三章 木星か、土星か、いや、木戸せいら(11)
平日とはいえ、『ビレッジ・アイランド』は相変わらず活況を示していた。休日と違うところといえば私服よりも、制服姿の客層が厚いことくらいだろうか。
中学生、高校生と区別なく店内に散在し、散財するでもなく徒然なる放課後をてんでんに過ごしているようだった。
見れば俺と同じ学校の制服も、ちらほら見られる。その姿を認めると、進む足が少しだけ鈍ってしまう。
「うー……、学生さんたくさんいますね……」
まるで学生でないような口ぶりで現状を告げると、隣でせいらさんが息をのむような気配がした。
無理もあるまい。
学校帰りにコンビニに寄り道して、店の前の地べたに買ったお菓子袋を広げてはそれを複数人で囲んで長々と食っちゃべっている素行不良の生徒と、なんら変わらない。菓子が楽器になっただけのこと。
休日の時よりも難易度が上がっているような気がしてならない。
ギター・コーナーはとりわけ人気があり、ギター担当のスタッフが繁忙を極めている。学生なんて、まぁ購入しないのだから接客するだけ無駄なのに、そうかと言っておざなりにするわけにもいかず店員さんは引きつった営業スマイルを顔面に貼り付けていた。
ドラムは人口そのものは少ないのだが、エレキ・ドラムのコーナーには明らかにドラマーではないであろう人々がパイを占めている。未経験者であれ、おもちゃ感覚で叩いて遊んでいるのだ。
「ああ……、お客さま、試打の際はスタッフにお声がけください……」
傍らで見守っていたドラム担当と思しき店員さんが、及び腰で遠慮なくドラムをぶっ叩く客に向かって注意喚起をしているが、ヘッドホンでモニタリングしながら演奏しているので気づいてもらえていない。忠告したところで営業ポイントが上がるわけではないし、むしろ客からの印象は下がるだけだというのに、そうせざるを得ない店員さんの哀れなことよ。
今日こそは、エレキ・ドラムを試奏したいと思ったが、店員さんにこれ以上迷惑はかけたくないな……。
「ど、ドラムはあとにしようかな……」
現実から目を背けるように目を転じると、ベース・コーナーに安らぎを見つけた。
人気のあるギターやとっつきやすいエレドラとは異なりベース・コーナーのみ、無人島と化していたのだ。ビレッジ・アイランドという名前はベース・コーナーの無人島ぶりを指していたのかもしれない。ビレッジは言わずもがな、ぺんぺん草が群がる的な意味合いである。
「先輩、先にべえすを見てもいいですか?」
ベースのことを怪しげな発音でせいらさんが言った。
「あ、どぞ」
先を譲るように、ベースのコーナーへと移動する。
もっとも俺とてベース・コーナーの、寂寞たる安らぎを求めていた。
「たくさん種類がありますね……」
壁にずらりと展示されたベースを見上げ、せいらさんが嘆息混じりに呟く。大きな黒い瞳が動揺に揺らめいていた。
「お店ですからねー……」
せいらさんに見とれてしまい、説明にもなっていない説明で会話をつないでしまった。お馬鹿な子と思われて幻滅されちゃったらどうしよう。
「はぁー……」
ため息にも似たせいらさんの反応は、俺への幻滅を示すものではなく、止みやらぬベースへの、畏敬のようだった。とりあえず俺へのヘイトでなかったことに安堵する。
「ど、どう、これってのはあった?」
一つ一つ、丁寧にベースを見つめるせいらさんの横顔に話掛けてみる。まだ十分に見つくしていないだろうに、どうかするとせいらさんのご尊顔を拝するための口実と思われるだろうがそんなことは決してありえない。いやホント。
ひとつ見終わると一歩右に移動して、隣のベースと向き合うようにしてせいらさんは、誠意をもってベースに相見する。
「あ……」
そして、運命の出会いをしたかのようにそのベースに目を見開いた。
せいらさんの視線を追うとそこにはさきほどスマートフォンの画面にあった、バイオリン・ベースがあった。一見、名器であるストラディバリウスの形をとったそのフォルム。繊細そうな見た目から、ベース・ギター特有の沈み込むような低音が出るのだ。弓を捨て、指かピックに持ち替えて弾かなければならないそれはせいらさんにとって、新たなチャレンジとなるだろう。
「あったね……」
「は、はい……」
せいらさんが裾からちょこんと見える、小さな手を握って拳を作った。
そう。弓を捨てる前に、指かピックに持ち替える前に、やらなければならないチャレンジがある。
この学生がひしめく中、店員さんに試奏の申し込みをしなくてはならないといういわば、登竜門があるのである。
ベース担当の職員も、いるのだろうから声をかけてくればいいのにと思わないこともない。だがそれは甘えでしかない。
そしてそれは、俺が思い巡らすべきことでもない。
せいらさんは固くて重そうな唾を飲み込むと、一歩、ベース担当とおぼしき店員さんの方へと足を進めた。
踏んだ足が、クレーターを作りそうなほどのプレッシャーである。
あ、決してせいらさんの体重によるものではないからそこ、勘違いしないように。
これはせいらさんのチャレンジなので、俺はその場で見守ることにする。
一歩一歩と歩いて行くせいらさんは、まるで生まれたての子鹿のようで、ときたま守ってやらねばという思いが込み上げてきたがぐっと堪えた。子鹿を親が補助してはサバンナで、ライオンから逃げられるだけの屈強な足腰が出来上がらない。生まれが肝心なのだ。
せいらさんは今、生まれ変わろうとしている。
太陽でなく、木星でも土星でもなく、木戸せいらとして。
「頑張れ」
そんな応援すらもはや野暮だった。なので、心の中で、心からエールを送る。
子鹿は、一歩一歩と成長を確かめるように、通路を歩く。小さな歩幅に合わせてちょんと、微かに揺れるポニーテール。
せいらさんが進み行き、俺から遠ざかるにつれ、せいらさんの心音が大きく聞こえてくるようだった。
店員までの距離、のこり約三メートル。店員はこちらに背を向けており、徐々に自分に近づいてくるせいらさんの存在に気づいていないらしい。緑の業務用エプロン、白ワイシャツに黒のスラックスを着用した中肉中背の男性店員。
もしこちらを向いていたならば、せいらさんの様子に気づかないはずがないどころか、惚れないはずがない。
陽菜の外に向かうような魅力に埋もれがちではあるが、せいらさんは、内に引き込むような魅力を持っている。一人ずつ接していけば、中毒レベルで彼女の虜になることだろう。
現に楽器屋にいる客の中にも、せいらさんの存在を気にする者は、ちらほら見受けられた。ある者はギターを試奏しながらせいらさんに見惚れ、自分の弾いている音を見失っている。それでも、せいらさんに粉をかけるようなことをしないのは、バンドマンとしての矜持だろうか?
ドラマーが、せいらさんに見惚れて、スティックで自分の指を叩いてしまったのは失笑を禁じ得ない。
俺は見惚れているのではなく、見守っているわけなんですけどね。
と、俺が周りに気を取られている間に、せいらさんは店員さんのすぐ至近に迫っていた。距離にして約一メートル。
上着の裾からちょこんと現れた指でも、手を伸ばせば届くような距離である。
せいらさんはその場で立ち止まると、胸元で手をぎゅっと握り込んだ。精神統一でもしているのだろう。
そして、手を伸ばし、店員さんの肩に触れようとするや——
「すんませーん、ちょっといいっすかー?」
どこかから聞こえる客の声に呼応するように、店員さんがその場を去り、せいらさんの手は空を切った。
しばしそのまま揺蕩い、やがて落胆するように落ちてゆく。
こうなるのは、十分にあり得たことだった。この店にいる客は俺たちだけではない。なんであれ客は皆平等に扱わなくてはいけないのが店員なのだから。故に、これは酷いと感じるのは店員のことではなくて、この状況のことを指す。無視ではいにせよ無視されたと受け取るに十分なシチュエーションの今回。
この状況においてせいらさんになんて声をかけたら良いんだろう……。
「この、バイオリンベース試奏したいんすけど」
「あ、はい、これですね? 少々お待ちくださいね」
せいらさんの勇気を台無しにした客は、せいらさんが所望するバイオリン・ベースの試奏を申し込んでいた。勇気を奪って、さらには楽器まで……。
バイオリン・ベースはこの店には一本しか置かれていないようだ。つまり諦めずにチャレンジを続けるにしたって、この人が試奏を終えるのを待たなくてはならない。チャレンジに失敗し、失敗を引きずったまま待たなくてはならないのはどれだけ苦痛なのだろう。
「せ、せいらさん……」
喧騒の中、小さな声で呼びかけるとせいらさんはこちらを振り返った。
「し……失敗でした」
なんでもなげに、むしろ戯けたように呟くせいらさん。俺に余計な気遣いをさせまいとする意志が感じられる。傷ついただろうに自分の本音を押し隠して気丈に振る舞うその悲壮な姿は、陽菜にも似ているところがある。
「つ、次はうまくいくよ」
根拠はないがそう言ってみせた。というかそうでも言わないと、せいらさんのガラスのような意志は粉微塵に砕けてしまうような気がした。
ガラス故に自分を変えようと、頑張る姿は見ていて美しいが、当たって砕けてしまったときのせいらさんは正直見るに堪えない。
無理だと言おうものなら、せいらさんはきっともう立ち直れないだろう。
「つ、次こそは……」
自分に言い聞かせるように、あるいは責め立てるようにせいらさんが重々しく言った。次の失敗が、自分の生死を分かつのだと言わんばかりに。
「では、ごゆっくり」
そういって店員さんがベースを託すと、前の人の試奏がはじまった。
真正なるバイオリンとは大きく異なる音、持ち方。バイオリンと比ぶれば繊細な音ではないが、繊細なバイオリンには出すこと能わぬ隆々たる低音。ベースの音は、子宮に響くというがまさにその通りだと思う。俺が女の子だったらきっと、ベースに惚れるんだろうなぁという気持ちになる。ベーシストでなくベースであるところが味噌である。ベース戯け、というやつである。
にしてもこのベーシスト、なかなかに達者である。見た感じ俺と同年代の風体の青年だが、同年代から頭一つ抜けたテクニシャンだと思う。ベースの音が子宮をどうかしてしまうとするなら、演奏でもって何人もの女性を孕ませてしまうくらいの実力の持ち主だ。
だがせいらさんは、そんなことはなく、重苦しいプレッシャーに押しつぶされそうな顔をしていた。低音という括りでも高低差のある音符を自在に操る青年のベースと異なり、ただただ重たい重圧にさらされたような様子。
このまませいらさんの順番になって、演奏したとしてもただただ重たい音色しか奏でられないかもしれない。
考えてみたら当たり前のことだった。上手い人の後でベースにも触ったこともない素人が、試奏なんてしたがるはずがなかった……。




