二章 気のせいだ(5)
高さ2メートル程度、幅と奥行きが同じく1.5メートル程度。
さて、この空間の体積はいくつでしょう。正解は苦しみは測れない、です。
人ひとりが活動限界であろう、その空間に押し込められて俺は苦々しさと圧迫感とを感じていた。
中学時代、女が男子トイレに入ってくるなと男子に責め立てられ、追い出されるでなくトイレの個室に閉じ込められたことがある。憐れむべき過去話である。
責め立てる理由がそれだったのなら、閉じ込めるのではなく追い出せばよかったのだ。なのにそうしなかった男子のことを、当時は天邪鬼、いや鬼と呼んだ。時代が流れて、心が広くなった俺はそいつらのことをツンデレと見なす。
だが、頭から水を被せられたのは今でも赦せない。
水を含み、皮膚ひ張り付く制服。濡れる髪。涙すら流され、物理的に、水に流せと迫られる。
「女に生まれ変わって出直してこい」
それが俺と学校生徒との決定的な隔絶の一言だった。
思い思いに小便のように罵声をひっかけ、満足げにトイレを出て行く。
俺はその場にうずくまって、泣いて、時間すら忘れて、辺りが真っ暗になって、警備員が鳴き声に気づいて駆けつけて救助してくれるまで、微動だにできなかった。
この空間にあって、そんな過去を思い出す。
俺のこの体験談に一寸でも哀れを覚えるなら、どうか、トイレの個室に屋根をつけられたい。
「マナ」
今後の教育委員会にささやかな願いを込めていると、この隔絶された空間の外から陽菜の癒しボイスが聞こえてきた。過去の悲しい思い出を忘れさせてくれるような、言はとても優しいが、残念ながら動までは優しくなかった。
ふと天井のない天井から水——ではなく、波のような襞が特徴的であるところの、スカートが降ってきた。折から天を仰いだところで、顔にぶわっとそれが覆いかぶさる。俺がよく知るひらりらでふりふりな造りではなく、黒くぴちっとした襞のない造りのもので、円筒状である以外はスカートなのかすら怪しい。
まさに、不気味の一言。
「ひゃあ?」
トラウマが祟って変な悲鳴が口を衝いてでた。試着室におかれましても今後、屋根問題が解決されることを願ってやまない……。
「月宮、大丈夫か! いま行く!」
「馬鹿、やめなさい、変態!」
隔絶されたこの空間の向こうで、拓篤と陽菜がコントめかしてわいわい楽しそうにしている。いいなー、俺もあの場に行きたい、
「お客様、店内ではお静かに。それから、商品の投擲はご遠慮ください」
「す、すみません……」
すると店員さんが出張ってきて、二人して切諫を食らっていた。訂正、あの場にいなくてよかった。
大型ショッピングモールの五階、婦人服専門店「よこしま」にて買い物中の俺ら。愛する流星のママになるため、授業参観に来て行く服を物色しているところだった。
「ひ、陽菜ちゃん。これはちょっと色っぽすぎるんじゃないかしら……」
降って来たスカートを改めて見てみると、身体のラインを物語ってしまっようなぱつぱつのタイトでミニな代物で、右ふとももあたりのスリットの開きが大きい。陽菜の好みなのか、黒のとてもコケティッシュな印象のタイトスカート。
「トップはこれで試してみて」
締め切られたカーテンを隙間からぬっとか細い腕が出現し、俺がまたぞろ悲鳴をあげてしまったのは言うまでもない。
「マナ、大丈夫か! いま行く!」
と、またも拓篤が勇んで試着室を覗こうとしたのも言うまでもない。ただその後に続くはずの陽菜の切諫はなく、代わりに「ごすっ」という鈍い打撃音が響いたことは、ここに報告しておく。
陽菜のマドハンドの如き腕から白のこれまた身体のラインが目立ちそうなワイシャツ、黒のジャケットを受け取る。俺がいま着ている陽菜のブレザーのワイシャツのようにキツくて身体のラインが出てしまうのではなく、身体のラインが強調されるように、あるいは脚色されるように計算・設計されたデザインのワイシャツだ。そしてジャケットも同様。
それらを試着してみると、
「キツくはない……けど」
出るとこでて、あっさり痴漢とかに遭い、出るとこでるレベルの艶かしさ。盛った胸元もさることながら、脚元の肉付きもほどよく、見事なまでの曲線美を描いている。このような格好をして、初めて自分のくびれの活路を理解したかもしれない。
カーテンをばさりと開いて、二人にお目見えすると、拓篤がほう、と桃色めいたため息を漏らした。
「月宮、就活生みたいな服装だな。だがエロすぎる、就活はそう甘くないぞ! とはいえ、そんなエロボディにうってつけの職場がある——俺んところに永久就職しねえか?」
拓篤のところって、彼の下半身ですよね。ぶん殴ってやろうかと思ったけどその頭にはすでに、大きなたん瘤があった。
「結構いいじゃない。出来るママって感じ」
陽菜は自らのコーディネートに満足したのかさっきから俺の姿を見てうんうん頷いている。ほんと、デキるママって感じ、しますよね……。拓篤がまずその一番槍を突き立てようとしちゃうくらい。
「わたしの希望としてはもっと落ち着いた感じのが……」
満足げな二人におそるおそる具申すると、拓篤は縋る子供のような態度、陽菜は愚図ついた子供のような態度をそれぞれ示した。
「やだー、月宮、エッチを前提にその服を着てください!オナシャス!」
「あたしの完璧なコンシェルジュにケチつけようっての、いい度胸じゃない、オモテにでろー、去勢してやる!」
二人を宥めすかしながら、また現れた店員に注意されながら、ママって大変なんだなと実感した。
「わかったから、静かに!」
仕方なくこの、身につけた服一式の購入を決め、試着を解くのも面倒だったので着たまま会計。陽菜の制服は「よこしま」の買い物袋に入れてもらった。
◇◆◇
「一目見たときから好きでした!」
店を出てからかれこれ15を数える。
さて、この数字は何を指すでしょう。正解は愛は数字ではない、です。
さきほどの陽菜の制服よりも幾分かゆったりとした圧迫感ではあるものの、先にも増して視線的な圧迫感が強くなっていた。視線が熱い。
ボディラインがくっきりと強調され、我が事と思うと居たたまれなくなる。白のワイシャツを覆い隠すようにしてタイトな黒のジャケット、黒のタイトスカート、黒のストッキング。もれなく、太陽の熱を、男の視線を集めるものであり、タイト故にぴちっと肌にくっついているので余計に熱を逃がさないようだった。
俺は折り目正しくその初めて会う男性にはんなり笑顔を向けると、横にいる拓篤の腕に抱きつき、断りの文句を申し渡した。
「わたし、人妻なので」
すると勝てないと察したのか男はがっくりと項垂れ、悄々と道を引き返していった。
ちょっと申し訳なかったが、一目惚れのくせにカッコつけて、一目見たときから好きでしたと言う男性は信用ならない。それってつまり、自分はめっちゃ惚れやすい腫れやすい人種なんですと告白しているようなものだ。こういうタイプは一度痛い目を見て、大きな痣でも作らないと学習しない。ちょうど、隣にいる頭たん瘤の拓篤みたいに。
「拓篤君、ありがとう」
お礼を言って離れると、拓篤は酒でも呷ったように陶然としながら問題ないと頷いた。俺のこの服装の魅力にノックアウトされる寸前のようだ。もうこの夫婦ネタを15回は繰り返していた。
「大好評じゃないの、マナ」
「そ、そうね」
いつもなら返していたであろう皮肉を飲み込んで、作られた笑顔で陽菜を見る。陽菜とて鈍感ではないので、いつも違う態度の俺に違和感、そして罪悪感を感じてはいるのだろう。
「でも、綺麗なのは事実だから」
嘘を知らなそうな曇りなき眼で俺の姿を認め、嘘を言っことがないような唇がそう言った。
「そうね、陽菜よりも綺麗だと思う」
気恥ずかしかったので、適当にそう言い返すと、陽菜ははっと笑った。
「あたしは可愛さなんかで自分を売ってないのよ。ま、マナ相手だろうが負けるつもりなんてさらさらないけど」
「わたしもそう思う」
純粋にそう言うと、陽菜は頰を赤らめる。アイドル時代、そんなことは言われ慣れているだろうに。
とはいえ、俺だって可愛さなんかで自分を売るつもりは……あるか。可愛さを売らないと男ども虜にできない。女どもの鼻を明かせられない。
「なのにさっきの男、あたしのことマナと拓篤の子供だと思ってたでしょう絶対!」
心底悔しそうに陽菜は地団駄を踏む。それも含め、陽菜の魅力なんだと思った。




