21.どうしよう! / 七郎の出勤
停車した車と同化するように七郎は静止した。車内の空気も動かず、固く締めきった外の音を遮断している。しかし、彼の心臓は交尾中のウサギばりに激しく鼓動していたのである。七郎は、そのアンバランスさに嘔吐したくなった。口の中が酸っぱくなる。感傷も湧くから鼻水が喉に流れてしょっぱくなる。内も外も、何もかもがカオスに入り乱れていた。車内に留まるも地獄、車外に出るも地獄だった。
続々と出勤していく同僚たちは、車内で石像のように固まっている七郎を怪し気に眺めながらセンターの中へ入っていった。七郎は、その視線を感じると、これはいよいよ出なければならない、と思って、ようやく外へ出た。
(どうしよう! どうしよう! どうしよう! どうしよう! どうしよう! どうしよう! どうしよう! どうしよう! どうしよう! どうしよう! どうしよう! どうしよう! どうしよう! どうしよう! どうしよう! どうしよう! どうしよう! どうしよう! どうしよう! どうしよう! どうしよう! どうしよう! どうしよう! どうしよう! どうしよう! どうしよう! どうしよう! どうしよう! どうしよう! どうしよう! どうしよう! どうしよう! どうしよう! どうしよう! どうしよう! どうしよう! どうしよう! どうしよう! どうしよう! どうしよう! どうしよう! どうしよう! どうしよう! どうしよう! どうしよう! どうしよう! どうしよう! どうしよう! どうしよう! どうしよう!どうしよう! どうしよう! どうしよう! どうしよう! どうしよう! どうしよう! どうしよう! どうしよう! どうしよう! どうしよう! どうしよう!どうしよう! どうしよう! どうしよう! どうしよう! どうしよう! どうしよう! どうしよう! どうしよう! どうしよう! どうしよう! どうしよう! どうしよう! どうしよう! どうしよう! どうしよう! どうしよう! どうしよう! どうしよう! どうしよう! どうしよう!どうしよう! どうしよう! どうしよう! どうしよう! どうしよう! どうしよう! どうしよう! どうしよう! どうしよう! どうしよう! どうしよう! どうしよう! どうしよう! どうしよう! どうしよう! どうしよう! どうしよう! どうしよう! どうしよう! どうしよう! どうしよう! どうしよう! どうしよう! どうしよう! どうしよう! どうしよう! どうしよう! どうしよう! どうしよう! どうしよう! どうしよう!)
(どうしようも、ない!)
七郎は、何度も足を止めながらセンターの中へ入っていった。挨拶もせず、無言で、聾唖者よりも愛想悪く出勤を済ませた。視界の枠が黒ずんで、まるで筒から世界を覗いているような視野しかなかった。耳も遠くなった。己からは見えないが、きっと老人のように顔が皺がれているのだと思った。痺れきったように、表情筋が動かないのである。
なるべく下を向いて歩いた。ニシムラと出会うタイミングを少しでも遅らせようという、七郎のせめてもの策だった。しかし、時計の針は遅れない。朝礼はいつも通りやって来る。七郎は、時計を外そうかと思ったが、朝礼の会場には既に人がずいぶん並んでいた。今さら時計を外しても、何にもならない。
「浮田センパイ」
椅子に座って俯いていた七郎に、ミツザキが声を掛けてきた。七郎は、声が男のものだったことに驚き、飛び上がりそうにもなったが、それがミツザキだと分かると平生を装って、蚊の鳴くような声で「おはよう」と返した。
「センパイのグラフ、まだ伸びてないんすけど、どうなってんすか」
「え、え」
七郎はハッとした。掲示板の棒グラフは、依然として最下位のスコアになっていた。昨日、ミツザキに告げた結果が反映されていないのを、ミツザキは嫌味にも気づいて、わざわざ指摘してきたのだ。七郎は、つくづく、その性格の悪さを呪った。
「どうも怪しかったんすよねえ、いきなり一〇セットなんて。ねえ、ホントに売ったんすか」
「え」
「いや、え、じゃなくて。アンタ、マジで一〇個も売ったの?」
ミツザキは顔をずいと近づけて七郎に言った。そこには最早、先輩に対する尊敬とか、畏敬とかいうものは無かった。ミツザキは、はなから、昨日の七郎の発言を嘘を決め込んで、これを良い機会として、七郎に高圧的な態度をとろうと画策していたのだろう。七郎は、そういうことには敏感だった。ミツザキは、きっと、七郎と同期の配送員には向けないであろうニヤケ面を浮かべた。
「なあ、アレ、嘘だったろ」
「い、い、いや」
「あ、小山さん、一〇セット注文されてましたよね」
委縮する七郎の横で、明るい調子の声がした。ちょうどミカが室内へ入ってきたようで、ミツザキと七郎の会話を聞いたのであろうか。ミツザキは、ミカに気づくと咄嗟に、憎たらしい笑顔を、器用にも爽やかな笑顔に変えた。それは微妙な変化であったろうが、ミカはそれに気づいていないようだった。
「昨日の注文データ、見てて驚きましたよ! 一日で一〇セットなんて、凄いですよね!」
ミカが小動物めいた輝く瞳で、そう言ってきた。七郎は今がチャンスと思って、「そうだね! 昨日はツイてたんだ」と、いきなり声を張って言った。七郎の声は室内に響いて、やかましい雰囲気が一度だけ止んだ。そして、七郎はミツザキをまっすぐに見つめた。
「……じゃあ、グラフ、塗ったほうがいいですよ。あらぬ疑いをかけられますから」
「そう、だね」
室内に再び喧騒が戻ってきた。ミツザキが離れると、七郎はミカに礼を言いたいと思ったが、ミカは既に、別の集団の方へ混じって歓談しているのだった。