病み
暑い。暑過ぎる。
軟弱な自分には病院内の温度は地獄のような暑さだ。しかも、個室が空いていないからと、六人部屋に放り込まれた。大事な跡取り息子に対して、なんて仕打ちだ。
しかし、そんな地獄の中でありならもが、小さな楽園は存在している。
「井澤さん、検温の時間ですよ」
そう言って仕切りのカーテンを開けて入ってきたのは、ピンクのナース服では抑えられない色気を持つ看護婦だった。あ、今は看護師と言わなければいけないのだったか。でも、俺は看護婦という言葉の方が唆られる。
今では珍しくなったスカートとナースキャップといういで立ち。むっちりとした尻を包む生地は、はち切れんばかりに盛り上がり、スカートの下にある肉を容易に想像出来る。あれを自分の上に乗せ、掴み、揺すったならば、どんな嬌声を上げるだろうか。
下卑た夢想に欲望が立ち上がる気配を感じ、俺は慌てて足をすぼめた。状況を知ってか知らずか、看護婦が前触れも無く掛布団を捲り上げる。チラリと確認した後、看護婦は全く動じずに検温と血圧測定を行い「お元気で何より」と何事も無いように去って行った。
少しは顔を赤らめてもいいだろうに。残念に思いながら、俺は枕に頭を沈め直した。
まぁ、右足を吊られた状態で、入院初日から一物に管を入れられているのだ。今更何を見られてもといった心境ではある。
動けずにベッドで過ごすのは苦痛でしかない。テレビやスマホのゲームにもも飽きてくる。見舞いに来る奴もない俺はひたすら暇であった。
飯もたいして美味くは無いし、その上、量も少ないとくる。不満は多いが、自分では成す術もない。
結果として、やってくる看護婦や医者を弄るくらいしかやることが無かった。
ただ困るのはここが六人部屋だということだ。口説くにしても、詰るにしても、ギャラリーが多すぎる。聞かれてとやかく説教をされるのも嫌だ。
周りは年寄りばかりで、何も言われないと高をくくっていたら、入院初日に偉い目に合った。隣の区画のジジイに夜中延々と管を巻かれたのだ。
初めは俺のことに文句を言っていたのだが、それが次第に見ず知らずの子供だとか、嫁だとか、会社の人間やらに変わり、怒りの矛先を向けられ、腹が立ってナースコールを連打して看護婦に文句を言ってやった。
しかし、返って来たのは「ごめんなさい。少ししたら収まると思うので、もう少し様子を見て下さい。こちらも急ぎの処置が終わったらすぐに伺います」といった、なんとも無責任な答えだった。
これ以上に急ぎの処置などあるかとナースコールを投げつけたが、それは掛け布団の上にぽそりと虚しく落ちただけだった。
患者は大事な客だ。不愉快な思いをさせるとは何事だと思ったが、俺は常識的な人間だ。夜中に隣のジジイのような迷惑は掛けられない。イライラしながら看護婦を待ったが、結局のところ、この件で謝りに来た看護婦はいなかった。
それ以来、俺としては大人しくいている訳だが、流石に嫌気が差してきた。一週間も良く保ったと思う。そろそろ派手に暴れようかと画策していた所に朗報が入った。
「個室に移れますよ。特室が先程空きましたから」
親父の携帯に、連日個室に移らせろと吹き込んだ成果だろうか。俺はこの知らせに喜んだ。
特室は部屋も広く、消灯時間もない。食事のグレードも上がるらしい。専任も看護婦も何人か付いて、手取り足取り色々な世話を焼いてくれるらしい。詳しくはここでは―― と、言葉を濁されたから、恐らく、世間的には大っぴらには言えないサービスだろう。それも楽しみだ。
俺の胸は高鳴る。こんなに禁欲生活をさせられたのだ。思う存分やりたい放題してやる。
荷物はスマホとその周辺機器くらいのものだ。足は動かせないから、ストレッチャーに乗せられての楽々移動。
特室は見た目はかなり質素だが、トイレや浴室が付いており、テレビも大型だ。ベッドも相部屋とは違う。サイズは大きいし、マットレスは程よい弾力がある。上掛け肌触りが滑らかで軽い。そして何よりもベッド自体に、いかにも病院といった感じが見られない。ベッド柵も家具調に仕立てられたものである。色も落ち着いているから、気にはならなかった。
ただ、どうしても病院であると意識させられるものは、身体に繋がれた管と独特の消毒されたようなにおいだ。それさえ無ければ、ちょっとしたホテルと言っても良い感じの部屋だ。
移ったすぐ後に出た食事もボリュームがあり、久しぶりに満腹に近い感覚になった。やっぱり飯は美味い方が良い。看護婦は手取り足取りとは行かないが、相部屋よりは当たりが柔らかく、放っておかれることはなかった。
言いたい事をいい、訪れた看護婦に手を出しても、特に注進はされなかった。中々に快適な空間である個室に俺は満足していた。
日々に大きな変化は無く、骨折は快方に向かっている。しかし、そう思っていたのはどうやら俺だけだったらしい。
夜勤の看護婦を独占し貪っている途中で、そいつが不意に涙を溢した。パタパタと落ちてくる大粒の滴。何だか興ざめし、俺は動きを止めた。感極まったのか、看護婦は失言した。
「若いのに、かわいそう――」
俺の上で看護婦が吐露する。
進行性の末期がん。
余命は一月。
幸いに痛みは押さえられている。
しかし、いつ容態が変わるか判らない。
「は? ナニ言ってんだ?」
俺はこんなに元気だろうがと言おうとし、はたと口をつぐんだ。
俺の足は吊るされてどれだけ経ってる。
本当なら、松葉杖とかで充分なんじゃないか。
医師は何て言っていた?
頭の中で言葉が凄い勢いで流れる。ろくに話しを聞いていない。思い当たったのはそんな事実だけだった。
やる気を無くした俺に気づいたのか、看護婦はいつの間にか姿を消していた。
この日から、俺は自分の状況を確認し始めた。トイレにはいけない為に入れられた管。腕には常に点滴用の針が入れられるように管の付けられた部分がある。渡される薬は多い気がする。そしてこれらの物に関して、俺は説明を受けた覚えが全く無かった。
「まあ、骨折の話しもまともに覚えちゃいないんだ。綺麗サッパリ忘れてるのかもしれないけどな」
自分の迂闊さに呆れるしかない。俺は看護婦達から聞き出す事にした。本当に死ぬなら自分が本当に病気だと納得して死にたい。好き勝手してきたから、こうして病気で死ぬのも、まぁ、運命って事だろう。
看護婦達に手を出しながら、俺は自分が死ぬのか尋ね続けた。結果、解ったのはこういったことだった。
この特別室は、職員間では有名な入ったら出られない部屋であること。
俺のガンは最終ステージで、あちこちに腫瘍が散らばって、抗がん剤の効きも悪いらしい。その割りには自覚症状が出ておらず、その点は医師が不思議に思うくらいだということ。
骨折は骨の内部にある腫瘍が原因であり、それが切っ掛けでガンが判ったということ。
両親は息子の為にと本人告知は控えたということ。
「死ぬの俺なんだから、告知しろよ」
両親の気遣いは無駄だ。
どうせ俺の行動は変わらない。
死ぬまで好き勝手させてもらう。
幸いにこの特室は末期の患者の要望は出来うる限り叶えるという方針だという。看護婦はどんな要望にも応じるように言われている。その分、給料も破格だという。月に十日程で通常の看護婦よりも多くの給金が出るらしい。娼婦まがいの行動をするのも金の為という訳だ。これは俺が言質を取ったから間違いない。
俺は喰いたい物を喰い、飲みたい物を飲み、看護婦には俺の希望通りの世話をしてもらい続けた。
しかし、それも日を追う毎に億劫になってきた。病状が進んでいるんだろう。
食事をするのも嫌になり、女を抱くのも面倒だ。飲むことさえ辛い。常に点滴を入れられるようになり、息をするのさえ疲れるようになった。
「俺もそろそろ終わりかな」
弱気になり、天井を見上げる。時にはどうしようもなく不安になり、ナースコールを押したりする。そのうち日がな一日うとうとと過ごすようになった。
どれくらい眠っていたのか。恐らく、俺の身体は、もう、限界なのだ。息をする度に荒い音が漏れる。自分ではどうしようもない。うっすらと目を開けると、部屋の端に両親と黒づくめの男がいるのが見えた。
葬儀屋と打ち合わせか。何も俺の部屋でやらなくてもいいだろうに――
最期の最期まで、両親は無神経だ。
まあ、今に始まった事ではないが。
そんなことをボンヤリと考え目を閉じた。どこかふわふわと現実離れした感覚が身を包む。そろそろ俺も終いかと実感していると、両親の信じられない声が耳に入った。
「これでやっとこ安心出来ます」
心底安堵したような声。俺は耳を疑った。
ちょっと待ってくれ!
何だって?
意識が薄れる中、俺は事実が知りたくて足掻いた。いや、自分では足掻いてるつもりだが、手足は全く動かないし、声も出てはいない。でも、意識ははっきりとしていた。俺は、まだ、辛うじて動く目を開く。そうして視線だけを声の方へと動かした。
「本当に有り難うございました」
父母が頭を下げている。その先にいたのは、先程の全身黒づくめの男。どこか死神めいていて、俺は嫌なモノを感じた。
「息子さんは末期のガンでした。ご本人には告知せず、沈痛治療と抗がん剤の投与を行いましたが、効果はなく、今は瀕死の状態です」
男の言葉にああ、やはり聞いてた通りだと思う。俺の状態を知っているのなら、病院の関係者だろうか。しかし全く見覚えは無い。
それにしても両親の態度が解せない。息子が死んでいくのにあの安堵した表情は何だ。闇に引きずられる意識を怒りで引き留める。
「病院側には無理を言いました。申し訳ごいません。ああ、これでもう煩わされる事は無くなる」
心底安心したような父親の声。
笑顔で涙を流す母の顔。
そして、黒づくめの男の嘲るような目。
「おやおや、息子さんはまだ頑張っているようですね。でも――」
男が近づいて来る。
伸びて来る骨張った長い指。
それが俺の顔に近づく。
嫌に白く、冷たい指。
頬を掠め、瞼に触れ。
「もう、最期の息になっている」
俺の息は大きくゼイゼイと音を発てている。一息毎に感覚が霞む。そんな鈍っていく感覚が、耳元に吐息を感じた。囁く声は件の黒づくめの男だ。
「殺される程、両親に疎まれるなんて、貴方はどんな生き方をしてきたんですか」
「こ、ろさ、れるの、か」
絞り出した声は掠れ、殆ど言葉として聞き取れない程だった。
信じられない。
いや、信じたくないと言うべきか。
いくらなんでも、親が子供を殺すか?
俺の疑問に答えるように男が言う。
「おや? 当然じゃないですか。金をむしり取り、暴力で訴え、事件は揉み消しさせる。全てを自分で背負わなかったからでしょ。親を何だと思っていたんですかね。まぁ、そんな風に育ったのは親の責任も大きいでしょうけどね。でもね、そんな親だから貴方は殺されるんですけど」
殺されるって、俺は病気だ。
病気に殺されるんだろう?
しかし、それは言葉にはならない。
必死の思いで重くなった瞼を押し上げ親に目を向けた。反って来たのは嫌に冷めた視線だけだ。温もりも労りも悲しみも恨みさえも感じられない。ただ、口元には微かに笑みが浮かんでいた。それが先の言葉を肯定しているのだと、嫌なくらいに実感させられた。
「貴方はどうやっても直ぐに死にます。今さら真実が判っても覆せない事実です。そして貴方の両親も時間が経てば死にますよ。どうせ、貴方がたは遅かれ早かれ同じ所へ行くんですから」
男がカラカラと乾いた笑いを響かせる。そして両親へと向き直り言った。
「お二人とも、ご子息以上の事をしていますものね。きっと、ご子息と同じ事になりますよ。あ、これは予言じゃなくて、我々の業界筋からの報告ですから、ほぼ間違いないです」
親が黒づくめの男の言葉に顔を引きつらせる。男が可笑しそうに俺と両親を交互に見た。
「あ、自己紹介はまだでしたよね。わたくし、この病院と契約していますこういうものです」
男が頭を下げ、再び顔を上げた。
面差しの印象が変わる。
目が違う。
硬質で闇の中でも光る獣のような目だった。その目を細めた男が舌舐めずりをして嗤う。細く先が尖った長い舌がゆっくりと這う様は異様だ。明らかに異質な者。死よりも男の方が恐ろしい。俺は本能的にそう感じた。
「噂を信じてやって来る方の願いを叶えるのは我ら人外の仕事。病院は受け皿として契約して頂いております。病気なら我らの得意分野です。疫病、不治の病。元々は苦しむ人間を眺める為に、我々が娯楽として撒き散らたもの。ガンなんて簡単なものですよ。入院したら病院は治療に勤しむ。でもね、我々が病をコントロールしているんだから、薬なんて効くわけないんですよ。それでも医師は治療をします。実際に病巣がありますから。死んだら完全に病死。病院は金銭を。我々は同胞が喜ぶ魂を。貴方が思うより、この世界は世知辛い。死んで欲しい人間に大枚をはたいてもいい。そう思う人間は案外多いものです。お陰で我々は昔ほど表に出なくても容易に獲物を得る事が出来る」
俺は途中から視野がボヤけた。どうやら限界が近いらしい。自分の息の音と男の声が被さり、徐々に聞き取り辛くなってきた。
「面倒なモノは処分する。それは物だけではない。人間もですよね。病院に入れる、施設に入れる。金を払って面倒を処分する。面倒に対峙しているのは自分ではないから、世間はそれを見ないんでしょう。対峙している者は早くそんな輩を何とかしたい。だって、処分される人間は、どこにいても処分したいと思われる人間なんですから。おかげで我々は楽ですよ」
男は不意に何かを思い出したのか、俺に向き直り尋ねた。
「ああ、そう。淫魔達はいかがでしたかね?」
男が顔を近付け、低く囁く。
「おかげで予想よりも早く貴方を同胞に送れますよ」
あの看護婦達は男の同胞だったのか。俺は自分で自分の命を縮めていたのだ。
男が再び嗤う。それだけが嫌なくらいに頭の中を駆け巡る。
はっはっはっはっはっはっはっはっ、
はっはっはっはっはっはっはっはっ、
はっはっはっはっはっはっはっはっ――
いきなり、その声が静まり、キーンとするくらいに静かな状態が訪れた。周囲には闇だけがある。少し前まで感じていた息苦しさも消えた。重く倦んだ身体も軽くなっている。闇の中で見えていない掌を俺は見つめた。震えだけが止められていない。
「――死んだのか」
それに答える声は無い。
恐ろしい。
身体が警戒している。
背後で気配がした。
全身が強張る。
これが、この気配の主が、黒づくめの男が言っていた同胞なのだろうか。
「ようこそ。こちらへどうぞ」
まろく甘い声がした。
懐かしく包み込むような温かさ。
どうしてだか胸が焦がれ泣きたくなる。
それが黒づくめの男の言った同胞のあぎとであると判ってはいたが、俺は振り向かずにはいられなかった。
下衆い主人公を設定したら、下に節操がない男になりました。
一応、直接描写はしていないので、年齢制限大丈夫だと思うのですが、少し心配です。




