一章 ブルームーン(3)
中庭では、帰りのホームルームを終えた生徒たちが、雪崩をうって校門を目指していた。
行きしな仲良し男女グループが休日に遊びに行く約束を交わしたり、わりない男女が意味深な視線を交わしたり、受験一直線のガリ勉生徒があらゆる誘いを躱したりと、めいめいが週末のアフタースクールを満喫しているようだった。
こうして見ていると、俺とは住む世界が違うことを改めて実感させられる。
外を、春の風が吹き抜けた。
中庭の真ん中に植わった銀杏の木の葉たちが風とたわむれ、ささやかな万籟を奏でる。
そんな麗らかな春をこの身に感じることなく、俺はホームルームの只中にいた。
「さて、服を脱ぎたまえ」
水木先生の言う通り、俺は自らのワイシャツのボタンに手を掛ける。長年培ってきた早着替えのテクニックを用いて、次の瞬間には、指定された姿になりおおせていた。
中高共にブレザーで一貫している俺は、もはや神業レベルの早着替えを体得している。
高校は学ランの所も良いかなとも考えたが、早着替えのスキルを用立てていかなければならない場面は今後もたくさんあるので、やはり慣れ親しんだブレザーが手頃だと思う。何せボタンが少ない。早着替えにおいてはボタンの着脱が一番のタイムロスに繋がるのだから。
ブレザーの欠点を挙げるとすれば――本校、白銀ノ河(しろがねのかわ)高校に限った話になるだろうか、ネクタイやリボンの色がちいとダサいことだ。それあってか、真島さんはじめオシャレに敏感な生徒は一様にネクタイ、リボン着用を放棄している。
水木先生は、俺の早着替えに気づくと半ば呆れたように呟く。
「キミは相変わらず手が早いな。少しは落ち着いて取り組んでもよいのではないか?」
「いえ、巧遅は拙速に如かず、は世の常ですから」
「そうか」
俺の自慢を、歯牙にも掛けず、水木先生は再び自らの作業に戻る。いつだって無駄を省くのが、彼女のポリシーだった。ドライなのも良し悪しだと思う。
俺が早着替えをするのにはちゃんとした理由がある。
まぁ、有り体に言うと、見られたくないモノがあるからだ。
さて。
これから始まるのは生徒と教師との目くるめく禁断のロングホームルーム――……ではなく。
身体測定というやつだ。
本来ならば、来週の月曜日に学年でまとめて、ないしは学校全体で行われる行事の一だが、保健室登校の身である、俺たっての希望。
保健室登校の分際、それも他生徒とのコミュニケーションが壊滅的である俺における特例処置だ。俺のことを女子として見てくる、男子に混じって身体測定。飛んで火に入る夏の虫もいいところだ。それは水木先生も重々承知なのだろう、故にかくもあっさりと申請が通った。
先だってまで保健室を賑やかしていた真島さんは、就業のチャイムが鳴るやいなや疾く立ち去っていった。もとよりサボタージュするためだけに、大した怪我でもない足をこさえて、わざわざ四階の保健室までやって来たのだ。
真島さんはもうここには来ないだろうし、今後、真島さんと会話を交わすこともないだろう。俺のことだって保健室に転がってた玩具と同じような扱いでしか見ていなかったろうし。なにより、「なちゅ」という言葉を無かったことにしたい。
そして、わざわざこんな不便極まりない所を訪れる人もいないだろう。真っ当な怪我人が、四階フロアまで足を運ぶなんて考えづらい。
――機は熟せり。鬼の居ぬ間になんとやらである。
「よし。準備オーケーだ」
あちらの準備も整ったようで、水木先生が等身大の機器の傍で俺を手招きした。
そろそろと近づいていき、指示通りに俺は身長測定器の前に立つ。上履きと靴下を脱いでから測定台に乗り、目盛りが刻まれた縦棒に沿ってぴんと直立した。
水木先生の等身大、というのは語弊があるかもしれないが、水木先生は女性だてらに身長が高く175センチメートルくらいはあるのではないだろうか。白衣を着ていると判りづらいが、スタイルだっていいと思う。突出したものはないけど。
方や俺は――
「163……、いや、162.9センチメートルか」
水木先生の残酷な宣告により、去年よりも身長が縮んでいるという事実に直面する。そして、水木先生よりも一回り小さいという事実。
ちゃんと牛乳飲んでいるか、という激励もなく、続いて体重測定台に乗り移る。
市販のものより規模の大きいその装置に体重を預けると、数値を見た水木先生が関心したように呟いた。
「ふむ、50.5キログラムか。まさに理想的な数値だな」
「いやいや! まさに絶望的な数値でしょう……」
確か高校二年の男子生徒の平均身長は、およそ170センチメートル。平均を7センチメートルも下回っているのだ。体重はなおもってだ。理想とは、どこ情報なのだろう……。
学生の身体情報を熟知する水木先生がその根拠を教えてくれる。
「そんなことはないよ。ここに通う数多くの女子たちが、キミのような体型を目指して日々練磨している」
女子のデータ!
「かくいう私も、実は自分の身体にコンプレックスを抱いていてな」
「え? そうなんですか? てっきり女子たちは、みんな先生みたいな人を目標にしてるのかと思ってましたけど」
まぁ、身長は先天的な因子が大きいから、どう憧れようと実らぬ願いだ。
「……肉付きがな、乏しくてな」
水木先生が憮然として言った。落胆の意は、おもに胸の辺りに集中していると思われる。
「そ、そうですか……」
まぁ胸も先天的な因子が大きい故に、どう足掻こうが実らぬモノだ。
そして気まずい空気のまま、最後、座高の測定。
背もたれにメモリのついた椅子のような物質に腰をおろすと、ふと水木先生が怪訝そうな声をあげた。
「深山クン、これは何かね?」
水木先生の視線を悟り、俺はぎくりとして固まってしまう。
彼女は、俺の左膝周辺に浮かんだ浅黒い痣を指さしている。運動用のやや大きめのパンツなので、先ほどまでは見えなかったが、屈んだり座ったりするとぎりぎり見えてしまうようだった。
……この人にだけは見られたくなかったのに。
早着替えをしてまで、見られたくなかったのに。
「見たところ挫傷のようだが」
「ああ……ええと、これはですね……」
俺は機知を利かせて、手に棒状のものを持っていると仮定して腕をリズミカルに振るジェスチャーをしてみせた。すると、水木先生はため息を吐く。
「ステッキは、ドラムを打つのものであって膝を打つ物ではないはずだが?」
「スティックです、先生」
「どっちでもいい」
論点をずらすな、と言わんばかりに俺の指摘をしりぞけた。
だが俺的にはもう、論点をずらすことに成功しているので、あとは成るに任せるだけだ。
「だって……練習用のパットは高いんです。かといって練習スタジオ行く勇気なんてないし」
バンドをやっていれば、スタジオにも自然に入れるのだろう。だが、ひとりで練習するにはスタジオは手広すぎるというか、こと孤独感が浮き彫りになって死にたくなる。
ぼっちは、自分の膝を叩いてるくらいが丁度いい。
「こないだは雑誌をドラムに見立てていたではないか。それでは駄目なのかね?」
「資源を無駄にするなと怒られました……」
俺がしつこく粘ると、ようやく水木先生は追及の切っ先を下げる。
「……わかった。私が買ってやろう。だからもうこんなことはするんじゃないぞ」
と、願ってもない申し出をいただけるのみならず、水木先生は棚から木箱、木箱から様々な薬品を取り出し、どうやら怪我の手当をしてくれるらしい。
「それにしても、さぞかし大きくて太い物で打ち付けたのだろうな。私の知る限りのステッキでは、このような傷にはならない筈だが」
さもありなん。
この痣はスティックによるものではない――人の足、つまりは蹴りによって出来たものだからだ。
スティックの痣もよくできるが、ここまで大きな痣にはならない。できたとしても、ものの数日でそれは消える。
この痣は、俺と他人との決別の証なのだ。
だが、それを水木先生に申告できるはずもなく、俺は無言で水木先生の治療を見守るのだった。水木先生も、それ以上深く追求はしてこなかった。
「ふむ、こんなものかな」という水木先生の合図で膝下を見る。
まさに魔法と言おうか。傷自体は完全には癒えていないものの、すっかり目立たなくなっていた。
「あ、ありがとうございます」
「うむ。あのままではお嫁に行けないだろうからな」
……この女、一言多すぎる。
そして肝心の座高の数値だが、79センチメートルという、是非が判りづらい結果のうちに身体測定は終わりを告げた。