216、商業の街スピカ 〜天兎の歌姫
「バトラーさん、えっと、歌声ですか?」
誰かが屋敷のどこかで、歌っているんじゃないのかな。薬師の仕事とは、全く関係ないと思う。奥様方が眠れないから、睡眠薬を作ってほしいということだろうか。
「そうなんです。ここに居ても聞こえないのですが……。何か幻聴を引き起こすような毒物が泉から出ていると、ノワさんが言うんですがね」
「毒物ですか? ちょっと見てきますね」
きゃー!!
「あらあら、私は、ノワさんの様子を見に行って参ります。フロリス様の畑から、虫が出てきたのでしょう。ヴァンくん、泉はお願いしますね」
バトラーさんは、もう慣れているのか嫌な顔もせず、あぜ道を戻って行った。ノワ先生は、虫を見ても爆破しなくなったのかな。だとすれば、大きな進歩だ。
僕は、泉の方へと進んでいった。
確かに、女性の歌声が聞こえてくる。なんだか不思議な感じがするけど、何だろう?
泉は、以前は、ほぼ枯れていたけど、今は、ここからはフロリスちゃんの畑へは行けないほどの水量だ。ノワ先生が言う毒物というのは、水面にぷくぷくと浮かんでは消える泡のことだろうか。
泉の水に手を触れてみると、歌声はピタッと止んだ。
「アナタは、だぁれ?」
尋ねているのは、歌っていた個体だろうか。だけど、姿は見えない。夜だもんな。
「僕は、ヴァンといいます。素敵な歌声ですね」
「そう? でもおかしいの」
「どうかしたんですか?」
「私が、賛美の歌を歌ってあげているのに、あの子は幼体のままなのよ。おかしいわ」
賛美? 幼体のまま? 意味がわからない。
「誰に歌ってあげているのですか?」
「この建物の中にいる幼き子よ。どうしてかしら」
「聞こえていないのかもしれませんね」
「そんなはずはないわ。さっきも、その窓から、私を見ていたもの」
「うん? どの窓ですか?」
僕がそう尋ねると、水の中から、巨大な手が出てきた。び、びっくりした。そして、透き通った顔も……。これは、精霊様か。人間の三倍はありそうだ。
その手が示しているのは、フロリスちゃんの寝室だ。きっと少女は、寝ているはずだ。
うん? 成体にならないって言ったっけ? ぷぅちゃんのことか。以前会ったときには、随分と成長していたもんな。
「仕える主人が、眠っているからではないでしょうか」
「昼間も、歌ってあげたのよ?」
「あの、貴女は、何の精霊様ですか?」
「やーね、私は精霊じゃないわ。あの子と同じ種族よ。うーん、おかしいわね」
天兎? まるで水の中に溶けているかのように、同化して見える。
「天兎には、いろいろな成体の形があるのですね」
「そう? 普通じゃないの? 私は、歌姫なの。成体になることができる子に、賛美の歌を歌って祝福してあげる役割があるの。みんな、私の歌を聴くと、幼体から成体に進化するのに……おかしいわ」
へぇ、不思議だよな、天兎って。
「あっ、あの子は、普通の子じゃないのかもしれないわ」
「どう普通じゃないんですか?」
「ただの獣人じゃなくて、何かの役割があるのかも。私みたいな歌姫ではないと思うけど」
「普通の天兎って獣人ですよね? 人間と近い姿をしている……」
「あら、よく知っているわね。ふぅん、貴方も普通じゃないわね」
透明な大きな顔がこちらを向いた。夜だからか、彼女がどこを見ているのかわからない。普通か否かにこだわるんだな。
「そうかもしれませんね。あの、天兎さん、普通じゃなかったら、成体にはならないのですか」
「私の賛美の歌では足りないわ。神殿に連れて行きなさい」
「えっ? 神殿ですか」
僕が空を見上げると、大きな手が迫ってきた。ギョッとして構えたけど、僕を害するつもりはなさそうだ。どこかを指差している。あの方向は……。
僕は、スキル『迷い人』のマッピングを使った。歌姫が指差している方向には、僕の知らない町がある。その先は、ボックス山脈だ。ボックス山脈は62地区付近か。僕が出入りしていたビードロの草原があるのは、63地区だっけ。
「町ですか? もしくはボックス山脈?」
「山の上の方に、神殿があるわ。そこで尋ねることね。私は、次の地に行かなきゃ。任せたわよ」
泉から何かが浮かび上がり、空気に溶け込むように消えていった。濃かったマナが一気に薄まったような気がする。
彼女が居なくなると、泉の水量が少し減ったようにも感じる。なんとも不思議な種族だよな。
ドガン!
あっ、フロリスちゃんの畑付近から、変な音が聞こえた。ノワ先生が虫を爆破したのだろうか。
僕は、スキル『道化師』の変化を使った。なるべく小さなかわいい鳥をイメージした。
ボンッと音を立て、僕の姿が変わった。うん、翼がある。僕は、翼を動かしてふわりと浮かびあがった。そして、フロリスちゃんの畑へと移動した。
ドガン!
ちょ、何?
危うく何かに撃ち落とされそうになり、慌てて変化を解除した。
「うわぁ〜ん、ヴァンくぅ〜ん」
ありゃ、ノワ先生は髪を振り乱して、大変な状態になっていらっしゃる。あれ? バトラーさんは、いないのかな。
「ノワ先生、こんばんは。何かありました?」
「バトラーさんってばひどいのぉ。私は、何も悪いことしてないのにぃ〜」
いやいや、破壊活動をしていますよ?
「そのバトラーさんは、どちらに?」
「私に、泉の見張りをしなさいって言って、あっちに行っちゃったのぉ〜。きっと泉の中には、虫のバケモノがいるんだわぁ」
なぜ、泉の中に虫?
「ノワ先生、大丈夫だと思いますよ。歌っていた人は、次の地へ移動しましたから」
「なぁんだ。誰かが泉の中で歌の練習をしていたのねぇ。もう、びっくりさせないでよぉ」
泉の中で歌っている人って……マルクなら、幽霊だと思うんだろうな。ノワ先生は、血と虫以外は、平気なのか。
「あれぇ? ヴァンくんはどこから来たのぉ?」
「泉ですよ」
「うむむむぅ? 深いわよ? 渡る橋もないわよぉ?」
ノワ先生は、柵から身を乗り出している。危なっかしいな。ばちゃんと泉に落ちてしまいそうだ。
「ちょっとスキルを使って移動してきました」
ノワ先生に爆破されそうになったけど。
「そうなんだ。ふわぁ〜、安心したら、眠くなってきちゃったわ。ヴァンくん、あとはお願いね〜。私は寝るー」
いやいや、ノワ先生が、常勤でしょ。
僕に反論する隙を与えず、ノワ先生は、中庭の方へと去ってしまった。
この畑、明日朝、フロリスちゃんが見たら悲しむだろうな。ノワ先生の虫退治で、ぐっちゃぐちゃだ。
空を見上げても、妖精はいない。まぁ、寝てるよな。どういう状態だったかは、メイドの二人に聞くしかないか。
僕は、フロリスちゃんの部屋の窓を叩いた。
「あら、ヴァン、こんなところからどうしたの?」
気づいてくれたのは、僕が名前を知っている方のメイドさんだ。よかった。
「マーサさん、こんばんは。バトラーさんに泉の件で呼び出されたんですが……」
「あー、昨夜からずっと、歌声が聞こえるのよね。窓に、バリアをかけてもらったわ。あら? 窓を開けても、聞こえないわね」
それで、ぷぅちゃんに歌声が聞こえなかったのか。
「賛美の歌を歌う歌姫が居たみたいです。でも、次の地へ移動したようですから」
「そう、じゃあ、窓を開けても大丈夫ね。ヴァン、それで何か用事があったんじゃ?」
「はい、あの……ちょっと、畑を見てもらえませんか? ノワ先生が爆破したみたいなんです」
僕がそう言うと、マーサさんは顔色を変えた。
「大変だわ。ぷぅちゃんのごはんがなくなってしまったのね」
「多少は残っているようですが……」
マーサさんは、中庭に出てきた。そして、横の畑を見て頭を抱えている。
「どうしましょう。もう、種がないの。ちょっと手違いで明日の夕方にならないと届かないわ」
「ぷぅちゃんは、雑食だから大丈夫じゃないですか?」
「それが、フラン様から、しばらくは、この草だけを与えなさいと命じられているのです。ぷぅちゃんに変化の兆しがあるようで……妙な物を与えると、死んでしまうかもしれないと……」
いや、死ぬことはないだろうけど……。
「ぷぅちゃんが食べるのは、これですか?」
爆破されて、ここまで吹き飛んできている背の高い草を見せた。
「ええ、そうよ。こんなに、ちぎれてしまって……」
僕は、根の付いている草を植えなおした。僕にできることは、ここまでだな。種を作り出したり、増やしたりという技能は僕にはない。
「明日、フロリス様に特別な予定はありますか?」
「いえ、いつも通りに過ごされます」
「では、明日、ぷぅちゃんを連れて、出かけましょう」




