14.騎士道 / 七郎とミカ
女の力とは凄まじいもので、先ほどまでは、さながら煉獄の地の底まで沈んでいた七郎の心情が、ミカからの声掛けによって天頂にまで達した。七郎は、散々罵倒してきたニシムラのことを、ミカを採用したという事実によってのみ尊敬した。あのミツザキさえ、妄想のなかでは何度も撲殺してやったけれども、今だけは許してやろうという気になった。
所詮、大して社会の中に生きてもいない人間の悩みなど、その程度のものである。などと言ってもいいのだが、七郎が陰陽の入れ替わったように明るくなるのは、彼のメンタルが神経過敏の、それはまるで露茎したてのペニスのようなものだったことが大きい。つまり、この場合、七郎にとっての女は、かなり個人的な作用をもたらすものとして、そこにあったということである。
七郎は童貞であった。童貞にとって、女は麻薬である。他愛のない会話をしただけでも、アッパー系のように気分が跳ね上がり、人間万歳と叫びだしたくなる。ただ、ミカと社交辞令の言葉を交わしただけで、虚言を吐いた己を嫌悪していた七郎が「午後から頑張ればいい」と、おめでたい心境になったように。これは全く不合理なことであるのだが、七郎のなかで、やはり女は麻薬同様、天から与えられた御情けの快楽として存在していた。
絶え間ない劣等感に苛まれる時、七郎が女を求めるのはこういう故もあった。たとえ形式的な挨拶程度の触れ合いにしても、七郎はミカと接することで癒された。今日も頑張ろうと思った。ニシムラに挨拶された時には、心底死にたいと思うのである。
七郎がこれまでの人生の、その場その場で必ず恋をしてきたのも間違いなく、こうした作用によるものだった。女は麻薬である。麻薬であるから依存する。繰り返す度に、七郎はその女のことしか考えられなくなり、その女の存在を常時求めるようになり、そんな己を抑えきれずに動き出すのだ。
そして、いつもの如く七郎はミカに恋心を抱いていた。七郎は、ミカと社交辞令以外の会話をした覚えはなかった。しかし、彼はミカがセンターの中で初めて会った時に、挨拶を交わされた瞬間からミカのことばかりを気にするようになっていた。ほぼ無意識のなかで、先の女子高校生との失恋に凹んでいた心の穴を埋めた。ミカの声を耳から受け取って脳がヨダレを垂らして喜んでしまったのだ。そして、もっと、もっとくれろと七郎にせがむのである。
しかし、これまでの恋とは事情が違った。ミカが事務員で七郎は配送員だったから、まず話す機会が少ないのである。機会を作ろうと考えても、事務室に行かなければならない。事務室に行けば、ミカはいるが、ニシムラもいるのだ。己がミカを口説こうと動いていることをニシムラに見られて、物事が好転するとはどうにも思われなかった。そもそも、ミカはニシムラの「お気に入り」だったから採用されたのである。放置しておくわけがない。
七郎はその口惜しさを思う、その都度にニシムラの死を願った。己とミカの恋を阻むニシムラが憎くてしょうがなかった。そうして、大学時代のように、ニシムラが「二人の敵」であるように思われ出した。
(アイツさえいなければ、俺は今すぐにでもミカちゃんと結ばれるだろう……。なぜ、アイツばかりが生きているのだろう。他に生きるべき人間はいて、そういう人間たちが続々と死んでいるのに、どうして俺の邪魔ばかりをするニシムラが生かされているのだろう。いや、俺だけじゃない。ミカちゃんにとっても、だ。俺は彼女を愛している。その気持ちだけは、周りの男より強いはずだ)
(センターの中には、俺以外にミカちゃんを狙っている男も多いだろう。ミツザキなんかは、同期だと言って既に近づいているかもしれない。なんて汚らわしい。犬の糞共が。所詮、アイツらはミカちゃんの身体目的に決まっている。若い女なら、誰でもいいような連中なのだ。だが俺は違う。俺は、彼女の精神を愛している。俺は、ミカちゃんの声を聞くだけで救われるのだ。俺は、彼女に恩返しをしたいと思っている。深く感謝しているのだ。アイツらに感謝はないだろう。ただの、性欲の満足を買いたいだけの、野生じみた人間もどきの猿じゃないか。きっと、ミカちゃんもそれは分かっているはずだ。最後の最期には、俺のような男を選んでくれるはずだ。その点、俺は悲観していない。俺は彼女を信じている。そうして、深く愛している)
七郎のなかで、もはやミカとの関係はロミオとジュリエットの域まで達していた。しかし、ミカの真意は分かってはいなかった。その点の確信を得ることは不可能だと思っていた。これまでの人生でろくに人と親密になれなかった七郎にとって、他人の心など分かるはずもないものであった。だから、そんなことを確認するのは時間の無駄だというのが彼の考えであった。一か八かで告白すれば全てが分かるはずだと思っていた。
七郎はトラックに乗り込んだ。気分はさながら、中世の騎士であった。そして、次には愛する姫を守り抜くと決め込み、アクセルを踏み込んだ。しかし、センターを出て曲道を走る時、既に彼の頭の中には一抹の不安が芽生え始めていた。