四章 太陽になれなかった少女は(1)
金があったら、できること。
以前にも似たようなことを考えたことがあったっけ。
一週間で、できること。
金稼ぎだったり、趣味だったり、交友だったり、思い思いのプランが立てられるかと思う。喜怒哀楽を伴いながら。
ではお金があったら、何ができるだろうか。
時は金なりという諺を見るに、イコールの相関図が出来上がるはずである。事実、その通りといっても間違いではない。
金は金を呼ぶし、予算があれば趣味の幅だって広がるし、金は時として人脈だって形成する。金にも、得てして喜怒哀楽という感情が付いて回るものだ。
ふと前述の諺に、金成君——ナリキン君のことを思い出す。
彼は某動画サイトに毎日動画を投稿して、既にして多くのサラリーマンの生涯賃金を遥かに上回る利益を出しているらしい。要はもう働かなくても、そこいらのサラリーマンよりもリッチな暮らしが立つということになる。
働かなくてもよいということは、可処分時間の割合が大きくなるということ。
時は金なりである。
金成君とは時間——つまりナリキン君は、暇人ということである。今度遊んであげようかしら。
それにひきかえ、せいらさんは前述の論理から外れた存在だと思う。
大金持ちなのに金っ気を感じないし、これという趣味だってなさそうだし、俺以下のコミュ力なので交友は皆無も同然。
成金と、生まれついての金持ちでは有りようというのはここまで異なるものなのだろうか。
金があるのなら使って、経済を回しちゃえばいいのに。金があるなら、趣味に回しちゃえばいいのに。金があるなら、人を使い回しちゃえばいいのに。せいらさんは、それをしない。
使いきれないほど金があるのだから、使うこともないのだと言わんばかりに。
◇◆◇
「失礼いたします」
いよいよ最後のメニューである、ご飯と御御御付けがやってきた。
古代インドに端を発し、およそ一万五千年にわたり、育まれ続けてきた百姓さんたちの努力の結晶であるご飯。お櫃から、芳しい香りが湯気ながら溢れてくる。
器には、御御御付けのものと同じく漆器の高級そうなやつ。
視覚が味覚に少なからず影響を与えているのは以前、ブルー・カレーを食した際に嫌になるほど味わっていた。
お櫃をお盆ごと床に、ご飯の器と御御御付けの器を座卓の上に置くと、店員さんは退出する。
これまで配膳されたメニューを何一つも完食していなかったが、これで白米とともに一掃できるかと思う。やはり日本たるもの、お菜は白米と一緒に味わってやらないとね。
御御御付けの椀の蓋を外しまったりとした、馥郁たる香りを嗅覚に供すると、ずずっと啜って口の中に閉じ込める。
猫舌ながら熱さよりも、美味さが先行した。
あまりの美味さにびっくりして、熱さも忘れてそのままごくりと飲み込んでしまった。口の中で味わう余裕がなかった……。
口の中に塩っけが残ってるうち、そこへ熱々のご飯を放り込む。
「あふ」
熱いと言おうとしたのだが、口いっぱいにご飯を含んだ上では発言は曖昧になってしまう。
口内の高温さに目を白黒させていると、おかしかったのか、せいらさんはくすりと小さく微笑んだ。
「ひをふへへ」
熱いから気をつけて、と言おうとしたのだがちゃんと通じただろうか。
不安だったので熱々ご飯を指差してそれっぽくジェスチャーを加えてみる。
「あ、はい」
どうやら通じたらしく、せいらさんはおそるおそると白米を口にした。
「おいひいよえ」
「そうですね」
口に物を含みながら喋るのはマナー違反だが、黙って食べて空気を冷やすよりはマシだと判断した次第だ。せいらさんは、マナーをちゃんと心得ているらしくちゃんと飲み込んでから返事をする。
しっかりと咀嚼し飲み込んで、御御御付けで流し込んで口内を綺麗にしてから俺はせいらさんにたずねた。
「せいらさんの昔のことなんだけど」
突然の問いにせいらさんの箸が白米を取り落とした。まぁ無理もない、もしも俺がその立場だったら噴飯していたかもしれない。
せいらさんは落とした白米のひとかたまりを見つめてすくい上げようとも、目線を上げてこちらを見ようともしない。
せいらさんを見ていると、少し前の俺を見ているようだ。
「なんで保健室登校してるの?」
といった質問を真島さんにされ、きっとせいらと同じような反応をしていたのだろう。あのときは結局質問に答えることはできず、保健室に戻ってきた水木先生によって、質問ごとなかったことなったっけ。
そして、かつての俺のように、こうべを垂れて黙りこむほかないせいらさん。
店員さんは最後のメニューを配膳し終えたので、会計まではここへ訪れることもないだろう。
だからこそ、このタイミングでこの話を切り出した。
「実はあの日、小蔵さんに色々と話を聞いて……」
「お、おじいちゃんが……」
唯一、素の自分で話すことができる小蔵の名を出すと、せいらさんはのそのそと顔を上げる。
「その前に、せいらさんのお父さんにも聞いてるんだけどね」
その事実は心外だったのか、せいらさんは下唇を噛んで、不快そうな表情を作る。
「それで……何と?」
小さく言い終えると、すぐにまた下唇を噛みしめる。それは、さながら亀が外敵から身を守るために甲羅に篭るような印象を受けた。
もしも、自分に都合の悪い詰問があって、思わず弱音が零れてしまわぬように。
「せいらさん、昔はとても活発だったって」
きりりと固く結ばれた口。
かつては太陽に負けぬ、明るい言葉を放っていたであろうその口は、いまや固く閉ざされて、重たいベールを被ったように一言一言が暗い。
外見こそは周りの光に照らされて、明るさを保ちつつあるが、本質を表す、口調が暗いのであればせいらさんは、本質的には無明の長夜にいる。
俺はその、長夜の帳を払うのに、五年もの月日をかけてしまった。しかもほぼ自主的にではなく、周りに後押しされるように。
「やはり先輩も、今の私は暗く見えますか……?」
「いや、今もなにも、俺は昔のせいらさんを見たことないので」
せいらさんを見ているとまるで鏡を見ているようだ。それも彼女を通じて、昔の俺を客観的に眺めているような感じ。こんなにも綺麗な少女を、鏡を見ているようだなんて烏滸がましいこと甚だしいが、それでもそう思わざるを得なかった。
「そうですか……」
彼女の寂しげな表情を受け、俺の心まで暗く沈んでいく気がした。
彼女が鏡であれば、俺が鑑となれば、彼女もまたその通りとなるのではないかとふと考える。
しかしどうやって。
俺自身、一人で問題を解決したことなんて、ただの一度だってありはしない。周りの環境に、人に、流されるようにして現在に漕ぎ着けたようなものだった。端的にして、望まざることをもって、望むものを偶然的に手にしただけに過ぎない。
俺は下手にせいらさんを励ますようなことは口にせず、固く冷めつつあるご飯をわざと行儀悪く音を立てながらかっこんだ。
それを見て、せいらさんも与えられたメニューを口にする。
同じく与えられたメニューであれ、チャレンジとして与えられたメニューはこなせずも、ヒトの本能である、食事的なメニューは、まぁなんとかこなせるんだなとせいらさんの様子を見て思った。
まぁ俺が範を垂れなければ、いつまでたっても食べ進めなかった可能性も否定はできないが。
しばし無言で残ったメニューを食べ進めながら、今後のことを考えてみる。
せいらさんとは、俺の写し鏡のようなものだ。それも過去の俺の。
今の俺に、過去と比べての成長が見られるかは自己では判断しきれない要素ではあるが、確かな変化はあったと言ってよい。
自己を受け入れ、その上で見えてくる可能性に自らの目標を定める。
それが女装を受け入れ、アイドルになって今まで馬鹿にしてきた奴らを見返してやると、具体性を持たせるととても低俗な目標だなと思わないでもないが、とにかく目標はできた。目標もなくくすぶっていた昔の自分に比べればこれは前進に他ならない。
せいらさんが仮に太陽と呼ばれていた頃の、明朗さを取り戻せずとも、それに相当する新たな道を見出せれば、とても良いことなのではないだろうかと考える。
俺とせいらさん、ついでに陽菜も、バックグラウンドが恐ろしいほど似ている。かつて輝いていた時期があり、打ち砕かれる何かがあって自身を閉ざしてしまったという過去が。
俺はそれを、仲間に助けられて乗り越えることができた。
せいらさんも仲間に助けられて、乗り越えることができるはずである。
せいらさんを変えうる存在——せいらさんの過去を清算しうる存在である、小蔵響子さんはもういない。
響子さんが生きていれば、せいらさんの背中を、押すことができるかもしれないのに。
「——はっ」
それは唐突な閃きだった。
あまりに唐突な閃きだったので、思わずそう声に出てしまった。
「ど、どうか……しましたか?」
突然のことにせいらさんは、驚いたような戸惑ったようなどっちつかずな表情を向ける。
「い、いや、何でもないよ。おほほほ」
光明のごとく閃いた妙案に興奮を隠しきれずに、なんだか発言が怪しくなってしまった。オカマのような俺の語尾に、せいらさんは戸惑いを隠せないようである。
そのとき、出入り口の襖が小さく叩かれた。
「し……、失礼します……」
襖の向こうから聞こえるその声は、心なしか少し震えている。
ぷーくす、とかいう嘲り合間に似合うような震え、つまり嘲笑だった。
襖が開かれると、取り繕ったような澄まし顔がそこにあった。しかしメニューは全て運び終えたはずなのに、いったい何用だろうか。
「水菓子をお持ちいたしました」
「み、水菓子……?」
水菓子とは果物のこと。デザート皿に乗ったのは、高級フルーツと目されるアールスメロン。
そうか、ご飯の後にデザートというのはもはや、当たり前の風習だった。
なるべく俺の顔を見ないように、店員さんがそれぞれに水菓子の皿を供してゆく。俺の顔を見て、俺の素っ頓狂な物言いを思い出して笑わないようにするためなのだろう。
しかし半月のように切られ盛られたメロンが、俺のことをあざ笑う下卑た笑みにしか見えないのがとても皮肉だった。
皮肉とは、メロンだけに……。
店を出ると、春の夜風が爽やかに肌を撫でていく。
「ごちそうさま」
一人あたま五万円近くのコースをご馳走になったとは思えないような軽い調子でせいらさんにお礼を言った。
「い、いえいえ」
奢った側であるせいらさんは、奢られた側である俺よりもかしこまった調子で言いながら、胸元で手を振って否定めかす。ぎこちなく手を振ると、腕から全身を通じてせいらさんのポニーテールがちょんと揺れているのに気を取られてしまう。宵闇にも浮かぶ、艶めいた黒髪がとても印象的だった。
「迎えの車を呼んだのですが、先輩もよかったら」
どうやら迎えの人が来てくれるらしい。
夜は危ないし家まで送ろうと思っていたが、そういうことならまぁ安心かな。
「いや、これから寄るところがあるから」
「そ、そうですか……」
夜気にあってか、そう言うせいらさんはちょっと寂しげに映っている。
この後、迎えの車に乗って帰っていくせいらさんを見送り、俺は夜の繁華街へと足を進めた。
◇◆◇
ひっそりとした住宅街を少し外れると、華々しい光踊る、不夜の繁華街へと景色が移ろう。
時刻確認にスマートフォンを取り出すと、アナログ表示の時計は短針がちょうど九の数字を指し示していた。
すると、そこへメールを知らせるポップアップが表示された。メールを開かずとも差出人と内容がわかる。
「白行ちゃん:帰りおそいけどなにかあった?」
短い文面故、待ち受け画面から全容が把握できたのだろう。メッセージをタップしてメール返信画面に遷移させる。
「友達とご飯食べてた。これから少し、寄り道する用があります」
と、適宜に文字を打ち込んでゆき終わると送信ボタンをタップ。三十字にも満たない文を書いただけで、脱稿ハイにも似た気分になっている自分がいた。おそらく絶対に文筆家にはなれない。
スマートフォンを胸ポケットにしまうと、けばけばしい蛍光類で装飾されたアーケードの門を潜る。
屋根、建ち並ぶ商店に閉ざされたアーケードは、そこにいる人々の為す喧騒がわんわんと行き場なく蟠っていた。
夜の店に負けじと、カラフルに色を帯びた髪の青年たち。酔いに任せたように大声をあげながら酒瓶をあおる作業着姿の男性。行くサラリーマンたちに色欲を煽るようなセールストークを披露するキャッチのお兄さん。
それらが反響し、木霊し、ただわんわんと喧騒を奏でている。
いずれも関わりたくない人々なので極力目を合わせないように早足で通りすぎ、中間地点にある公衆トイレに駆け込んだ。
扉を閉めきり、この手で静謐をものにしたことに満足する。
中には誰もいなかった。扉のついでに鍵も締めたかったが、公共の場を独占するのはよくないのでそれは諦める。
とっとと用件を済ませてしまおう。
個室に入ると手持ちのスクールバッグを開き、中から女生用のスクール・ブレザーを取り出した。いつ何どき月宮マナにならなくてはいけなくとも大丈夫なよう、常日頃から女装の用意は整えてあるのだ。つまり常日頃から、職質されたときのリスクを抱えていることに等しい。彼らは任意と言う名の強制執行を用いてくるからな、見咎められそうになったら即逃げるべきである。
女装時に職質に捕まってしまったら、手元にある男生用の制服は彼氏のものとでも申し開けばなんとかなる気がする。その際学生証など、身分証明書の提示を求められるだろうが、任意であるからして提示の必要性はない。先述の申し開きを堂々と述べておけば、お巡りさんもそこまでしつこくはならないだろう。
などと、胸積りをしながら男生用から女生用のブレザーに着替えて行き、終わると個室を出て手洗い場に移動。スクール・バッグからピンクの両手のひらサイズのポーチを取り出し、中から必要なメイク道具を選んで鏡の前に並べた。
すっかり慣れてしまった大きな擬乳の感触が心地よい。
足をぴったり包み込む黒ストッキングの感触は未だ慣れておらず、静電気の影響か生足のときよりも股座あたりがすーすーする。
これがもはや女装に慣れてしまった俺に残された唯一の、背徳感なのかという気にならないでもないな。
すると、外からガラスが割れたような音が響いてきた。酒を煽っていた作業着の男性が、酒瓶でも落としたのだろうか。
「人生なんて……‼︎ 人生なんてよお……‼︎」
続いて、響いてくる悔恨の声。それは嗚咽じみていて、それはきっと、誰の耳にも届かない。
その泥酔した男性がアルコールを戻しに、トイレに駆け込んでくる前に早くメイクを済ませてしまおう。
うすぼんやりしたヒューズが切れかけの照明を頼りになんとか装いを整えて、いつもの月宮マナの姿を鏡の向こうに確認すると、荷物をまとめてトイレを出た。
そのとき。
「人生なんてよお‼︎」
トイレを出たちょうどそのとき、酒気を帯びたさきほどの作業着姿の男性の顔が目の前に迫った。
「きゃあ?」
この姿としての本能なのかマナらしい、ソプラノの帯域で悲鳴が俺の口から飛び出す。
男性は急に現れた俺の姿に、驚くこともなく、そのまま俺を巻き込んで酔いに頽れた。