三章 木星か、土星か、いや、木戸せいら(10)
木戸せいら。
俺の一学年下の後輩で、かつて太陽になれると信じていた少女。
射干玉の黒髪をポニーテールに束ね、見目好い相貌にますますの魅力を付加している。慣性からか、頭を下げるときにぴょんと揺れる後ろ髪がとてもキュートだ。制服も、他の生徒と同じような着こなしながら他とは明らかに違うところが一点。あくまで制服、ともすりゃコスチュームに見える他生徒と違い、あたかも普段着のようにナチュラルに着こなしているような印象だろう。
まぁそれは、先週の土曜に遊んだ際も制服姿だったからだろうし、なんならせいらさんの私服を見たことがないためによるものなのかもだが。
いや、その理屈でいくと他生徒の大多数の私服姿も見たことがないので論理が破綻してしまう。これは永遠の命題と化してしまいそうだ。わかりやすく言うと迷宮入りである。
と、いうわけで放課後になった。
今日からまたいつもの保健室登校で惰性の限りの退屈な日々となることだろう。
「那月、帰りましょ」
同じく保健室登校の身である陽菜がカバンを携えて俺のもとにやってきた。本校のブレザーもだいぶ板についてきたらしく、もうすっかり本校の生徒めいている。まぁ保健室登校から抜け出さんことには俺たちは、真にここの生徒とは呼び難いだろうけどな。
「あ、ごめんけど今日は予定あるっすー」
ちゃらけた感じで誘いを撥ねると、陽菜はむすっとして綺麗な目を恐ろしくして俺を睨んだ。
「なに、予定でもあるの」
まるで、俺の予定を知っているような口ぶりだった。
昨日の、約束通り、せいらさんと放課後に会うことになっている。
「木戸さんに呼び出された」
隠してもあれなので正直に内容を告げる。しかし一応木戸さんと、よそよそしい呼び方をしておいた。ごめんねせいらちゃん。
「ああそう、せいらちゃん。ふーん、へー、ほーん」
すると、陽菜は訝しげな眼差しで俺の顔を矯めつ眇めつする。なんだか痛くもない腹を探られている気分なので、ここ数日で起こったせいらさんに纏わる情報を陽菜に開示することにした。
「かくかくしかじかで……」
内容としては、小蔵さんの娘さんでせいらさんの元担任、響子さんが俺の女装姿にそっくりらしいこと、響子さんの遺書を渡されたこと、その内容のこと、流星の担任の赤坂先生が響子の元カレだったこと、赤坂先生にも俺の女装姿を響子と見紛われたこと。なんべく時系列に沿って言い含めてやった。
「そういうこと」
ひとり、納得したようにうんうんと頷いている。
「とかいうわけで今日は、木戸さんにお呼ばれしてて」
はばからわしげに言うと、陽菜ははぁーーっと長ったらしいため息をついた後、承諾した。
「せいらちゃんに変なことしちゃダメよ。お日様は見てるんだからね!」
含みのある言い方をするもんだなと思った。
◇◆◇
放課後。
今日はいつもより授業が一コマ多い日で終業になると、窓から見える空はすっかり夕焼け色に染まっていた。青白い雲とのコントラストがげに美しい。アイドル・バンド発足にあたりいろいろと雑事を抱える陽菜に、暇乞いをしてそそくさと教室を去る。
他生徒があまり通らないルートを用いて昇降口、下駄箱へ移動、靴を履き替えると外へ出る。
昇降口を一歩出ると、行く手を人影が遮った。
またぞろ、場を状況をわきまえない軟派男子かと思ったが違ったらしい。
「先輩」
心地よいフレーズに胸が踊る。
見ると唯一にして絶対の後輩、木戸せいらがそこにいた。
「お、お久しぶりです」
随分と、よそよそしい挨拶になってしまう。俺がよそよそしい挨拶を仕掛けるものだから、せいらさんもよそよそしい感じでぺこりとお辞儀した。その折ちょこんとポニーテールが跳ねる。かわいい。
「きょ、きょうは、お呼びだてして、ごめんなさい……」
人見知りゆえの過度な切口上。まるで鏡と相対しているようだった。
「あ、じゃあ、とりあえず学校出ますか」
せいらさんの明らかにたじたじな言動に、俺はふと、平静を取り戻しそう提案する。
「あ、……はい」
出入り口付近でたじたじのろのろとやっているものだから、後ろには帰宅を控える生徒たちが渋滞をなしていた。
「なになに、なんで進まねーの」
「うるせえ、押すなよ」
「深山さんがいるんだよ。かわいいなぁ……」
「あの向かいの子は誰だ?」
「はぁはぁ……捗る」
後ろからそんな声が聞こえてくる。
「ねぇねぇ深山さん、これから俺たちと……」
ごつごつと無骨な手が俺の肩に乗せられ、どう考えても軟派であろう色めいた声が耳元で囁かれた。
「ひっ」
全身を舐めるような感覚に襲われると、それを前進する力に換えてせいらさんの手を引いて全速力で逃げる。
やはりこの姿だと人見知りが先行してしまう。いやこの姿はあまり関係ないか。
「待ってよー、那月ちゃーん」
男を、女に換えて見る男の声を無視して、俺たちは校門まで駆けていった。
「せ、先輩、大丈夫ですか?」
校門を出てすぐの自販機の影に身を隠しながら呼吸を整える。
せいらさんは心配そうに息切れした俺を眺めると、自販機に小銭を入れだした。数枚入れるとどこかポチっとボタンを押して、購入したドリンクの缶を取り出す。
「先輩、これ」
レモンの絵柄が記された紅茶の缶、レモンティーが差し出された。ありがたい。
「あ、ありがとう」
「いえいえ、です」
プルタブを持ち上げ開栓して、キンキンに冷えた液体をググッと喉に流し込む。
ぷはー。学生に許された一服よ。
平素はミルクティーを愛飲して他には目もくれない俺であるが、水分補給の用途にはレモンティーの方が適しているだろう。余談だがレモンティーは温かいものだと酸味、冷たいものだと甘味が強くなると思う。俺は断然、冷たいほうが好みだ。
清涼感に満たされる俺を見て、せいらさんがふわりと微笑んだ。
「なんか……安心……しました。先輩も……ああいうのは苦手なんですね」
「ま、まぁ……苦手……かな。怖いし」
せいらさんの微笑みは同族を見つけて、ほっとするような笑みのように思う。あまり本意なものではないけれどまぁ、せいらさんが笑ってくれたなら良しとするか。
そのとき、さきほどの男子生徒連中の声が自販機越しに聞こえてきた。
「どこ行った?」
「我らがエンジェル那月ちゃん〜」
「名も知らぬポニーテールの人〜」
思わず、せいらさんに密着するようにして自販機の裏に隠れる。肩と肩が触れるやせいらさんが喫驚の声を漏らしかけて、はっとして口を押さえつけていた。
不逞の輩たちがその場を去ると雪崩れるように自販機の影から出る。
「ご、ごめん……」
そしてせいらさんに向き直り謝罪する。俺も立派な、不逞の輩だ。
「大丈夫です……ちょっとびっくりした……だけなので」
「そう。ならよかった……」
先週の土曜、小蔵さんの珈琲店で見せてくれた明朗活発な様子はなく、借りてきた猫のように大人しいせいらさん。どちらが素のせいらさんなのだろう。
俺的には仮に、どちらでもいいような気はするのだ。
昔太陽と呼ばれていようが、今は太陽と呼ばれていなかろうが、それは木戸せいらという一個人には変わらないからだ。変わりゆく時代にあって、万古不易の人間は存在しない。良くも悪くも変化、変遷する。
昔両親がいて、今は死んでいないことを悔いたところで、両親が生き返るわけでもない。
誰だって昨日の自分を殺して、今日を生きているのだから。
例えせいらさんがこのままだったとしても俺は、かつての太陽と呼ばれたせいらさんに戻らなくても良いと考えている。まぁせいら父との依頼を無下にするわけにもいかないのが、現状ではあるけれど。
「で、今日呼んだのは?」
早速、本題に入る。
「えっと……。あの、土曜日のリベンジを、したいんです」
「土曜日の、リベンジ?」
「……はい」
せいらさんは神妙に頷いた。
土曜日のリベンジというと、俺にはひとつしか思い当たる節がない。
ショッピングモールの、楽器屋で楽器の試奏をするというものだ。
俺たちは共にそれに挑み、店員一人を巻き添いにして失敗してしまったのだ。あのときの店員さんには本当に申し訳ないことをした。いや、サボってた彼も悪いんだけどね。
「どうしてまた、リベンジを?」
不思議に思って言うと、せいらさんは胸元にきゅっと拳をつくり、真剣な眼差しになった。常に気後れという言葉が似合うせいらさんのことだ、さぞかし思い切った理由があるのだろう。
「あの後帰って色々と調べてみたんです。すると——こんなものを見つけて」
そのせいらさんが色々と調べた末に見つけたものを、スマートフォンの画面をもって見せてくれる。
月を指せば指を認めてしまう俺なのでせいらさんの長い裾からちょこんとはみ出た指がとてもキュートだなあと、そんなことを考えてしまった。
と、それではいけないのでしっかり画面を見据えることにする。
「——バイオリン?」
画面を見て思ったのはそれだった。
年代と、格式を感じさせる、こげ茶色のボディ。黄金分割を体現、女体美とも隠喩せしめるその造作はかの有名なストラディバリウス……にそっくりなのだが、俺が知るバイオリンよりもネックがやや長いような、ネック部分に無いはずのフレットが存在を刻んでいた。ボディにはピックガードと呼ばれる、明らかにバイオリンには必要ないであろう代物が装備されているではないか。
「これは、べえすぎたー……? というものなんだそうです」
「ほぇー、はじめて見た」
ベース・ギターのことを、こんなにもたどたどしく言う人もはじめて見た。
世の中にはいろんなものを、ベースの括りに収めようとする好事家がいるもんだ。ギターだと、アニメに出てくる特殊な銃器を模したモデルとか、天使の翅を模したものとか、バラエティに富んでいたりする。
ドラムは構造上そういった意匠は取れないので、ただひたすらにその機能美に惚れ込むしかない。質実剛健の体現者、それがドラムでありドラマーのことよ。
「これを試奏してみようと、思います」
決然として言った。
俺がよく知る気後れしいなせいらさんではなく、新たに見せた進取に気に満ちた表情。頼もしいとまで感じてしまうほどだった。
「そうなんだ。んじゃ、頑張ろう」
ベースと、ちゃんと俺たちのバンドのことも考えてくれているのが余計にせいらさんを応援したくなる要因となっているだろう。
陽菜でなく俺に相談をよこした理由がわかった気がした。
陽菜が一緒ではリベンジにならないもんな。
まぁ、同類と思われているということでは、あるんですけどね。事実だからまあいいか。