腹いたい」
「へ? 何を言ってんの?」
「俺の子だよ。カインという名前を付けたんだ。フリージアさんは、長い名前ばかり言ってたんだけどね〜」
はい? 俺の子? マルクの子? フリージアさん?
一瞬、思考が停止してしまった。
「ええっ? マルクの子? それって、マルクが父親になったの!?」
「あぁ、そうだって言ってるじゃん」
「ふへぇ? そ、そっか、えーっと……ええ〜っ!?」
僕が叫ぶと、マルクは、ケタケタと笑っている。すると、チビマルクまで、ケラケラと笑い出した。に、似てるかもしれない。
「カインも、ヴァンがびっくりしているのが面白いってさ」
「そ、そうなのか」
「初めて会った人の前で笑うなんて、今までにはなかったことだわ」
女性は、驚いた顔をしている。
だけど、僕の方が驚いているんだ。この人が、あのフリージアさんなのか? ファシルド家で会ったときとも、この屋敷で会ったときとも別人だ。
「あの、フリージアさん、なんですか?」
「ええ、そうですわ」
ここは、叫んではいけない。とは思うんだけど……。
「なんだか、とんでもなく雰囲気が変わられましたよね」
「ふふっ、ヴァンさんのおかげでもあるのよ」
「はい?」
僕は、何かをした記憶はない。
「ヴァン、ファシルド家の人に、ヒート毒のポーションを作って渡していただろう? あれを、マーガレット奥様から、かなりの量を譲り受けたみたいなんだよ」
「あぁ、それでこんなに……雰囲気が」
言葉選びが難しい。体重は……半減だろうけど、今も、まだぽっちゃりさんだから、スリムになったというのもおかしいか。
「びっくりだろ? 産後太りを解消するためだったらしいけど、見た目も若くなってるし」
「カインに、綺麗なお母様だと思われたいじゃない?」
そう言いつつ、フリージアさんのマルクを見る目は、以前と同じく、恋する乙女なんだよな。
「お役に立ったのなら、よかったです」
「ええ、保湿薬も、本当に素晴らしいわ」
そう言えば、保湿薬は、最近作っていないな。もうそろそろ、ファシルド家から呼び出しがありそうだ。
「保湿薬の方は、材料さえあれば、作り方は簡単なので、薬師中級でも作れますよ。薬師が暇になったら、薬屋の混雑もマシになるでしょうから……」
「まぁ! 薬師学校の卒業生にも作り方を教えてしまうの? それは、ちょっと考えさせてちょうだい」
フリージアさんは、商人の顔になった。そっか、喜ばれるかと思ったけど、珍しい薬は、レシピが知られることで、売れなくなるからか。
「そうですね。また、マーガレット奥様と相談してみてください」
僕がそう言うと、フリージアさんはホッとしたらしく、表情が、さっきまでのものに戻っている。
「ヴァン、晩ごはんを食べるだろう? フリージアさんが、今日、戻ってきたから、パーティーをしているんだ」
「戻ってきた?」
「うん、田舎町の方で出産して、少しゆっくりしていたからさ。俺は、あちこちに、お使いに行かなきゃいけないから、大変だったよ」
「それで、最近、会わなかったんだね」
「あぁ、これで、しばらくは、のんびりできるよ」
食事の間のテーブルには、たくさんの料理が並べられている。黒服の中に、テトさんの姿を見つけた。やはり、彼は黒服が似合う。マルクにずっと仕えている人だ。
もう、パーティも、終盤だったみたいだな。料理がだいぶ減っている。従業員を招いたホームパーティーみたいだ。
「ヴァンが来てくれてよかったよ。ずーっと、フリージアさんが同じことばかり、喋っていたんだよ。聞かされるみんなが、飽きていたからさ」
「もう、マルクってば、ひどい言い方ね〜」
へぇ、二人の関係は、対等な感じに変わっているんだ。以前は、20歳年上のフリージアさんが、なんだか母親みたいな感じだったけど。まぁ、マルクは誕生日が早いから、もう17歳だもんな。
来客は、見たことのない人ばかりだ。ドルチェ家の従業員の人達なのだろう。マルクのルファス家からは、テトさんしか、マルクについて来なかったはずだ。
たぶん、マルクは、居心地が悪かったんだろう。年齢的にも、みんなフリージアさんより上に見える。
「皆さん、お邪魔します。薬屋のオーナーのヴァンです」
簡単に挨拶している間に、テトさんが、僕に給仕をしてくれた。やはり、黒服としては、僕よりも圧倒的にスムーズな動きをする。見習いたいな。
「ヴァン、挨拶なんていらないよ。食べて食べて」
マルクは、僕の隣に座って、ケーキを食べ始めた。そっか、マルクがハイテンションなのは、少し酔っているのかな。
「すごい、美味しい」
「だろ? テトが作ったんだ」
「へぇ、すごい! 黒服として、僕も見習いたい」
「あはは、ヴァン、うちで黒服やる?」
「マルク、僕に務まるわけないだろう? ヤバイんだよ、最近、全然ジョブの仕事してないからさ。印が陥没した人を見て背筋が凍った」
「あはは、それは、ヤバイ。でも、ヴァンの場合は、大丈夫じゃない? ぶどうの妖精の世話をしてるじゃん」
「それならいいけどね。ちょっと、落ち着いたし、ハンターの神矢もしばらく降らないみたいだから、今がチャンスなんだよな」
そう、ジョブ『ソムリエ』の仕事をやるなら、今しかない。
また、ボックス山脈に行きたいもんな。だけど、マルクは、子供が生まれたから、誘えないか。
「落ち着いたってことは、そろそろ彼女と結婚するの?」
マルクの何気ない言葉が、僕の頭に雷撃を落とした。
「婚約は、解消されちゃったんだよね」
「えっ? なぜ? フランさんでしょ」
マルクは、神官様と親しかったっけ?
「うん……」
「ヴァンのことが好きみたいだったけど?」
「……うん」
僕の頬を涙が一筋、ツーッと流れた。ヤバイ。




