二章 気のせいだ(4)
四月の陽光がかっと差し込んでいる。
眩しさに目を細めながら手のひらで日傘を作って額に充てると、なんとかその眩しさは軽減された。
すると、銀ノ河市の街並みが一望のうちに入ってきて、喧騒がぶわっと耳の中に浮かんでくる。林立するビル群、間断なく行き交う自動車、去来する人々、明滅する青信号。歩行者の信号には黄色の表示はなく、代わりに、黄色いラッパが警告音を鳴らしている。急いで横断歩道を渡ろうとする者、諦めて立ち止まる者、俺はその後者だった。
駅周辺とあって、人と建物とで栄えるその様相は都心の街並みを想像させる。もっとも、都心は、これよりもさらに繁栄を極めているのだろう。
いたるところから、人が流れ、入り乱れ、離合し集散するさまは、見ていてくらくらする。
サンバイザーの手のひらをそのままにさらにきょろきょろと辺りを見渡していると、同じく信号待ちの男子一団が、こちらを指差しているのが見えた。俺の学校の制服で、ネクタイの色を見るに俺と同学年だということがわかる。ブレザーの上着を省き、ワイシャツの上に学校指定の紺のセーターを着こなし、肩には白のスポーツバックを提げた男子生徒たち。部活帰りか、一様にそんな格好をしている。
「見て、あの金髪の子。めっちゃ綺麗くね?」
「あれ、俺らとおんなじ学校だよな?」
「しかもあれじゃん、俺らと同じ学年くね?」
「よし、お前ら手出すなよ。俺が行く」
彼らの示す情報が、すべて俺であることを示していた。思わず額にかざしておいた手のひらで目元を隠す。
もっとも、これは金髪ではなく亜麻色だし、ちみたちとは身分の違う保健室登校者だけれど、うわー、俺のことだよなー畜生と予感するには十分すぎる情報。だいたい頭髪染色が一切禁止されている俺の学校において、こんな亜麻色の髪がまかり通るはずがない。
どうでもいいけど彼らの語尾にある「くね」というのはそういう持病なんですかね。くねくねしてるというか、なよなよしてるというか、軟派な人たちなんだろうな、とは思う。
「ねぇ、キミ」
やはりか、そのうち一人が、こちらににじり寄ってきた。
黒い色に太陽が群がるように黒の色っぽいストッキングには男どもが群がってくるのか。つまり、太陽=男という方程式、三段論法から答えが得られるので、要するに、せいらさんは男になれば良いのだと考えました。嘘ですごめんなさい。
緊張と戸惑いで声が出せない俺に代わって、そのナンパの声を、声の主ごと圧殺してしまいそうな咆吼が俺の隣から轟いた。その男は月満つれば現れる、伝説の狼男を想起させる。いや、狼王か。
「がるるるる——‼︎」
字面にすると可愛らしいが、実際に居合わせると、声を掛けてきたその男子生徒が哀れに思えてしまうほどに、その咆哮には兇悪な響きを孕んでいる。唯でさえ切れ長でつり上がった眼がその、男子生徒のハートを抉り、ナンパ・ガイは恐怖に顔を引きつらせる他ない。いや、お前はすでにしんでいる。
「ひっ、……ごっ、ごめんなさぁーい!」
尻尾を巻いて逃げて行くガイ。その痴態は、狼に恐れをなした仔犬だ。ちょっとだげ可哀想な気持ちになる。もし俺が正真正銘、女の子だったならナンパに乗じてそのままデート、と銘打ってたくさんご馳走してもらうのに。今の俺は、復讐に燃えた美少女アイドル月宮マナちゃんなのだからして。
とりあえず、庇ってくれた隣の狼さんにお礼を言わなくては。凶暴化してまで、マナのことを庇おうとしてくれた彼の心意気はジェントルマンそのもので、もし俺が正真正銘、女の子だったなら、という妄想をさらに加速させる。絶対結婚してる。
「ありがとうございます、拓篤きゅん……」
いざ向かい合って、近い距離で拓篤に思いの丈を伝えるのは恥ずかしくて、我ながら可愛らしく噛んでしまった。
「ぶっ……」
それは俺の失態に拓篤が噴き出してしまったのではなく、拓篤が純粋に鼻血を噴き出してしまった音。
「きゃ?」
拓篤から赤い飛沫を浴びせられ、顔をはじめ、手脚や制服まで血で汚されてしまった。冷たいのに、ぬめりと温かみを感じられるのが、不気味な感覚を加速させる。
「す、すまん……!」
拓篤は片手で鼻を覆いながら、拭うようにして俺の頰や胸元のワイシャツなど血の目立つところを指を撫で付けた。俺がもし女だったら拓篤をいてこましてたかもしれない。
「だ、大丈夫ですから。ほら信号、青ですからっ」
いい塩梅に信号が青に変わり、俺はいつまでも合理的セクハラを続ける拓篤の胸板を小突いて注意を促す。
制服に付着した血痕が黒ずみ、日光、男性の目、人々の目を集める前に、この場から立ち去りたかった。
「でも、着替えねえと」
「大丈夫ですから。服、買いに行くんですから」
申し訳なさからかおたおたした拓篤の手を引いて、俺たちは雑糅した横断歩道を縫って渡った。
◇◆◇
待ち合わせの場所——天川と呼ばれる川は、通称ミルキーウェイと呼び親しまれ、町の中心を貫き、道一つ外れた喧騒から切り離されているような、えも言われぬ風光明媚さを誇る。何処より流れ、行くはあまねき水路。淀みなく流れては余情のみを湛えていく。
水面が陽光を返すときらきらと白銀に瞬き、光の粒子を浮かべ、やがて溶ける。光とは水溶性だ、と言わんばかりに人々の視界や思考をも幻惑するのだ。
川縁の道には等間隔でベンチが設えられ、ベンチの背後には梅の木がそれぞれ植わっている。標高ゆえか地面よりもだいぶ低いところを流れる天川の縁には安全上のために堅牢で、されども、絢爛なあしらいが施された柵が隙間なく立ち並んでいた。その柵を越えてか、天川の湖面にはぽつぽつと梅の花がたゆたっている。
川縁の道のなかごろで、梅の花にあしらえるように、ベンチに咲く花があった。
それはベンチに座って、陽の光をあびて眠っているようにも、あるいは太陽に祈りを捧げているようにも見える。向日葵のような彼女は、ベンチの背もたれに首を預け、近づくと川のせせらぎに混じって幽かにその寝息が聞こえてきた。
無防備なのに近寄りがたいのは、胸元で組まれた祈るような手が故だろうか。脚は無作為にぷらんと投げ出され、その姿勢も相まってか、捲り上がったスカートがその艶かしい太ももを露わにしていた。
先日、変装せずにあんなに居心地悪い思いをしたのに、今日も今日とて宇佐美陽菜は宇佐美陽菜のままで、逃げも隠れもしない。いや、もうちょっと女の子として危機感をもってほしい。もし、俺が男だったら見境なく襲ってる。いや、もしも何も俺は男だった。
「陽菜」
耳元で小さく囁くと、むにゃりと甘えた声音がその音の届く限りの空間を甘やかにする。かわいい。
「おい、陽菜。起きねえと乳揉むぞ、あ、乳ねえから起きねえのか」
同じく耳元で拓篤がそう挑発すると、彼の顔面に陽菜の祈るような手から痛烈なバックブローが繰り出された。それを熟練の喧嘩の勘で避け、その腕を掴んで拓篤は起きしなの陽菜に耳打ちした。
「おはよう、姫」
その言葉に、顔を赤くしてまうのは陽菜ではなくて俺。陽菜は渾身のバックブローを躱されたことに、ちっと舌打ちした。拓篤の気障ったらしい姫、にはまったく関心がないらしい。
「てか、なんであんたたち一緒にいるのよ」
伸びをし、捲り上がったスカートをかき合わせ、居住まいを正しながら陽菜が問いかけてきた。
「た、拓篤くんがどうしても、ご一緒したいって、言うものだから……」
遠慮がちに陽菜に言うと、怪訝に顔をしかめて俺を見る。視線の先には俺の胸元があった。
「マナ、その血はなに。殺ったの?」
「ち、違ぁあう!」
やったのか、というアンビギュイティな発言を陽菜の思惑通りに捉え、マナっぽくファルセットを効かせた声音でそれを真っ向否定した。