二章 気のせいだ(6)
陽菜と拓篤とその後もモール内を散策して周り、適当なところで、拓篤は一抜けすることになった。なんでも友人との集まりがあるらしい。
「わりぃな。これからサイファーがあるんだわ」
「サイファー?」
陽菜が、ぽわーんとした曖昧なイントネーションで拓篤の言葉をなぞる。
「サイファー。まぁ、簡単に言うとラッパーのストリートライブみたいなものよ陽菜ちゃん」
俺が適切かつ簡潔にサイファーのなんたるかを説明すると拓篤はこいつやるな、といった感じで眉を動かした。ふんと自慢げに胸を張ってやると、膨満なそれがたわんと揺れて周囲の視線を集める。自慢げから一転、恥ずかしげに縮こまってしまう自分が情けない。
「月宮って、そっち系に詳しいんだな?」
「え、ええ、まあ」
曖昧な問いに曖昧な返答でもって返した。
拓篤の言う、そっち系とはどうせあれだろう、アングラ系ミュージックのことを指しているのだろう。ヒップホップとかダンス系とかブラックミュージックとか、その界隈のジャンル。さして思い出も思い入れもないが、これだけは言える。少ないお小遣いから、B系ファッションの服を押し売られてしまうくらいには、アングラに精通していると。
「へぇ、今度俺んところのクルーに遊びにこいよ。色んなやつがいて楽しいぞ」
「わぁ、ぜひ。ほんとうに色々いますよね〜、カラフル的な意味で」
面識のある者にしか識りえない情報を言うと、拓篤はさきほどの感心とは別の意図で眉を動かす。
「月宮、あいつらのこと知ってるのか?」
「知ってますよ〜? 赤髪君と黄髪君。あと、青髪君と緑髪君に関してはわたしの同級生でしたよね?」
聞かれてもいないのに懇切丁寧に説明するすると、拓篤は悋気を帯びた視線をこちらに寄せ、はばからわしく訊ねてきた。
「仲、良いのか?」
「いや、全然。むしろセクハラばっかりするので嫌いです」
全然、に合わせて手をぶんぶんを振る。その拓篤の表情に、ガースさんに頬っぺたチューされた折の拓篤の吝惜めいた狂気が重なったので、うまく話を誤魔化しておいた。
しかし、はっきりと嫌いというワードを出したのだが、拓篤はその前のセクハラという単語に過剰反応した。
「セクハラとは‼︎」
拓篤がぐわしっと、それこそセクハラめかして俺の両方の二の腕をふん掴んだ。自然、二の腕にまで大きさを膨らませたその胸にも触れている。セクハラとはいま、拓篤がやっていることを指します。
すると、アンダーグラウンドの入り口手前でおいてきぼりを食らっていた陽菜が、拓篤の頭をぼかんか殴りつけた。たん瘤の場所に見事ヒットし、さしもの拓篤も、痛みにあえなくしゃがみこむ。
「おやめなさい。マナ将来、日本を背負うアイドルになるんだから。てか崇めなさい」
「へいへい……」
苦みばしった顔で、手で頭をさすりながらのそりのそりと起き上がると俺の姿をちらと一瞥してから小さく呟いた。
「……天下一のアイドル目指してんならそんなエロい格好すんなよな」
小さい言葉は、その端々の尖りも鋭くちくりちくりと、地味に俺の胸に突き刺さる。
「し、仕方ないんですのよ……ママさんの服装って大体こんな感じなんでしょう?」
言うと、拓篤は首をかしげる。女性らしくちょこんと、ではなくギャングがよくやるような頭を斜め後ろをに反らして、ああ? と静かに対象を脅しかけるような所作だ。
「月宮、そもそもなんでそんな服買ったんだよ?」
「あ、あなたたちがこれにしろって言ったんでしょう⁉︎」
拓篤の厳かな所作に釣り合わぬ、間抜けな問いに、思わずバカっぽく反論してしまった。
「じゃなくてよ、どっかに着ていくのか? 例えばその、デート……とかよ」
「さっき自分で、就活って言って納得しておいて⁉︎」
そのあと、結婚しよう、的なこと抜かしておいて?
わからない。拓篤は、わからない……。
「いや、冗談のつもりだったんだよ。いや半分くらいは本気だったけどよ」
わからない。半分くらいとはどの辺が本気だったのかがわからない……。結婚? 就活? わからない……。
「どの辺が本気だったので?」
問うと、拓篤は何のはばかりもない実に堂々とした面持ちで言った。
「セックス」
「せっく……」
絶句。
俺、そして隣にいた陽菜は、その露骨な表現、露骨なスケベ心に絶句するほかない。何言ってんだこいつ、さっさと帰れよ。そう、思わずにはいられない。
「ぶっちゃけ、一目惚れだったんだ。たのむ、俺の肉欲と付き合ってくれ」
今日一番の、不純な告白に俺と陽菜は顔を見合わせる。そして、どちらともなく頷きあうと、拓篤の方に振り返った。
「この服、授業参観に来て行くつもりで買ったんです」
「じゅ、授業……参観?」
予期せぬ単語に言葉を失う拓篤。孤児によく見受けられる、授業参観におけるトラウマを刺激されたとかそんな反応ではない。この時この場にそぐわない単語の出現に、戸惑っているらしい反応だ。
「はい。子供の授業参観が明日なので」
「え、それって……」
さすがに拓篤も気づいたのだろう。その思考を肯定するように、先んじて拓篤に告げる。
「わたし、人妻なので」
◇◆◇
お騒がせ男の拓篤がいなくなると場が急に静まり返る。まるで、忘れていた沈黙がどわっと騒がしく押し寄せてきたみたいだ。
場所をコーヒー・チェーン店「すなば」に移し、明るく活気に満ちた空気に囲まれながらも俺たちの席は沈黙している。
忘れていた沈黙——忘れていた、その話題が故の沈黙。
木戸せいらさん、そして、小蔵さんの娘の自死について、話す時がきたのだ。
さりとて、陽菜と向き合いの席で互いの顔も合わせず、それぞれが自分のドリンクに意識を投げる。カップの中に注がれた緑がかったフラペチーノを、カップ上部に浮かぶクリームと一緒くたに攪拌すると、緑の中に幾条かの白い条が差し込んだ。あたかも、カップを縛り上げるように渦を巻く白い条は昨日の恐怖を呼び覚ますようで、俺はストローをぐりぐりと強引に回すと緑と白を渾然一体にさせる。
陽菜を見ると、彼女も俺と同じような行動を取っていたので思わず苦笑してしまう。俺の乾いた笑みに気づいたのか、陽菜は意識的にそうし、いつしか夢中になっていたその行動を中断して顔を上げる。目が合うとどちらともなく笑いあった。からからと乾ききった笑みを交換した後、潤いを求めるようにストローを啜る。
陽菜がストローを力みながら啜ると、白がかったピンク色の水位がつうと上がっていき、口に届くと、やがてそれは陽菜の小さな悲鳴に変わった。
「ちめた」
昨日、楽器屋手前の休憩所で、アイスを食べながら見せてくれたあのしかめっ面にも違わぬ表情。その様子が可愛く思えてしまうのは、その後に聞いた、背筋が凍るような話と比べたら可愛いものだと分かっているからなのか。
「せいらさん、どうしよっか」
他人事のようだった。
自分でもそう感じてしまったのだから、陽菜からしてみるとほとほと他人事のように聞こえただろう。あるいは、それこそ冷たい奴だと思われたかもしれない。
「その後せいらちゃんと連絡取った?」
「取ってない」
陽菜と問いに短く返すと、また沈黙が居座る。
連絡を取ろうにもその手段を持たないし、手段があったとて、そうする図々しさを持たなかったろう。
「あたしは一応連絡手段は、あるんだけど」
言って、携帯電話を取り出す。手のひらサイズ大の薄い端末を左手で器用に持ち、右手を弾いたりなぞったりして画面を操作していく。
「はい」
という陽菜の合図があると、俺の携帯が短く鳴動した。通知と表示された文字をタップするとメッセージ・アプリが起動する。
メッセージ受信欄の一等上に新規受信メッセージが表示され、木戸せいらの連絡先、とレーベリングされ、電話番号とメッセージ・アプリのIDが本文として記載されていた。
「なにこれ」
そのメッセージ……つまりは、陽菜の意図をしかと受け取りつつも、訊ねてしまう唐変木な俺。
「見ればわかるでしょ、せいらちゃんの連絡先よ」
「これをどうしろと」
「那月から連絡しておいて」
「どうして俺から?」
その理由はいくつかあるかと思う。何も、せいらさんに連絡すること自体には大した難易性はない。徐々に心安くなってきたこともあって、人懐っこい木戸さんの声が、電話口から聞けることだろう。
問題は、その後。そのさやかな声を曇らせてしまうような内容、小蔵さんの正体、そして自殺のことを、打ち明けなくてはいけないのがとにかく気まずいのだ。
故に、陽菜はせいらさんへの連絡の手段を持ちつつもそれを用立てず、講じず、大義名分を用いて俺に丸投げをしようとしている。その大義名分とは、
「だって、あんた達リズム隊でしょ?」
「それは、ちょっと無理がある理屈だな……」
陽菜の思考における、最悪のアルゴリズムだった。自分がいま女装をしていることも忘れて、心底呆れたように呟く。
「ごめん……」
「いや、そんな、謝られても」
「ごめん……でも、こればっかりはほんと無理」
陽菜なら、ここで俺の弱みなどを盾に取ったりして無理やりにでも従わせていたはずだった。なのにそうしなかったのは、陽菜が弱みをみせるほどに、この件に関われない理由があるのだろうと考えた。
「わ、わかったよ」
弱みという強みを駆使され、俺は渋々、頷くことしかできない。
そうすることしか出来なかった、陽菜のことを考えながら、若干溶けてしまって水っぽくなってしまったフラペチーノを一息に飲み干す。冷たかったが、頭が痛くなってしまうほどのものではない。
むしろ俺のいま抱えている問題は、時間が経とうが一向に解けようがなさそうだし、頭が痛くなってしまいそうな内容だった。




