書簡を受け取った公爵家
父・オーモン公爵の握っている書簡は、彼の握力でひしゃげており、封蝋は遠目に見ても王家の物のように見える。通常この国の貴族はワインレッドの蝋を使用するが、王家は金の蝋を使用するため、わかりたくなくともすぐ王家からの書簡だとわかってしまうのだ。
やはり、遅かったか・・・
ナターシャは心の中でため息をついた。
ほんとうなら学園を休んででも、もう少し早く報告に来ることも出来たはずだったが、マラン王子の発言は白昼夢だったのではと思うことで費やしたのが数日。そして「やっぱり、嘘だよ」とマラン王子が言ってくるのではないかと待つことにも数日費やした。とうとう休日になってしまったので、仕方なく重い腰をあげたのだった。
マラン王子であれば、もう少しのんびりと行動に起こすに違いないと高をくくっていたのもよくなかった。
さて、震える父親の背中になんと声をかけたらいいのやら。
玄関ホールに仁王立ちしているオーモン公爵は、背が高く逞しい体つきのためまるで熊が出現したようである。
彼の黒髪と鋭い青い目は、ナターシャと兄フェリクスが引き継いでいる。
鋭い眼光も男性であれば凛々しいとかクールで格好いいとなるのに、それが女性であると気が強そうとか性格悪そうとか揶揄されるため、ナターシャは常々不公平であると感じている。
玄関ホールにいた巨大な熊がのそりと動き、眼光鋭く振り返った。
「ナターシャ・・・」
「は、はい、父様。ただいま戻りました・・・」
「おまえはっ!」
玄関ホールに熊の野太い声が響き渡った。ガタイが大きいため、声もよく響くのだ。
「はいっ!」
ナターシャは肩をすくめつつも、辛うじて返答する。
「マラン王子に何をしたんだっ!!」
「いえ、特に、何か決定的なことをしたわけでは、ないとは思ってるんですが・・・」
ごにょごにょと自信がないため言葉尻が小さくなっていく。
「失態を犯したわけではないんだな?」
「はい、たぶん」
わたしはしたつもりなくても、婚約破棄されてるのだから、正直なんとも言えない。
オーモン公爵は唸り声をあげながら、むーんと腕組みした。
「じゃ、なんだ、もしかしておまえ何もさせなかったからとかか?」
ん?父様、今なんて?
「ほら、マラン王子もそういうお年頃だろう。そういったことに興味が出てくるだろうし、もしかしておまえ、そういうのを拒否したとかではないだろうな?おまえは少し頭が固いところがあるからな」
ちょっとちょっと、父様。嫁入り前の娘になんてこというのだろう。
この国の貴族の間では嫁入り前まで貞節を守ることを良しとされた風潮がある。最近の若者の間では、婚約したのだからいいではないかという意見の者もいるようだが、いまだ少数派である。
ナターシャとしては、王子の婚約者たるものそんなことは断じてあってはならぬと考えていた。
「まあ、父様。そんなことありませんわ」
あれ、むしろそんな機会は一切なかったけど。
学園内でも婚約者同士が二人の世界をつくって、イチャイチャ楽しそうにしているところをたまに見かけることはあった。
そういわれてみるとマラン王子とは、キスもハグもしたことがなかった。
ん?キスも!ハグもしてない!!
いやいやいや、マラン王子はきっとわたしのことを大切にしてくださってたに違いないわ。うん、きっとそう。
「そんなことないわけないだろう!婚約者同士なんだし、イチャイチャしたいとか思うだろう。父さんもシャルロットと婚約出来たときは舞い上がって、毎日、ぐあっ!」
突然オーモン公爵は大きな背を丸めてしゃがみ込むと、足の甲をさすっている。
毎日?なに?その後は・・・
聞きたいような聞きたくないような。
「あら、あなた嫌だわ。子供の前でなんてこと言ってるのかしら。うふふ」
高いヒールで夫の足の甲を踏みつける暴挙にでたとは感じさせない軽やかな足取りで、母・シャルロットが現れた。
若い頃、社交界の天使ともてはやされた美貌は衰えていない。
「ああ、ナターシャ。可哀想だったわね」
そう言ってシャルロットはふんわりとナターシャを抱きしめた。