三章 木星か、土星か、いや、木戸せいら(2)
「響子……」
小蔵さんが呟く。
その、女性? の名前を聞いてもまったくピンとこないし、小蔵さんの顔は今にも崩れて泣き出しそうだというのに、俺の心には何一つとして響かない。小蔵さんは両腕を幽霊のように前方に彷徨わせると、そのまま俺の肩をぐわしと握り込んだ。
「響子、どうしてお前が……。いや、そんなことはどうでもいい。十年ぶりかのぉ、暫く見んうちに大きくなりおって、主に胸が」
「っ、痛……」
幽霊のように、弱々しい仕草なのに無駄に力があった。肩骨が握りつぶされるかと、思ってしまうほどの痛み。はっと苦痛に顔を歪める俺の顔を見て、小蔵さんは我に返ったように力んだ腕を解す。すっと痛みが抜けて行き、ようやっと、冷静に小蔵さんの顔を見ることができる。
「すまん、響子」
絶対なる威厳を持ち、客相手であろうが媚び諂わないであろう小蔵さんが、初めて見せた誰かに縋る姿だった。俺はその響子さんではないのだが、状況に合わせて頷いておいた。いや頷いちゃ駄目だった。
「違います! 俺、響子じゃない」
アーケード街で賑わう中で、それでも閑静さを保つこの荒屋に俺の言葉がいやに響いた。比較的大声で言った「違います」よりも、ぼそっと因果を含めるように言った「俺、響子じゃない」のほうが印象が強く残っていると俺は思う。何せ、この格好で俺と自称することがまず違和感でしかない。
俺の声を改めてちゃんと聞き、響子さんの声ではないことを察したのか、俺の声を通じて俺の正体を察したのか、小蔵さんはまたも俺の肩をぐわしと掴んできた。心なしか、さっきよりも握力が強くなっている気がする。
「お主、まさか、さっきの電話の小僧か?」
「そ、そうですよ。あなたが会いたいって言うものだから、こうしておめかしして来たんじゃないですか……」
来るときにあらかじめ用意しておいた女装に対する理由を述べると、小蔵さんは訝しげに目を細める。その目は俺の全身をくまなく観察した。亜麻色の肩にかかるくらいの長さの髪、白行ちゃんにやってもらった故いつもよりばっちり決まったメイク、見た目も質感もむっちり決まった擬乳。水木先生に理想と言わしめた、完璧ななまでの体格を包み込むのは膝上数センチのタイトな黒ミニスカート、ボディラインを強調する白ワイシャツ、理知的な雰囲気を演出する黒のジャケット。黒のストッキング、黒のヒールでもって、モデルばりの脚長に見せる意匠も忘れない。
そんな周到な女装を捕まえて、変態とでも言いたげな目を小蔵さんはしていた。
雨の中、来たので、上着やスカート、ストッキングはぽつぽつと雫を帯びている。これにしたって、一部のマニアを扇情する要因になるはずだ。女性の濡れた髪にどきりと胸を鳴らす男性はたくさんいる、と思う。
ただ、小蔵さんがその口ではないのは傍目にも明らかだった。哀れなものを見るような目で俺を見る。
「早よう上がれ。タオルを持ってきてやる」
小蔵さんの口から出るのは、変態の罵りではなくそれだった。言って店内奥へと消える。
確かに、濡れ鼠は哀れではあった。俺は折り畳み傘を小さく纏めると持参したビニール袋に入れ、それから手持ちの鞄に放り込む。濡れた手を、払ったり弾いたりして水気を飛ばしていると、奥から小蔵さんが大きめのタオルを抱えて戻ってきた。大きさ的に、バルタオルだろうか。
「ほれ」
と、無愛想に言いながらタオルを俺の頭に被せると、小蔵さんはタオル越しにわしわしと優しく揉み込んだ。ちょっぴり擽ったい。
髪はそんなに濡れていなかったので、足元を重点的に拭き取ってくださったのだが、太ももあたりは、自分でやれと小蔵さんはバスタオルを押し付けてきた。
「あ、ありがとうございます」
礼を言って受けって、着衣のまま乾布摩擦をする
乾布摩擦というには些か水分を含みすぎたか。雨脚は弱まっていたとはいえ、どうやら結構濡れてしまったらしい。
「あ、ありがとうございました」
なんだかんだでだいぶ水気を含んでしまい、汚くなってしまったタオルを小蔵さんにお返しする。汚したタオルについて小蔵さんは特に言葉は寄こさずに、顎で俺にテーブルへの着席を促した。
「コーヒーを淹れてやりたいところだが今日は豆を切らしておる。紅茶で我慢せよ」
「は、はあ」
タオルを下げに、店の奥に消える際に小蔵さんはそう言った。コーヒーよりも紅茶派な俺には願ってもない話だった。珈琲店としてはどうなのかと思わないでもないが。
「で、その恰好はなんなのじゃ」
タオルを処理し終え、有名な銘柄の紅茶葉の缶を開けながら小蔵さんが訊ねてきた。さっき、小蔵さんのためにおめかししたと言い訳したのだが、まったく信じていないんだろうなぁ。
「これから、弟の授業参観があるので」
言葉少なではあるが正直に答えると、小蔵さんは小馬鹿にしたふうではなく自然体に呟く。
「授業参観? それで何故、小僧が女子の体をとる必要がある」
「他のクラスメイトは、みんなお母さんが来てくれるそうなので」
「ならば小僧のところも、母堂に来てもらえばよかろう」
それは何気ない一言だった。でも、俺にとっては剣のように鋭く、冷たい、一突きのような一言。
痛みはあった、心に。
「いませんよ、親なんて」
故意ではないにせよ攻撃を受ければ、こちらの言葉も荒々しくなる。少なからず怒気をはらんだ俺の声に、小蔵さんは気圧されたようだった。
「何か、訳ありか」
腫れ物を触るように、低いトーンで問うてきた。向こうとて故意ではないのだ、それに対して怒りを持続させるようでは堪え性のない愚者へと成り下がるのみ。
俺は努めて平静を装うと、俺の身空を打ち明けた。
両親が交通事故で死んだこと。今は児童養護施設で暮らしていること。施設には男性しかおらず、こうして俺が女装して弟の授業参観に向かわねば、弟が学校でいらぬ誹りを被ることになるかもしれないこと。小蔵さんは特に相槌も打たずに、キッチンで作業をしながら俺の支離滅裂な昔語りを聞き流す。
「そうか」
終いにそう言って、小蔵さんは両手にトレーを持ってテーブルに近づいてきた。トレー上の二つのティーカップが、上品に白い湯気を上げている。
「ほれ、早く飲め」
目の前に、茶褐色の液体が注がれたティーカップが差し出された。素材良く、プリミティブな香りが鼻腔をくすぐる。ソーサーには市販のガムシロップとミルクが添えられている。
コーヒーや紅茶は、淹れられた容器によって味わいが変わるのだと、通は語る。
今、目の前にあるカップは白と青が基調の陶器もので、ウェッジウッドと呼ばれる英国王室御用達のブランドのものだ。縁取りのブロンドがTHE・英国って感じがする。
「いただきます」
お礼を言って、一口飲む。うまい。カップで味が変わる云々はさておき、絶対的にうまい。絶対うまい。
美味しい、と言うまでもなく小蔵さんは俺の表情を読み取って、ドヤ顔を披露していた。ドヤ顔ついでに、俺の隣の席につく。
「どうじゃ、絶品じゃろ」
「はい、絶品です」
絶対的にうまい一品。これ略して、絶品。
とまぁ、絶対的に美味いのだが、やはり俺はミルクとガムシロップを入れないと満足はしないらしい。それぞれ開封して、カップの中にどばばーと注ぎ込む。すると、茶褐色のそれはみるみるミルクティー色めいてきた。
「ふ、お子さまじゃな」
「はい、お子さまですけど」
開き直って、ぐいっと一息にミルクティーを飲み下す。一気飲みも子どもの特徴だ。大人でも飲み会などで一気飲みはやるだろうけど、所詮はガキの戯れに他ならない。
一息に飲み干すと、余情も何も残らない。
コクも口当たりも忘れ、残されたのは、ここに来た理由だけになった。
「で、今日、呼んだ理由というのは?」
単刀直入にそう切り出すと、小蔵さんは飲みかけていたティーカップをソーサーに戻す。ちんと、切な気に音を立てた。
小蔵さんは軽く咳払いをし、意味もなく居住まいを正すと、グレーのスラックスのポケットから一通の封筒を取り出した。白い、どこにでもありそうな形式の封筒には一点、珍しいところがあった。
封筒の頭から裏面上部に渡り、契印が施されていたのだ。
「何ですか、それ」
問うたが小蔵さんは答えない。察せとばかりに、俺の前にそれを置いた。
その封筒が何であるかは封筒を見れば分からない人間はいまい、遺書と表面に、小さくではあるが克明に記されているのだから。
俺だってわからないから聞いたのではない。わかっていても思わず訊きたくなってしまうことは、あるのだ。特に、この封筒のように、はなから“遺書”と明記されているものには関しては、そういう傾向に陥りやすい。
有り体に言えば、遺書に対する疑問ではなく遺書を差し出した小蔵さんの行動に対する疑問だった。
「見て分からんのか。それとも、若くして瞽なのか」
「いや、分かりますけど」
そういうことではないのだ。年長者なのだからそこは察して欲しかった。
封筒の表面には“遺書”とあるのみであり、差出人は不明。いや、俺にこの封筒を差し出したのは小蔵さんなのだから、小蔵さんの遺書である可能性も微レ存……などと、くだらないことを考えだす始末。
なんとやら、封筒と裏返すこと、そもそも遺書に触れることが憚られた。
だいたいこれを持ち出した本人である小蔵さんが責任を持って事を明らかにしてほしいものだ。こんな丸投げでは俺が困ってしまうだけだ。勿体をつけているのか言い出しかねているのか、どちらにせよ俺としては釈然としない。
「開けてみろ」
小蔵さんは俺にこれを開封しろと言う。この遺書が小蔵さんの物でなくて他の誰かの物だったとしたら、それはとても背徳的で、冒涜的な行為なのではないかと思われた。
開けてみろと言うので、とりあえず触れてそのまま裏返してみる。
差出人の名前が記されていた。名前は――
小蔵。
やはり小蔵さんだったか。この爺さん、死期が近いからって、人に賞状感覚でなんてものを披露してくれてんだと、思ったが、続く名前は明らかに男性のものではなかった。
小蔵響子。
響子とはさっき、小蔵さんが俺のことを呼ぶさいに用いた名前ではなかっただろうか。つまり。
「俺の、遺書ですか?」
「娘の姿をして俺とか言うな」
頭がこんがらがって変なことを口走る俺に、どうでも良いところを窘める小蔵さん。小蔵響子とは、小蔵さんの娘のことなのか。
「娘さんの遺書……なんですか」
言い直すと、小蔵さんは小さく首肯する。自殺、だったか。遺書を残すということは突発的な自殺ではなかったのだろう。
「さっきわたしのこと、響子って」
俺と言ったことを窘められたので、わたしと自称した。そしてわたしと名乗る以上、声音にファルセットを添える。
すると、小蔵さんの無骨な肱が俺の身を抱いた。変態だ、とは思わなかった。
俺の姿に娘を見ての行為なら、この行為くらいは、許されるべきだ。両親を失った俺だからこそそう主張できる。俺にはそんな相手は現れなかったけど、もし現れたのなら、それくらいの行為は許してほしい。
「響子」
涙絡みのその声を、肯定はしない。俺は響子さんではないから。
俺は祖父に会ったことがない。父方も母方も俺が生まれる前には他界していた。故にお祖父ちゃんとは、こんな感じだったのかなぁーと想像することしかできない。小蔵さんは仏門の人なのか、少々抹香臭かった。
俺の祖父も、二人ともとにかく抹香臭かった。会ったことはないし体験的思い出もないけれど、遺影を通じて彼らのことは知っているし、仏壇の傍らにあった遺影であるから、その写真も線香に薫きしめられていた。
故に、祖父は抹香臭い。
何故か、小蔵さんも抹香臭い。
「お祖父ちゃん」
その呟きに小蔵さんは応えない、彼は俺の祖父ではないから。
ただ、否定もしなかった。
◇◆◇
ついに涙が枯れた、小蔵さんの。
これ以上涙を流し続けていたら体内の水分がなくなってしまい、死んでしまうのではないかというほどに小蔵さんは涙に暮れた。目元が乾き、嗚咽も止み、その後を継ぐのは、外をしとどに濡らす雨。小蔵さんの意思を背負うように、重たい雲を、背負う雨。
アーケードの屋根に守れ、直接雨滴を被ることがなくとも雨音は、この建物の空気を微かに揺らしている。
結局遺書は後ほど検めるとして、俺が預からせていただいた。今読み上げようものなら、さらに天候が悪化するのではないかと懸念されたからだ。つまり、小蔵さんの涙腺がダム決壊レベルでヤバい。あと理由はそれだけではない。
「ごめんなさい、わたしそろそろ……」
時刻は11時半過ぎ、授業参観が11時からスタートだから現時点で半時間ほどの遅刻。流星の小学校はここから歩きだと15分ほどだから、45分規定の、4時限目の授業にはどうあっても間に合わない計算だ。今すぐ、出発しないと。
「そうだったな。すまなんだな、遅くまで引き止めて」
すっかり角が取れたらしい、小蔵さんが申し訳なさそうに言った。
「また遊びに来ますよ。やっぱりこの姿がいいですか?」
「……できれば」
「わかりました。じゃあ、次来た時には娘さんの写真、見せてくださいね」
響子さん、だったか。この姿こと、月宮マナにどれだけ似ているのか興味があった。
「次は黒髪で来ることだの、娘はそんな明るい髪色ではなかった」
それはそうか。教職員とは基本、染色なんて許されないだろうから。水木先生がおかしいだけなんだ。
「わかりました。では。紅茶、ご馳走様でした。美味しかったです」
「また飲みに来い。そういえば娘はコーヒーより、紅茶のほうが好きだったわい」
どれだけ俺に似ているのだろう。ますます興味が湧いてきた。
とりあえず適当なところで暇乞いをすると、傘を取り出して俺は店を後にする。
店を出ると、雨音がいやに浮き彫りになった。アーケードの屋根を叩く音を聞くに、雨粒の大きさが窺える。これは一発のダメージが重そうだぞ、とふざけていられるのも今のうち、アーケードを出たら一目散に学校へ向かわなければ、盛大に濡れそぼってしまうだろう。
店に忘れ物はないかと、鞄の中身を今一度チェック。よし、遺書の封筒はちゃんと入っている。これを忘れたら、また取りに行くのは気まずいからな、念のためというやつだ。
アーケードの端に到着、出口の信号待ちがてら傘を開き、滂沱たる雨に濡れる覚悟を決める。時刻はもうじき正午。
気がかりはせめて給食の時間には間に合えばよいのだが、というものだった。