20.瞼の異世界 / 七郎の寝落ち
眠らぬことを決めた以上、七郎の夜は長い。しばらくの間、頭を抱え、ベッドにうずくまっていた彼は、それを無駄と悟ると再び机に向かってパソコンを開いた。そして、今度は小説ではなく、デスクトップ上に「計画書」と題をつけた新たなテキストファイルを作って、「どうしよう、どうしよう」と譫言を呟きながら、指をキーボードに擦りつけてばかりいた。
計画が浮かばない間、七郎はセンター内の人間関係や、ニシムラの悪口を書くことで不安を紛らわせていた。それも不足気味になってくると、今度はミカのことを考え、己と彼女との初夜の風景を綴ってみたりした。酔いどれになったミカを介抱しながらホテルに入り、あれよあれよと服を脱がして致したかった。そして、いざ始めようとすると、それまで眠気眼だったミカの眼がパッと開き、一言。
「わたし、ホントは、お酒強いんです」
「エッ」
「……だって、酔ったフリしないとホテル来れないじゃないですか」
「ジャ、ジャア」
「はい……」
「ウ、ウム……」
深夜の三時を回る頃、七郎は、この妄想でオ〇ニーした。そして、ミカとの蜜月の妄想をティッシュの中へ放つと、途端に、まだ何も終わっていない計画書が目に入って落ち込む。
(なぜ、俺はオ〇ニーなんかしてしまった? そんな暇はないのに! 俺の、死活問題に匹敵する展開が、これから起きようとしているのに、なぜ俺はシコシコとやってしまった? 俺は馬鹿だ!)
七郎は再び頭を抱えて、絞るようにして掻き毟っても、出るのはフケだけだった。計画書には相変わらず七郎とミカの官能小説しか書かれていない。それも、七郎は童貞だから、前戯やら挿入やらは露骨に舌足らずな描写になっていた。それでも、童貞だから抜けるのである。童貞には「リアリティがない」などという評価すら下せない。
時刻は四時を回る。七郎は焦っていた。机に向かってから、もうかなりの時間が過ぎていったのに、何も頭の中には浮かばず、お得意の妄想の世界さえ、七郎に年貢の納め時を知らせているかのように黙っている。七郎は寂しくなった。そして、気分転換にテキストファイルを閉じて、自作の小説を読み始めた。
七郎が書いていたのは異世界転生モノの小説だった。現実で虐げられて自殺した主人公が、心優しいエルフ達の村に転生し、長閑な生活を送る。かつて現実で無能だった男は、異世界では頭脳明晰で、体格もよい男に変わっていて、今までの生活が、そのまま裏返ったように充実した人生を過ごしていた。
(ああ、俺も異世界転生したい……。この、エルフ達の村へ行きたい。この現実は、俺には適していないのだ。異世界では、もっと俺は偉い人間なのだ。本当は、本当の俺は凄いはずなのに、この現実が、俺を苦しめている。仕事も上手くいかない。それは俺に適した仕事が無いからだ。恋愛も、俺の魅力に気づいてくれる女が少なすぎるだけなのだ。本当は、俺は仕事も恋愛も上手くいっているはずの男なのに、この世が悪いばかりに、俺は苦しんでいるのだ。俺は決して悪くない)
七郎は、明日の事を考えなければならない己の境遇に怒りを感じ始めていた。しかし、それが誰によってもたらされたのかを考えれば、それは紛れもない七郎自身の行いのせいであることは明白だった。七郎は、持ち場の無い怒りを、また嗚咽にして吐き出した。気持ちの悪い嗚咽である。誰の同情も買えない自業自得の悲しみである。
現実の苦痛がぶり返してくると、七郎は小説に潜ろうと思って、しょぼくれた瞳を無理矢理開いては、ぶれてばかりのピントを揺らしながら文字を追った。そして、情景が浮かぶと目を閉じて、瞼のスクリーンに映し出した。すると、不安は粉が水に溶けるように消え去って、妄想中の藻屑と化した。
異世界の中で、七郎はエルフ達と戯れていた。農村で百姓をしながら生きている異世界の七郎は、山で狩りをする青い眼をした妻のエルフと二人で暮らしながら、沢山の子宝に恵まれた生活をしていた。近所づきあいもよく、隣の大男のエルフとは親友だった。
七郎は雲一つない青天の下でまだ小さな息子たちと一緒に畑の農作物を収穫しながら笑っていた。七郎は幸せだった。七郎は瞼で上映される異世界から離れたくないから、目を閉じたままにいた。そして、そのまま眠ってしまった。
七郎が目を覚ました時、既に出勤の時間は三十分をきっていた。遅刻直前に起きると、寝起きのまどろみなどはなく、人体はスイッチが切り替わったように動き出す。。
(もう朝だ! いやだ、いやだ! 行きたくない! 俺は何の答えも出せていない!)
しかし、七郎の身体が止まることはなかった。早く出勤しろと、逆に命令し、七郎を車へと運び、エンジンをかけさせる。ラジオもかけずに、一心に車は走る。七郎は泣きたかった。
(頼む! 俺を殺してくれ! どこのキ〇ガイでも構わないから、俺を刺し殺してくれ! 俺を出勤させないでくれ!)
皮肉なほどに、その日の交通状況はすこぶる良かった。七郎は快適なドライビングで、配送センターの駐車場に到着した。