2.配送の仕事 / 七郎の人間関係
配送の仕事は一人が好きな人間に向いている。一日の内の大半を車の中で過ごし、降りている間も、配送先が留守ならば、ただ荷物を置いて次の配送先に行くだけだから、口数は少なくて済むからだ。
職場の人間関係も気にする必要はない。なにせ、ほとんどの人間が外で働いているからだ。話すのは仕事前と昼、仕事終わりくらいで、仕事中は特にこれといったコミュニケーションをとることはない。だから同僚関係も程よく希薄だから良好になりやすい。
これが配送センターに勤める直前の七郎が考えていた配送作業へのイメージだった。隣の芝生は常時青く見えるものだから、同僚とも顧客とも常時会話していかなければならない店舗での仕事を辛く感じている男には配送業の肉体労働が、汗を輝かせて働くスタイリッシュで健康的なものに見えてしまった。しかし、この幻想は配送の仕事を初めて二日ほどで崩れ去った。配送の仕事は、とても楽観視できるようなものではないからだ。
配送の仕事の一番の苦痛は「ノルマ」だった。店舗は良い意味でも悪い意味でもチームプレーの色が強いが、配送がほぼ個人プレーだから、各々の結果が反映される。連帯責任は無いが、個人責任になる。
配送員は配送先で荷物を届けるだけが仕事ではなかった。注文を受けた家に行くだけではなく、次の注文を受けなければならなかった。つまり、配送業はスタミナやひたむきさなどは必要ではない。何よりもセールストークが要求される仕事なのだ。
配送センターでは、朝礼で各月のオススメ商品と、各人の売り上げノルマが発表される。そして、配送員は配送先の顧客に向けて、ノルマを消化していくことを命令されていた。
だから、配送員は作業中にも常にノルマのことを考えて、運転中も、「どうやって売ろうか」と考えている。間違っても、クリエイティブな宣伝戦略ではなく、脂汗を浮かべた苦肉の策を頭に浮かべている。七郎も多分に漏れず、このプレッシャーの中に入っていった。
七郎は配送の仕事を始めてから初めて、己のコミュニケーション能力の無さに気づかされた。店舗はチームプレーの民主主義だが、配送は実力至上主義で、個人の力だけが価値になる。店舗では、七郎の無能さが他の有能な職員によってカバーされていたのだ。しかし、個々人で行う仕事の中で、この無能を助ける人はない。
七郎は顧客と世間話をすることが大の苦手だった。多くの配送員は、顧客と接する時には世間話から始める。「今日はいい天気ですね」、「最近、調子はどうですか」と声をかけ、顧客との距離感を近づけていく。そうして、「今月はこんな商品がおすすめです」という言葉への信用を高め、「セールストーク感」を減らし、ノルマを達成しようとするのだ。
しかし、七郎は世間話ができないから、いきなり「この商品がお得なんです」と言ってしまう。だから顧客は「こいつは私に売ろうとしている」と勘繰って、やや不機嫌そうに「いえ、いいです」と突っぱねる。七郎は顧客と距離を詰めることができないから、顧客にとっては「いつも商品と一緒にセールストークをしにくる喧しい男」以上の何物でもない。
配送員のなかには、顧客と親密になって友人や恋人をつくった者もある。しかし、七郎は配送センターのなかで最も顧客の評価が低い配送員だった。時には商品を勧めた顧客に「しつこいんだよ!」と激怒され、定期注文の契約を打ち切られてしまったこともあった。
七郎は幼い頃から友達のいない人間だった。いつも黙って席に仏頂面で座っているだけの可愛げのない子供で、クラスメイトにも担任にも相手にされなかった。
子供社会のなかにも、大人社会と同じように「いじめの文化」があって、前者は後者と比べて、かなり大胆ないじめが行われる。七郎の学校にもいじめはあって、トイレで水をかけられる生徒や、文房具をゴミ箱に捨てられる生徒を七郎は何度か見かけた。
しかし、七郎は勉強も運動もできず、世間話さえ出来ないような生まれながら無能なゴミクズであったが、いじめられた経験は一度もなかった。
彼は他人から傷つけられることはなかったが、それは同時に、この男が、いじめという形でさえ他人に構ってもらえない人間だということに他ならなかった。彼はいじめられなかったが友達はいなかったし、彼を嫌いな人はいなかったかもしれないが、彼を好きな人間は一人もいなかった。彼に悪口をいう人間はいなかったが、彼と話をしようとした人間もいなかった。彼は他人を見ていたが、他人は彼を見ていなかった。七郎は、いつも、そうして、どこまでも「透明な人間」だった。
幼い頃の七郎は、いつもいじめられっ子を羨ましく思っていた。あいつらは教室の中で存在を認められている。だからいじめられるのだ。透明な俺は、いじめっ子の目にも映らない。だから、いじめられないし、クラスメイトとも親密になれない。羨ましい。俺は、いじめられる価値もない人間なのだ、と。
一度、七郎はいじめられっ子に、こう話しかけたことがある。
「なあ、どうやったら、そんなに苛められるのか教えてくれよ」
いじめられっ子は当然傷ついて、七郎を軽蔑した。それから、そのいじめられっ子は、いじめっ子を告発する前に七郎の言動を親や教師に言いつけた。七郎はたった一度の発言で教師に叱られ、いじめられっ子の親に謝ったが、いじめっ子は依然として学校に通い、いじめを横行させ続けた。そうして、七郎はまた、目の前で行われるいじめの現場を物欲しそうに眺めつづけていた。
七郎の人間関係は、社会人になっても変わらなかった。店舗での仕事においても友人はなく、だからこそAへの執拗なアプローチの狂気を指摘する人がいなかったのだ。彼は疎外されてはいなかった。疎外とは、いじめ同様、存在を認められているからこそ起こる悲劇であって、そもそも存在を認められていない七郎には当てはまらない。彼はどこまでも透明だから、他人は彼の何も見ていないし、何も感じていない。
しかし、七郎は自分の透明さは周囲の環境が作り出していると考えていた。俺に存在感がないのではなく、他の連中が俺の存在を認めていないだけなのだ。本当は、俺はもっと存在感があるのに、奴らは馬鹿だから、それが分からないのだと思っていた。
七郎が配送センターへの移動を幸運だと思っていたのも、彼がいつも環境への不満を抱えていたからである。小学校から中学校、中学校から高校、高校から大学、大学から社会への変わり目には、きまって彼はこう考えていた。
(次の環境こそは、俺の存在を認めてくれる場所に違いない)
しかし、七郎は、その全ての場所で透明であった。




