一章 ブルームーン(4)
本校、銀ノ河高校において保健室の所在は大いに変わっている。
もともと保健室とは、保健に支障をきたした生徒がその対処を求めてやって来る所であり、必要とあらば大きな病院の手配など、その受け皿としての機能をつかさどる場所でもある。
そして校内にあって最たる怪我の発生源は校庭、運動グラウンド、体育館、武道場といずれも一階フロアに集中している。
であれば、一階フロアのどこかに保健室があるのが普通というか、常識であるはずなのだ。
真島さんも触れていたことだが、怪我した生徒に四階までの階段の上り下りを強いるのは如何なものか。
と、俺がついに言及してみると。
ひいてはこの学校を非常識と貶めた張本人、水木明日香の言い分はこれだった。
「そんなのもの、理科室に近いほうが私に都合が良いからに決まっているだろう」
理系教科担任と学校医を兼任している水木先生にとって、ありうる最高の待遇。
「……どれだけ野放図なんですか」
保健室登校の分際でおこがましいが、そう思わざるを得ない。
……理科室に近いどころかすぐ隣にあるのだ。なんでも元は理科準備室だった所をリノベーションしたのだとか。水木先生に都合良すぎる世界だな。どこの物語の主人公だよ。
「それはそうと、忘れ物はないかね?」
と水木先生が訊ねてきた。
「ありませんよ」
俺の皮肉もどこ吹く風、水木先生は鼻歌まじりに保健室の戸締まりを確認している。異常なきを見て入り口の扉に鍵をかけた。
「では行こうか、音楽室へ」
「は、はい」
大量の書類が入った紙袋を両手に抱えて、その重さに顔をしかめながら俺は水木先生の後を追う。
身体測定が終わり、ようやく帰れるかと思いきや、水木先生が俺の演奏を見てみたいと申し入れてきたのだ。最初はあまり乗り気ではなかったけど、演奏を見せたら帰りは車で送ってくれるとの好条件のもと、承諾。
なにしろこの大荷物だ。送ってもらえるならば、こちらとしても都合がいい。
それに、先ほどの痣における虚言の裏づけとして、ドラムができるという証明を立てておくのも悪くないと思ったのだ。
今日は始業初日のため、部活もない。
いつもならグラウンドを駆ける運動部員の掛け声や、吹奏楽部の楽器のわななきがこの特別教室棟四階にも響いているはずだった。
無音の廊下を、水木先生とふたりで歩いて行く。
音楽室はここ、特別教室棟の一階に位置する。階段をえっちらおっちらと降りながら、保健室の不便さを改めて実感した。
一階に降り立ち、廊下を進んでいくと、突きあたりにて洋館風の立派な扉と正対する。表札には「音楽室」とある。
両開きの扉の左右には、精妙なガラス製の絵図があしらわれ、右側に描かれた神話か何かの女性が、左側に描かれた木箱のようなものを無表情で見つめている。
かの有名な神話パンドラの匣、のようだ。
ガラス自体も精良なものらしく、うっすら扉の向こう側が透けて見える。
と、心配なのがひとつ。
訓練された声楽家の歌声はガラスをたやすく割ってしまう、という神話があるらしいが、果たしてこのガラス絵は何故割れていないのだろうか。
ガラスの心配ではない。ガラス一枚割れないくらいウチの合唱部は弱小なのだろうか、という心配である。
水木先生が懐から鍵束を取り出した。その中から、わけても豪奢な見てくれの鍵を選びとって扉の鍵穴に差し込む。
ごとり、と普段耳にするものよりも重厚な音を立てて扉は解錠された。
「さあ、入りたまえ」
扉が開け放たれ、おそるおそる中に入ると、その光景に思わずため息が漏れた。
本当にここは一介の高等学校における音楽室なのだろうか? 音楽室というよりは、講堂に近いような印象だ。
こういう景色に慣れていない人ならば、ため息のついでに何かを漏らしていたかもしれないが、俺は以前にもこのような堅苦しい景色を目の当たりにしているので、多少面食らう程度で済んだ。
水木先生に導かれるまま、俺はおずおずと先に進んでいく。
まず入ってすぐ目の前には、レッドカーペットが敷かれ、その先にはさらに下りの階段があった。豪奢な造りの階段は、眼下に見えるステージへと段々と続いている。
講堂の中央を貫く階段の両端には、段ごとにそれぞれ客席が設えてある。
最後列の席の生徒はステージを完全に見下ろす姿勢になる。後ろになるに従って先生から見えづらくなっていくクラス教室とは違い、これでは居眠りもままならないかもしれない。
この空間内のすべてが並々ならぬ絢爛さを湛えているが、なかんずくステージが格別だった。
俺が住まう市の、文化会館の小ホール程度の大きさはあるだろうか、学校の設備としては立派すぎるものだった。ステージの前方には、片足を乗せるに適したスピーカーが三つ転がっており、ステージ両脇には巨大なスピーカーも完備されている。
「……凄すぎでしょう」
学内に占めるこのトンデモ空間に、俺はもはや呆然として感想を漏らした。
「そうだな」と水木先生が同調する。
水木先生はもう見慣れているのか、気圧されている様子は見られない。彼女の凜とした雰囲気は、この空間とうまく調和しているように見える。とりわけその銀髪が。
「授業か何かで使ってるんですか、こんな所を?」
俺がたずねると、水木先生はあっさりと首を振る。
「今はもう使っていないよ。なにせ手広すぎるからな、維持費が馬鹿にならない」
……納得。現在、音楽系の部活にはそれぞれ、別の部室があてがわれているらしい。
なるほど。それなら入り口の扉にあったガラスが、未だ割れていないことにも合点がいく。合唱部が弱小ではないことに安堵した。
「となるとこの部屋は何なんですか?」
俺は率直にきいてみる。
「この部屋に限っては、本校のパトロンである木戸誠二氏に全権が委譲されたよ。もともと氏の意向で、こんな取って付けたような教室が出来たわけなのでな」
「木戸……ですか」
もはや日本の企業のおおかたを牛耳る木戸財閥の現当主、木戸誠二は、俺にとっても馴染み深い名前だ。
「氏には一人、娘さんがいてな。確かキミの、一つ下だったか。たまにバイオリンを弾きにここを訪れているらしい。もっとも、最近はあまり来ていないようだが」
パトロンの娘とはいえ、縁の浅い人間の話題というのはなんとも退屈なもので、俺は適当にはぁ、と相づちを打つだけだった。
「さて。この部屋に深山クンが驚いたところで、今度はキミが私を驚かせてくれ。キミの演奏をしてな」
水木先生はやや強引に話を結ぶと、俺に準備をうながした。
ステージ裏に物置があるということで、そこまで機材を取りに行く。上手側の物置の扉を開けると一面に埃が舞い出し、やる気を削がれた。
室内にはドラムのみならず、たくさんの機材で溢れ返っていた。邪魔っけな物をどかしつつ、必要な機材だけを慎重に運び出していく。機材に関しての管理はあまり芳しくないらしい。
ややあって、演奏に必要な一揃いをステージの中央に集めて、いよいよセットアップに取り掛かる。
ドラムとは、いくつかの打楽器の集合をもって成り立ち、わかりやすく言うと幼稚園の出し物でも使用される、小太鼓、大太鼓、シンバル類からできている。
この三点がリズムの核となるわけだ。
ちなみに、よりライトミュージックっぽく名称をいうならば小太鼓をスネア・ドラム、大太鼓をバス・ドラム、シンバル二枚をハンバーガーよろしく重ねたものをハイハット・シンバルと呼称するのが望ましい。
「このタイコ三つは、音階が際立っていて面白いな」
バスドラムから分派するタム・タム、そして、床に独立するフロア・タムをスティックで順番に叩きながら水木先生が楽しげに声を上げた。
それらはリズムにバリエーションを加えたり、リズムそのものをメロディックにしたりと、さまざまな用途をもつ面白い楽器だ。
だがもう飽きてしまったらしく、水木先生はふと客席のところへ行ってしまう。
俺はというと、黙々と準備を進め、滞りなく全セッティングを終えたところだった。
プロのミュージシャンは、こういったセッティングをローディーやボウヤと呼ばれる、いわゆる弟子にやらせることが多いらしい。自分の演奏を間近で見せるだけで、雑事や車の運転などで奴隷の如く使い倒せる人材、ローディーの都合の良さである。
さて。いざスティックを手に持ち、ドラムのイスに俺が腰かけると、客席の最前列に腰掛けていた水木先生は、単刀直入に感想を述べた。
「なんだか音楽番組で見慣れていたものとは、だいぶ印象が違うような……」
「そうですか?」
俺たちドラマーは客観的に自分を見る機会が少ないので、その辺の差異は理解しかねるところだった。
それを水木先生が教えてくれる。
「いや、私が真っ先に思い浮かべるドラムというのはこう……、叩き手が埋もれてしまうほど高くそびえていて、でもって数多くの太鼓が並んだものなんだ。それこそあれだ! 砦のような格好を思い描いていたよ」
「あー、なるほど」
えらく抽象的ではあったが、言わんとすることはわかった。
俺の場合砦どころか、キーボードと比べても大差ないほど低めにセッティングされているのだ。一見すると、誰もが抱くであろう大胆さや派手さは、そこにはないのかもしれない。
だったら水木先生が興ざめするのも、無理はないだろう。水木先生の幻想を壊してしまったようで申し訳ない。
しかし、水木先生は表情を嬉々とさせて、
「だから、なちゅの可愛い姿が隠れたりしないから最高だな! 低いのに、最高――」
それ以上は言わせないとばかりに俺はクラッシュ・シンバルを力任せに叩いて、水木先生のそのふざけた幻想をクラッシュする。音量に関しても水木先生の印象とは違ったのか、水木先生はびくっと肩を震わせた。
俺はこのままドラム・ソロを展開することにする。
一瞥して、水木先生が息を呑むのを確認した。
演奏の構成としては別段、大したものではない。足もとのサンバキックを基礎に、手もとでやや複雑なルーディメンツを仕掛けるだけの簡単なお仕事。時折、変則的なシンコペーションや反則的なポリリズムをちりばめて、この時間軸をより崇高なものに仕上げていく。
どどめく低音が水木先生の肺腑を衝き、
灼然たる中音が刹那を彩り、
煌めく高音が折々を、永遠に記憶に刻み続ける。
深山さんは音楽がお友達なのよねと昔言われたことがあるが、その通り。
音も友達、とはよく言ったものである。
スティックを振るっていると楽しい。
俺の理想が、そのまま音となって現れるドラムが楽しい。
腕をしならせれば、スティックの先が打面で踊り、
たらら、という小気味よい打音が生まれた。まるで嬰児のように音符を慈しみ、ときに嵐に揉ませるように。
音は人なり、そして親友なり。そんな格言が生まれそうだった。
最後は雷神のごとく連打乱打を辺りに浴びせて、深山那月の独擅場はこれをもって局を結ぶ。
音の振動は徐々に収まりつつある中、俺の肢体はまだ震えが止まない。ストレッチもなしに少々張り切り過ぎてしまったか。
手からスティックが滑り落ちる。スティックは、からりと床を叩くとそのまま床を転がっていく。
客席の水木先生はただ呆然として、ころころと転がるスティックを目で追っていた。
スティックが惰性を放棄して動きを止めると、付き従うようにシンバルの残響も収斂する。それはさながら、オーケストラにおけるタクトとプレイヤーの呼吸に通ずるところがあった。
水木先生がはっと我に返り、とみに立ち上がって惜しみない拍手を俺にくれる。
「すごいな、深山クン! 先生呼吸も忘れて見入ってしまったぞ!」
普段、褒められることが少ないので、こうも絶賛されると面映ゆさを禁じ得ない。とりあえず照れ隠しに、おどけたように笑ってみせた。その後皮肉を言うことも忘れない。
「呼吸忘れてたなら、今頃先生は酸素不足で倒れてるはずですよ」
「そうか! だからかもしれない! 今、とても息苦しいのだよ。興奮した!」
「そうですか、御愁傷様です」
あからさまな過大評価の感は否めないが、悪い気はしない。まぁ、もしも本当に水木先生が酸欠で倒れでもすれば後味が悪いどころではない話だが。
「どこかで習っていたのか?」
「いえ、独学で」
ほう、と感心する水木先生。俺の真似をしているのか、彼女の手はリズミカルに動いている。
ポピュラーミュージックの基礎となるエイト・ビートというリズムは教えてもらったけど、後はおのずから学んでいった。
「まぁ、テレビに出たこともありますからね。だからこれぐらい、普通です」
テレビ、という単語を聞いてさらに驚く水木先生。
「それは、またすごいな……」
ドラムの世界的な大会(半ばお祭りじみているが)が、アメリカにて行われている。ドラミンピックと呼ばれ、その名にちなんで四年に一度行われている。俺が出場したのは今からちょうど四年前のことで、そこには日本のテレビカメラも取材に入っていた。
十代前半にしてプロと同格の腕を持つドラマーとして俺は日本でも、ひそかに注目を集められていたらしい。
まあ放送時間が深夜帯だったので、視聴率は低かったろうし、俺がその番組を視聴することはなかった。又聞きするところによると俺はがっつり映っていたらしい。まぁ、決勝まで勝ち進んだのだから映っていてもおかしくはない。
ただその決勝で惨敗したところを、記録におさめられたのが途轍もなく悔しかった。
決勝の相手も、俺と同じく十代前半の少年だった。
「つまり、深山クンのかわいさが全国どころか世界レベルで広まったということか」
「うるさい黙れ」
こう、さりげなく俺のトラウマを突いてきたりとか、俺のことを可愛いとか言ってからかってくる水木先生には、あまりぞっとしない。水木先生だからこそ平気なだけで、同じことをクラスメイトされたら俺はまた死にたくなるだろう。
徐々に慣らしていこう、という水木先生の心意気なのかもしれないが。
◇◆◇
機材をバラしていると、加勢に入ってくれていた水木先生が唐突に訊ねてきた。
「そういえば深山くんは昔バンドを組んでいた、と去年話していたそうだな」
藪からスティック、というやつだ。
「……そうですね」
ふと、作業の手を止める。思考は過去へと遡っていた。
去年の今時分。入学当初のホームルームで、自己紹介がてらそんなことを、話したような気がする。おそらく、俺の担任から聞かされていたのだろう。
バンドをやってたとでも言えば、きっと友達ができると思っていたのだ。
俺のイメージも、変わると思ったのだ。
今にして思えば、真実、あらずもがなのアピールだった。
俺の自己紹介を受けてのクラスメイトの反応――
「俺のスティック、空いてますよ。ついでにチャックも空いてますよ。予定を空いてますよー。準備オーケーですよ?」
「太くて長いやつー? ち○こ? 俺、良いの持ってんだけど、今度俺んちに来ない?」
といった下卑た誘い文句を思い出した辺りで、俺は当時の回想を打ち切る――。
水木先生が何かを期待するように、俺に提案をする。
「もうバンドを組んだり、しないのかね?」
「しませんよ」
片時として迷わずにそう答えた。
だが水木先生は、それだけでは納得しない。今度は、持論を交えて俺を説きにかかる。
「バンドを組めば、メンバー間の絆が深まるというのが私の知るところなのだが?」
音楽バンドは結束バンドではないのだ。その実、同好や同志とそれっぽい言葉で、無理やり結束を演じてるだけでしかない。その証拠にバンドには、解散という文字がつきまとって離れない。
「深まりませんよ。それで絆が深まるような人たちはきっと、バンドなんか組まなくても同じことです」
俺――俺たちの場合は、水木先生の持論のまさに逆を行った。深まったものといえば、人間関係の溝。
当時のメンバーとはもう話もしないし、会ってすらいない者もいる。
「本当に、そう思うか?」
水木先生のそれは、試金石を置くような問いだった。次に俺が発する返事で、俺の人間性を推し量らんとするような意図が見てとれる。
それでも俺は自分を、信念を、曲げるつもりなんてなかった。
「はい。事実ですから」
膝の傷が、それを証明しているのだから。
すると水木先生は、小さく微笑む。俺の答えが、己が欲する答えでなかったと、彼女はその表情に悲しげなあだ花を咲かせた。
そして散りぎわに、水木先生は言う。
「帰ろうか」
俺は言葉を発することなく小さく頷き、黙って機材を元に戻していった。
後始末を終え、荷物をまとめて部屋を出ると水木先生が扉に鍵をかける。そしてこちらを振り向き、人差し指を自分の唇に宛てて言った。
「今日ここでの事は、皆には内緒だそ」
「え?」
すこし驚く。
気随気儘な水木先生にしては珍しい、なんとも決まり悪そうな顔だったからだ。
「実はこの鍵、関係者以外使用禁止なんだ」
無比の絢爛さを持つその鍵が、照明の光を受けてかっと輝きを返した。
鍵が使用禁止ということは、とりもなおさずこの音楽室も使用禁止ということだ。
「言われなくても、俺には話す相手がいませんから」
そうか、と水木先生はほっと胸を撫でおろした。
俺は改めて旧音楽室の扉を見やる。
絵画の中でパンドラさんは、その目を光らせ、けれども視線はこちらを一顧だにしない。
これではきっと、近いうちにまたぞろ侵入を許すだろう。
「綺麗な物だろう? 高名な画家と、老練のガラス職人とで、合作された物なのだそうだよ」
水木先生が簡潔に解説する。
「へぇー。さぞかしお高いのでしょうね」
俺は俗人なので、作品の素晴らしさよりも、作品の価値に素晴らしさを見出してしまう。おいくら万円なのだろう。
「そうだな。時価一千万、といったところか」
「わ、わー、すごーい」
金額とは不思議なもので、あまりに高額だと実感が伴わないというか、さほど価値があるように見えなくなってしまう。たかが絵一枚に、どんな道楽ですか木戸氏……。
これ売ったら蔵が建つんだろうなと、うしろ髪を引かれつつ俺は音楽室を後にした。
◇◆◇
職員用の駐車場にはワインレッドの軽自動車がぽつねんと佇んでいた。車窓越しに時計を見ると、時刻はすでに十六時を回っている。
ふと、俺は今日の炊事当番が自分だったことを思い出し、水木先生に切り出す。
「先生。夕飯の買い出しをしなくちゃならなくて……。途中、スーパーに寄っていただいても?」
水木先生は手持ちの鞄を漁りながら、快く引き受けてくれた。
「なんなら私も買い物に付き合ってやろう、料理は得意なのでな。きっと役に立つよ」
鞄からキーを探り当てて、すっと抜き取る水木先生が誇りがに笑った。年の頃はとうに三十路を迎えているはずだが、その笑顔は子供のように無垢だ。
水木先生と俺を乗せて車が軽快に走り出した。
水木先生の車は、決して高級車とはいえないが、機能の上ではとてもすぐれた物であると言える。
何しろ燃費が良い。いたずらに高いブランド車には目もくれず、ひたすら実用面に重きを置くあたり水木先生らしい。
それでも、車載の機器はどれも一等級で、例えばこの高音質なスピーカーを通じればカーテレビすらも臨場感が増し、あたかも自分がその現場にいるような錯覚すら覚えてしまうほどだ。
そんな中、現実に引き戻す声があった。
「して、今日の献立は決まっているのかね?」
水木先生に聞かれて俺は首を振る。
「ならばカレーをお薦めしよう! 一度に大量に作れるし、価格もリーズナブル! そして今日は金曜日と週末だ! おあつらえ向きのメニューだと思うが?」
水木先生がルーマニアの血をトクトクと滾らせて、カレーの利点を得々と講釈する。まぁ水木先生はルーマニア人じゃないけど。
金曜日にカレー、という海上自衛隊ばりの公式はさておき、良いかもしれない。手間も掛からないし。
「じゃあ、それで」
さ知ったり、と言わんばかりに水木先生は頼んでもいないのに具材のチョイスから隠し味にいたるまでを、呪文のように唱えている。
そして、カルダモンやハラペーニョという聞きなれない名前の香辛料が挙がったあたりで、俺の知っているカレーとは製法がだいぶ異なることに気づく。
目的地に着くまでの間、カレーの話題が尽きることはなかった。