3.無能な働き者 / 七郎の透明さ
学生の時に透明人間だった男が社会人になっても透明、というわけではない。そもそも、実際には透明ではないし、「見えているけれど見ないふりをされていた」人間だったのが、金銭の絡む労働になると周りの人間が見ざるを得ない状態になり、その結果、もともと周囲に「透明にされていた」人間であるために他人に煙たがられ、嫌われ、排除されるだけの話なのだ。
七郎は店舗で働いていた時には学生の頃と同じように透明人間の無能で、周りに迷惑をかけていたが苛められることはなく、周囲の人間が無言でカバーしていた。しかし、それも親切心や慈悲心ではなくて、「アイツと関わらない代わり」に仕事をやり、できるだけ七郎を透明にしようという魂胆に違いなかった。それは無自覚なものだったかもしれないが、七郎にとってはどちらでも同じことだった。
配送センターでの仕事は七郎を透明扱いにはしなかったが、透明でない七郎は無能なデクノボーに過ぎないのだから、周りにとって彼は邪魔者以外の何者でもない。そうして彼は、二十歳を過ぎてから初めて「いじめ」を体験することになった。
世の中にはいじめが原因で死ぬ人もある。いじめで人が死ぬと、きまって各学校に御触が出て、「なんて悲惨なことだろう」、「こんなことがあってはならない」と同情しだし、生徒指導の教員が、他校のいじめなのに、まるで自校の生徒が犯人であるかのように怒り出す。「この学校ではそんなことさせません」と、半ば脅すように喚き倒す。
いじめで死んだ人のニュースを見る度に、七郎は被害者を羨ましく思った。いじめられる人間は死んだら同情を受けるのだ。しかし、七郎のような透明な人間が死んでも何もないだろう。「いつも何を考えているのか分からない人でした」、「存在感のない人でした」と言われ、生きた痕跡さえも残されないだろう。七郎は教室の端の席で、いつも「死にたい」と思っていた。しかし、そう思えば同時に、
(俺が死んでどうなるだろう。どうもならないだろう。俺の死は、俺の生と同じだけ無駄なのだ。ならば、もう少し生きて、せめて、己の死に価値をつけたい。いっそ「可哀想」でも構わない。いじめられて死んだ連中は、あんなに涙を流されている。あれはきっと、「まだ生きられたのに」という儚さから来るのだろう。ならば俺も、早死にしたいものだ。俺が死んだら、誰か泣くだろうか。泣いてくれるだろうか)
七郎は透明人間だったから、いつも苛めの現場を横目で観察していた。そうして彼は、いじめられる側の人間像を理解し始めた。彼らの大半は七郎のような無能に違いなかったが、彼らと七郎の違いは一つだった。それらは、いじめられる彼らが「無能な働き者」であり、七郎が「無能な怠け者」であった点で異なっていた。
いじめられる人間は無能な癖に「俺には何かできる」と信じている。それでやたら表に出たがる。他人の信頼が無いくせに仕切りたがる。誰にも求められていないのに「俺がやらなければ」と勝手に使命感に燃える。自分が貧者である癖に弱い者を見ると「俺が助けたい」と救世主を気取る。他に適している人は沢山いるのに、「これは俺にしかできないことだ」と自分を唯一無二の人間だと思い込んでいる。そういう人間、つまり、無能な癖に存在感を周りに主張してくる人間が、きまってハブにされたり、いじめられたりしていた。
七郎は彼らとは違った。七郎は教室の中では静かにしておこうと考えていた。「どうせシラける」と思っていた。集まり事で誰も仕切ろうとしなくても、「少なくとも俺が仕切る役にはならない」と思っていた。彼は誰を助けようとしなかった。そういう役目は他の人間がするものだと思っていた。七郎は周囲からの透明であることの要請を、半ば容認してるような素振りをしていたのだ。そして、現実において七郎は確かに透明だし無能であった。しかし、七郎はそこまで客観的に己を見つめることの出来る人間ですらなかった。本当は誰よりも目立ちたいし、何事においても主役になりたいと思っていたのである。それで己の可愛さあまりに臆病になって、影を潜めているに過ぎなかった。表に出なければ、誰もが裏のヒーローになりきることができるし、そう思い込める。
世の中には本当は有能な癖に謙遜して無能を気取り、自分の能力を必要以上に大きく見せようと考える演出過多で性悪な人間が多いから、「無能な働き者」も七郎も「俺は隠れているだけで、本当は凄い人間なのだ」という残酷な夢を持ち続ける。しかし、「僕は無能なので出来るだけ無理はしません」などと言う人間を採用する会社はない。たとえ彼らが己の無能を自覚して、静かに過ごしたとしても、働きに出てしまえば、競争社会に入ってしまえば、彼らは自分が無能なのを知りながらも成果を出そうとしなければならない。そうして七郎も、例に漏れず「無能な働き者」の仲間入りをし、いじめられるのである。
無能な働き者をいじめるのは、地位の高い有能な働き者だ。学校ならば、カーストの最上部にいる人達。いつもクラスの中心にいて、彼が仕切ることを誰も反対しないような人物だ。それは社会の中でも変わらない。
七郎の勤める配送センターの長は正にこういう人だった。センター長は「ニシムラ」という男だった。声の大きさと機嫌が全く比例した男で、感情が高ぶっている時はどこまでも響く声で話している。ニシムラはとにかく口数の多い人で、頻繁に「どう調子は?」と多くの配送員を、見かけては声を掛けている。
ニシムラは元気のいいヤリ手のリーダーとしての顔が通っていた。しかし、彼は一方で裏表の激しい人で、有能な人間はとことん褒めるが、無能な人間には常に高圧的な態度をとった。七郎はセンター勤めの配送員になった初日以外、ニシムラに嫌味を言われなかった日がなかった。
「ぬくぬくと店舗で働いてた奴は、やっぱりダメだなァ」
「いつまで青年ヅラしてやがんだ。働けバカ」
こうした言葉をニシムラは言った。七郎に直接言うのではなく、彼の周辺に立ち、近くの棚か何かを漁る仕草をしながら、誰に言う素振りも無く、独り言の体裁をとって呟いた。ニシムラの言葉を受けて、七郎が凹むような様子をみせれば、途端にニシムラは機転を利かせ、
「あれ? どうしたの?」
「俺の言葉? あぁ、独り言だよお、君の事なんか言ってないさ」
「君、若いからって少し自意識過剰なんじゃないか?」
「それじゃあ、女にモテないぜ? ハハハ」
そうして、またどこかへ行ってしまうのだ。




