三章 木星か、土星か、いや、木戸せいら(3)
懐かしの母校は、行くことはおろか見ることすら久しぶりだった。
概観は当時とさして変わらない。細かいところで改修、改築が為されているようだったが、概ね原風景を保っている。
長めの切妻屋根は、学問を象徴するが如く。切妻屋根とは、開いた本をひっくり返したような形をとった屋根のことだ。長く本に親しんで欲しいと、願いが込められた屋根なのだと本校の歴史にはあるらしい。まぁ俺的な解釈だと、長い間読書を中断され、そのまま忘れられた哀れな書籍という印象しかない。
長い屋根のちょうど中程にはもう一つ、垂直になるように切妻屋根が交わり、その庇の下にはグラウンドの生徒でも容易に視認できる程度の、大きな時計があった。時計とは即ち時間なのであって、俺の解釈を裏付ける要因となっていよう。
こうして雨に煙るも、その大きな時計からは正確に時間が読み取れる。お昼の一二時三分、雨に妨害され、なんだかんだで予定よりもさらに時間が掛かってしまったようだ。給食の配膳がだいたい五五分頃、食べ始めるのは一二時ジャストのはずだから、ちょっとばかり遅れてしまったらしい。ちょっとばかり、申し訳ない気持ちになる。
正面門から学校の敷地に入り、職員、および来賓用の昇降口へ入り、拝借した来賓用のスリッパで、ぺたぺたと床を鳴らしながら一階階段を目指す。お昼時とあって、給食らしき匂いが廊下にも漏れていた。校内における、白米の匂いって良いよね。
階段フロアの斜向かいには、廊下を挟んで給食室があり、そこから立ち込める馥郁たる香りに思わずお腹が鳴る。思わず小学生に戻りたいと考えてしまった。
給食室にはその性質上、各階に通ずるリフトがあり、それで滞りなく各階のクラスに出来たての給食を届けることができる。もう各クラスへの分配は終えているのか、リフトは仕事を預かっていないようだ。俺乗ってもいいですかね、ちょいと四階まで。
と、冗談はさておいて、大人しく階段をえっちらおっちら登って四階を目指すことにする。
何、四階までの登りなど平素よりやっていることだ。途中何人か、生徒とすれ違い、「みて、きれい」と、賛美の声を集めるのだって平素と何ら変わらない。こうして月宮マナとしての経験値も着々と集める、アイドル熱心な俺。
四階——つまり、四年生徒が犇めくエリアに到着すると、とても重要なことに気づいた。
「流星って何組なんだ?」
見るに四年生は、四クラスに分けられているらしい。四にえらく拘るな。
虱潰しに探索するのはもっとも確実で、最終的にはそうなるかもだが、これ以上無駄な時間はかけたくないのが本音だ。一クラスで約四〇人、四クラス合わせると約一六〇人。さらに今日は授業参観なので、都合三〇〇人以上になるかもしれない。その中から流星を見つけるのはちょっと気が重いな。
と、思っていると、各クラスの扉の横に机が設えられていた。それぞれ名簿が用意してあり、これで生徒の把握も捗ることだろう。
それぞれのクラスからわいわいと談笑がさんざめいている。五月蝿いなと思いつつ、順繰りに名簿に目を通していく。
一組……、ない。
二組……、ない。
三組……、ない。
最後、四組……いた。
四組に関しては、名簿を見るよりも教室を覗いたほうが手取り早いと思ったのでそうすると、生徒と保護者とで一〇〇人近くの人数が教室内に在るというのに、流星の姿をすぐに見つけることができた。
だが、見つけることはできたが、見ていて胸が苦しくなる光景だった。
教室内でいくつかグループが形成され、それぞれのグループで親子入り混じって給食、または弁当を美味しくいただく中、その外れ、教室の隅でぽつねんと机に座り、給食を食べる後ろ姿があったのだ。それが流星だったのは、言うまでもない。
教室中を見渡してみても担任教師と思しき人物は見当たらない。こんな村八分、教師なら放ってはいけない問題のはずだ。
「……馬鹿」
それは担任を責める文句ではなく、自らを戒めるもの。
俺が遅刻をしてしまったから、流星はああして一人になってしまった。何を人の所為にしているのか。
そして、その後ろ姿を見ていると、流星の肩が小刻みに震えてるのに気づく。
つまり、それは。
「ごめん……」
心にその光景を刻み込み、もうこんなことは絶対にないように銘記し、疾く流星のもとへ近づく。
生徒の何人かが、俺の存在に気づいて声を上げた。
「見て、奇麗」
「本当だぁ、誰のママだろ?」
「ザマス」
そんな雑音には耳を傾けず、俺は……いや、わたしは流星のもとへ辿り着き、背後に立つ。
生徒たちのひさめき声が大きくなれど、流星の様子は変わらない。話す相手もおらず、合わす目線もなく、口は休まず食べ物を咀嚼し、視線は給食のトレーを見下ろし、目から雫を落とす。
哀れで、可哀想で、わたしが死んでしまいそうだった。胸が、心がきゅっと締め付けられる。
わたしは手に持った鞄を床に捨て、両手で流星を後ろから目隠しをした。
「だーれだ」
流星の肩がびくっと一際大きく震える。わたしは目隠しした序で、流星の涙をそっと拭ってやった。
「…………っ」
流星から返事はない。返事がないというよりは、返事をしようとしても、嗚咽が絡んでまともに言葉にならないのが正確か。母性でもって、抱きしめてやりらねばという義務感に駆られる。
流星の目元を指の中節あたりで揉み揉みして、涙を拭い去って、このママの姿はいよいよ流星と初対面。しゃがんで、着席する流星と同じ目線で、向かいに回り込んで流星を正面に捉えた。
「ママでした」
机にしがみつくようにして、首から上をちょこんと机の陰から出して可愛らしく挨拶してみる。返事はない、ただの尸のようだ。
「流ちゃん? わたしだよー、那月ちゃんだよー」
わたしの正体がわからない可能性もワンチャンあったので、今度は実名も交えて再三挨拶する。するとようやく返事があった。
「……ただの生首かと思った」
「ママに対してひどい言い草⁉︎」
思わず後ろに倒れ、みっともなく尻餅ついてしまった。生首とは……、ただの尸とはわたしのことであったか……。
流星はわたしを倒し、経験値を手に入れた。ジョブ・皮肉屋の道を切り開いた。余談だが、「皮肉屋」と字面を惟みるに、精肉店的なものを連想してしまうのはわたしだけだろうか。いや、わたしがお腹空いているだけだな、違いない。
「なんで那月、いるの」
トレーナーの裾で目をごしごししながら、流星は床にへたり込むわたしに問いかけた。ごしごししすぎたのか、目元が赤く腫れぼったい。
「それは……」
そう直截言われると返答に窮してしまう。今でこそ自発的に流星のママ役をやってるけども、つい一昨日までは嫌々だったわけだから。ある意味、この露出度の高い服を買ったことで吹っ切れたところはあるかもしれない。
「嫌、だった?」
だが、流星にとっては嫌なことだったのかもしれない。実の母親でもない、わたしが授業参観に来たところで、根本的な解決にはまったくなっていないのだから。故に、このような問いで返すしかない。
「そんなことない」
故に流星のその一言に救われる。
「ありがとう〜〜」
受け入れられたのが嬉しくって、身を乗り出して机越しに流星に抱きつく。
教室中がざわめいた。わたしの行動を、囃し立てる子供の声。見ちゃいけませんと子供を戒める声。羨ましげや恨めしげな声。
それに混じって、わたしの胸の中からくぐもった声が聞こえてきた。
「おっぱ……苦しい……」
窒息しそうな声。
「ご、ごめんなさい!」
善意の結果、殺人犯になるのは御免なので、早々に流星を解放する。
「し、死ぬかと思った……」
本当に死にそうな顔面蒼白で流星が言った。うーん、これがメイド姿だったなら満面朱をそそいでいたのだろうけど。もしかして、わたし魅力ない?
「流ちゃんさ、この格好ってあんまり好きじゃない? ドキドキしない?」
深層では悔しかったのか、我知らずわたしはそんなことを訊ねていた。メイド姿の時は鼻血どころか、狼男になるくらいだったのに。
「が、学校だから耐えてんだよ、察せよ……」
「あ、そうなんだ?」
「でもドキドキはした。死ぬかと思ったから、心臓バクバク」
やはりどこか皮肉屋な流星だった。
◇◆◇
適当に椅子を引っ張ってきて、流星と向かいになるようにして机を共有する。
ちろちろと周囲の視線が気になるところではあったが、極力気にせず、流星とのランチ・タイムを楽しむことにしよう。鞄から弁当の風呂敷を取り出し、机の上に広げる。女性用のものとあり、男子である俺にはちょっと物足りない感が否めないサイズではある。いや、今日はわたし、流ちゃんのママなんだった。いけないいけない。
「ご開帳ー」
と、気分を盛り上げるため、ナレーションめかして言いながら弁当箱を開くと、下段の容器には白米のみが敷き詰められていた。それを見て流星がつまらなそうに呟く。
「日の丸弁当ですらないのかよ」
「ちっちっち」
早計を下す流星をかるーく往なして、上段の容器をぱかり。いつもの玉子丼に、鶏肉が追加された、つまり親子丼がお目見えする。
「おーっ」
流星が関心めかしてツイートした。できるママでしょとばかりに、えっへんと胸を張る。まぁ、わたしが作ったんじゃないけど。
玉子丼とは、両親がおらずとも一人前になるという、わたしたち孤児にとって希望あふれる食べ物である。
しかし今日は、授業参観ということで、親子の絆を確かめるべく親子丼にしてみたのだ。まぁ、決めたのはわたしじゃないんだけど。
デザートの容器には市販のプリンがプラスチック容器ごと入っていた。デザートの容器は必要なかったのでは? そんな流星の野次が飛んできそうだ。
「流ちゃんの、美味しそう」
気をそらすため、流星の給食に視線を仕向ける。今さら、とか別段、とかいう感じで流星は自らの給食のプレートに目を落とした。
ザ、わたしが焦がれていたメニュー。
ココア味の揚げパン、白身魚のバジル・ソテー、ミックス・サラダの青じそドレッシング和え。アルミのミニプレートで、こんがり焼かれたグラタンは、この半端な本格感が実に給食っぽい。やばい、涎が出ちゃう、出ちゃうっ!
そして、毎日、生徒たちの丈夫な骨作りを手伝う牛乳。
「別に普通じゃん」
さも当たり前のように言う流星。くそう、その当たり前はいつしか突然、なくなっているものだと気づかない楽天家め。なくなって初めて、後悔するんだぞ。
ショーガッコーの頃ー、牛乳嫌いだったんだけど今は超好きになってー、あの時飲まなかったぶん学校に請求したいわって感じー、って感じーに悔やんでも遅いんだぞ。あの時ちゃんと牛乳、飲んでおけばよかったな。
それに、最近は中学校でも給食制度を廃止にしているところが多いときく。すると流星が給食にありつけるのは、残すところあと三年とない可能性も出てくるわけか。三年なんてあっという間だ。三年間、遊びに耽り、死んだような目で死んだような未来を見据える就活生を見れば、三年など光の速さで去っていくのがよくわかる。そして残されるのは、お先真っ暗な人生……。
「ねぇ流ちゃん、わたしのやつと分けっこしない?」
おねだりすると、流星は口に含んだ牛乳を噴き出しそうになった。間一髪のところで飲み込んで、両手をこちらに突き出してぶんぶんと振る。
「や、やだよ、だってこれ、俺口つけたやつだもん」
「だからいいんじゃん」
手付かずのおかずを頂くのは、さすがに気が進まない。その点、すでに手の付けられたものなら遠慮がいらないというか、そんな感覚。
「よくないから! 見られてるから……!」
見られてるから、のところは妙に声を潜めた言い方になっていた。そんなに人目をはばかることだろうか。
「え、だって親子じゃない、わたしたち?」
確かに、さっきから周囲の視線は気になる。そして、それは人の目だけでなく、もっと無機質な目も、含まれている。
ふと、それが陽光を返してわたしの視界を光でいっぱいにした。眩しさに目を細め、恨むようにその反射源を細目でねめつける。
「おっと、美人ママ睨み返してきましたー!」
睨め付けるに適した、下卑た笑いとお高そうなカメラをこちらに向ける少年がいた。それに気づくと流星はしおしおと俯き、まるで生気を失ってしまう。
まるで拓篤を前にしたような、自分よりも強い相手に萎縮してしまうような典型の態度に見えた。




