二章 気のせいだ(3)
その空白の時間は、この場の二人の頭を真っ白にした。
真っ白な頭は、良からぬ妄想をたやすく受け容れる。
扉の前で、拓篤はしばし立ち尽くした。手に持つベースからは一本、ベースにおいてもっとも太い弦とされる4弦が切れ、ブリッジからダラーンと放り出されている。もう片手にはビニール袋が携えられており、おもんみればそれが、新品の弦であることが理解できる。ビニール袋の中には他に飲料水の缶が数本、スナック菓子のパッケージが一個、ベース弦と一緒くたに入っていた。
「な、何か御用で?」
ベッド横、ローテーブルのすぐ傍で、俺は何でもないように振る舞ってみせる。引きつってはいるものの、現状になしうる最高の笑顔を向けてやった。
ややあって。俺の声を聞いてもなお、彼から誰何の声は上がらない。
大きな上背、筋骨隆々の逞しい体つき、精悍な顔つき。切れ長で、男らしい目元、キリッとした眉、しゅっとした鼻梁、良し悪しのわからないおそらく平均的な唇。顎には休日からか、無精髭がちょとんと目立ち、少しだけ清潔感を損なってはいる。
とはいえ、「日本人、理想の男性」と検索すれば彼の姿が表示されるであろう、なにがしかがしが憧れる魅力は健在だった。
拓篤は俺の姿を見つめ、その魅力を台無しにしてしまうような、にまあっ、と下卑た笑みを向ける。無言でベースをドアに立てかけると、ビニール袋に手を突っ込んではベースの弦のパッケージを取り出した。びりびりっとその場でパッケージを破って開封し、中から4弦を引っ張り出すと、残りの弦はビニール袋に突っ込んでそれごと床に放り捨てた。彼の手にはベースの4弦のみがある。
「た、拓篤さん?」
拓篤のその奇異な行動に、疑問を、疑惑を覚えた俺は、床に座ったままお尻を動かしてジリジリと後退して拓篤との距離を開こうと努力する。
「会いたかったぜ、マナ」
その言葉が、俺の全身を舐め回した。えも言われぬ感覚に見舞われる胸元を庇うようにして自身を抱く。
「どうして私のことを?」
「思い出したんだよ。電気が走ったようにびびっと来たね」
「で、電気……」
拓篤は思い出したと言う。そして、電気のところを強調して言うあたりスタンガンのことも、思い出したと見える。ぞくっと恐怖を感じた俺はさらに距離を開こうと後退を試みるが、柔らかなベッドの弾力が背中をやんわりと押し返した。やんわりとした拒絶を物にされるとは思いだにしなかった。
これはたまらないと、かばっと立ち上がる。びりびりと足が痺れを発した。
「おら、そこで寝んねしな」
すると、拓篤は俺のすぐ至近にまで迫っており、俺をひょいと押し倒してベッドに沈ませると、彼は馬乗りになって俺の両腕をバンザイの要領で押さえつけ、手に持っていた弦で俺の腕を束ねて縛り付けた。俺の胸元がいやに自然に揺れる。
「っ、痛い」
その苦悶の声を拓篤は聞き届けない。
「なんであん時、俺の告白断った」
不意に質問を浴びせてきた。
——あの時。拓篤と一緒に屋敷から帰ってきた折、ちょうどこんな感じの体勢で、「好きだぜ」と告白された。でもってその答えとして、拓篤にスタンガンの電撃を浴びせる直前、
「ごめんね」と言い残したのだった。それを告白の返事と受け取っているのだろう。
「そんなの……俺、男だし」
無理な体勢のまま、やっとのことでそれを言うと、拓篤はくつくつと小さく笑う。それは呆れているようにも、諦観しているようにも見える。俺、変なこと言っただろうか?
「これの、どこが男だって?」
すると、拓篤はなんと、俺のブレザーの上着を、ボタンを引きちぎりながら剥ぎ、その下の白いワイシャツも同じようにした。
「ひ——」
不随意に俺の口から漏れる悲鳴、それは拓篤のその所業自体に対してではない。白いワイシャツの下、白い下着に覆われたるは、白磁のような胸。本物の胸だったからだ。リアル・オッパイ。その形も相まって、胸元に白磁が二つあるような感じだった。
「な、まるで白磁みてえだろ?」
図らずも、拓篤が俺と同じような意見を言った。彼が人差し指でそのフォルムをつっとなぞると、男ではあり得ない刺激が俺の全身を駆け巡る。それはさながら電気で、スタンガンの仕返しと言わんばかりだ。
「何すんの!」
拓篤に抗議の声を上げると、拓篤はけらけらと反省のない笑いを上げ、白磁を隠したる白い覆いに手を掛ける。いやな予感がすると同時、それは悲鳴となって俺の口から溢れ出た。
「やだ!」
「陶器ってのは芸術だ、芸術とは見られることで初めて、その作者の仕事が生きる。こんな薄汚えボロ布なんぞ纏って、みすぼらしいとは思わねえか?」
「思わない!」
それらしさ満載の知った風なことを言っても、それは下卑た欲望の隠れ蓑に過ぎない。
「いいか。マナ、お前のカラダは神とやらが創った作品なんだ。つまりお前ののカラダは、神の仕事、御業にも他なんねえ。するとどうだ、神の御業——神秘を拝みたくなる俺の飽くなき欲望は正しいことだと思わねえか?」
「思わない!」
拓篤は自らの熱弁が思わない! の一言で却下され、短く舌打ちをした。
「ならば白状しよう。俺は巨乳に目がない! 巨乳ちゃんが大好きだ! マナ、お前が大好きだ! お前のが見たい!」
彼が巨乳好きだ、ということは彼の所蔵するエロ本の傾向から察してはいた。巨乳に目がないことも、今まさに、盲目的な拓篤を見れば一目瞭然。
「うるさい。その手を退けて!」
純白の下着を摘んだ拓篤の指のことを言うと、その通り、拓篤は手を引っ込める。下着ごと。いつの間にホックを外したのか、一切の抵抗もなく拓篤の手に攫われていった。
露わになる白磁。どれだけ似せようが贋作ではこのフォルムは保てない。本物だった。
「————っ」
もう声も出ない。せいぜいできるのは、怒りと羞恥で顔を赤くすることのみ。両腕はまとめて弦で拘束されているので、相当の痛みを覚悟しなければ動かすこともできない。
それから理由はわからないけど涙が一筋流れ、姿勢もあってか涙は耳元に流れていった。
客観的にこの状況を見れば、まさに強姦の様相に違いない。嫌がる女の制服を無理やり脱がし、下着を掻っさらい、視姦する様は、強姦に他ならない。そして、嫌がる女……俺は——私は、女だった。
「もう、抵抗しねえのか?」
問われて私は首を振る。抵抗すれば鋭い痛みがある。抵抗しなければ未知の快楽が待っている、かもしれない。どちらにせよ拓篤はご満悦。
痛みと、快楽。
選ぶなら、私は——
「痛いのはいや——やさしく、して……」
「おう。じゃ、服脱げ」
服を脱ぐもなにももう、ほとんどが剥がれている。
「……ああもう、服ぼろぼろ。これじゃ服も買いに行けないよ」
皺だらけのブレザー、千切れたボタンが痛々しいワイシャツを示すと、拓篤は悪びれもなく肩をすくめた。制服なんか見てない、というか胸ばっかり見てくる。
「なんだ、服買いに行く予定だったのか。どんな服だ?」
「ママっぽい服。流ちゃんの授業参観で着て行くの。でも、これじゃもう服だって買いに行けないよ。ママになれないよ」
「心配すんな、俺が今からお前をママにしてやるよ」
すると赤子のように、白磁に顔を埋める拓篤。タブララサのような、白紙のような、白磁に唾液を塗りたくると、私の口から色のある声がだだ漏れた。
「〜〜〜〜〜〜〜っ‼︎」
あまりの生々しさに、そんな良からぬ妄想を打ち切ってしまうほどだった。
◇◆◇
あり得ない妄想だった。信じられない。
我に返り、状況は変わらずついてないけど、男として大切なものが付いていたことが幸福だった。
どのくらいの空白だったのかはわからない。が、拓篤も俺と同じように、妄想を展開していたのかもしれない。
拓篤は俺を見ると、ぽかーんと口を開いたまま放心していた。手に持ったベースが今にも滑り落ちそう。
彼の視線の先には、陽菜をも唸らせるくらいの容色を持った少女が、ベッド脇にあるローテーブルの手前にちょこんと座っているのだ。まぁ実際は危機感から身動きとれず、床にへたりこんでいるだけのことだが。
朝もそこそこ早い頃、よく知る男の部屋で、よく知らない少女がベッドの傍で待機している。TPOをことごとく無視したこの現状。
それから、拓篤はたっぷり十秒ほど静止画を演じると、ふと意識が戻ってきたのか目を白黒させ、顔を赤らめて言い放った。
「や、やったのか?」
「違ぁあう!」
やったのか、というアンビギュイティな発言を拓篤の思惑通りに捉え、マナっぽくファルセットを効かせた声音でそれを真っ向否定した。拓篤はその声に驚くと大きく退き、反動で持っていたベースが壁にぶつかって、ビョーンと弦が弾けるような音を響かせる。拓篤の拍子抜けした表情に即した音色で、状況に即した音色を操る、という点においては彼はプロのベーシストの仕事をこなしたことに……ならなくはないか。
拓篤はベースをそっとドアの面に立てかけると、躊躇いなく部屋に入り込んでそのまま俺の傍に寄ってくる。
「ひゃい」
その一路接近に、俺はさっきの妄想の拓篤を思い出して、思わず変な声を上げてしまった。やだ、拓篤のママにも、拓篤の子供のママにもなりたくない。
「なんで那月の部屋に月宮、……だっけ? お前がいるんだよ?」
「ひ、ひゃい⁉︎」
拓篤のその発言は、拓篤がすでにマナと面識があることを示していた。そして、ひゃい⁉︎ と変な声を漏らしてしまうのは俺がとても動揺していることを示している。
しかし何故だ、拓篤は屋敷での記憶を失っているはず。この姿としては今が初対面のはず……。まさか、あのときの記憶が蘇って、今から妄想の続きを……⁉︎ やだやだ、ママになんてなりたくない!
「お前、月宮マナ……だったよな。あの、汚物カレーんときの」
「——え」
……そうだった。ルナティックな流星にカレーをあーんしてやる最中、拓篤と一度出くわしているんだった。そのときの記憶があって、屋敷での記憶が綺麗さっぱり失ってしまうのか。俺に都合が良すぎる世界だな。
拓篤はローテーブル脇の座布団に腰掛け、俺の対面に陣取った。
「あれ? 違ったか?」
「ち、違いませんけど」
特に、否定する理由はないので拓篤の話に乗っておく。
「で、その月宮マナがなんでここに?」
「え、えっとー、それはー……」
もっともらしい理由を考えながら俺は席を立つ。拓篤は、手に持ったビニール袋からスナック菓子のパッケージを取り出すと開封してテーブルに広げた。
「陽菜と待ち合わせか? そういや、那月どこいったんだろうな」
スナックをかじる音に混じって、拓篤の疑問の声が砕けた感じで響いた。
「さ、さあ?」
俺はすっとぼけながら出口ドアに近づいて、ベース・ギターを拾うと元の席に戻る。あのまま逃亡という選択肢も、なくはなかったが、俺の鈍足で拓篤から逃げきれるとも思わない。スカートを穿いて、俊敏性も落ちていることだろう。
「そ、それより、ベースの弦が切れたってことらしいですけど」
「おう、そだった」
なんとか話題を逸らそうと、ベースを掲げると、拓篤はまんまと流されてくれた。お菓子を取り出したビニール袋から、四角くて平べったいパッケージを取り出す。ベース・ギター弦、っぽい外来語が書かれており、おそらく弦なのだろう。俺の妄想とは異なり、4弦のバラ売りバージョンだ。
「また4弦なんですね……」
「……また、4弦?」
どうやら、俺は口を滑らせてしまったらしい。拓篤が4弦ブレーカーだってことは那月と陽菜、それからせいらさんだけが知り得る事実だった。「また」、なんて俺にあるまじき失言。
「マナはお馬鹿だなあ、これは1弦だぜ」
「え、あ、そうですか……」
拓篤が馬鹿で助かった。
「マナ、弦交換、できんのか?」
「ま、まあ一応」
「すげえな、教えてくれ!」
すごい子供みたいな眼差しだった。ちょっとかわいい。
こうして母性本能が刺激されるあたり、俺の流星の母役は適任だったかもしれない。たださっきの妄想が頭の中に蘇ってきて、まともに拓篤の顔を見られなかったけども。
「はいはい、じゃあまずボディのクリーニングから始めましょうね〜」
そうして、ベースをピカピカにクリーニングして、弦を張り替えて、拓篤が満足する頃には、陽菜との約束の時間が近づいていた。
「私、そろそろ行かないと……」
「ここで待ち合わせてんじゃないのか?」
「い、いえ。さっきメールが着て、待ち合わせ場所を変えたいそうで……」
適当に理由でっち上げると、お馬鹿な拓篤はまんまと騙された。
「そうか。陽菜のこと、頼むな」
馬鹿ではあるが、いい兄ちゃんだな、とは思った。




