二章 気のせいだ(1)
気づくと自宅の門の前にいた。
四月中旬とあり、徐々に暖の気配は濃くなっているものの夜の空気はいささか冷たさを帯びる。一陣の風が首筋を撫でるとぞくりと怖気が走り、その風の冷たさよりも別の悪寒が痛切に感ぜられた。
すると何の気なしに首筋にロープが巻きついていないかと、おそるおそる手をやる。そしてすりすりと滑りのよい肌に、ようやくの安堵を得る。それを陽菜と別れ、帰りすがら何度か繰り返しているうちに家に着いていた、それだけのことだった。
何の気なしに、という前置きは嘘になる。確かに理由はあった。
顔も見たことがない人の死。自殺。
生きていてこれまで、見も知らぬ人間の死など、ニュースで何度も耳にしてきたが一度だって真剣に受け止めたことはなく、ただの情報としてでしか捉えたことはなかった。近い存在、すなわち両親の死であれ、かくも放心させる要因にはなり得なかった。
俺の両親は事故死であり、その担任——小蔵先生は自殺だったから、こんなにも胸糞悪いのだろうか。
その小蔵先生のことを闇討ちして、幼稚な考えを改めさせようと一瞬でも思い至った自分がいる故、こんなにも後腐れがあるのか。
結局、小蔵父からは、娘である小蔵先生の自殺の原因は聞けずじまいだった。であるが自殺推定時間が、せいらさんにトラウマを植え付けたすぐ後である事から、自責の念に動かされてのことだとは思う。きっと、突発的な行動だったんだと思う。
同じ突発的でも両親の事故死とは、まるで捉え方が違った。両親の事故死は何もかも突然で、顛末も、両親の痛みも、俺の悲しみも、状況の遷移も、何もかもが一瞬のことだった故、短編ドラマを漫然と眺めているようだった。まぁ両親の死には直接立ち会っていないので、比較すること自体、おかしな話なのだが。
いや、それは今回の自殺にも言えることか。
なのにどうして今回は、こんなにも生々しく脳裏にその想像でしかない光景が浮かんで、離れないのか。
そのとき。
「なーつき」
その、後ろからの声だけでも失神レベルで驚いたのに、声の主は俺を後ろから、負ぶさるようにして抱きつき、その逞しい腕が俺の首元をぎゅっと優しく圧迫した。優しかったが、俺の脳はそんなに優しく出来てはいない。
「ひっ——ひぎゃあああああ」
本能的に死の危険を感じて、叫ぶと同時、その骨太な肉に齧りついた。否、噛み付いた。
「ひっ——ひぎゃあああああ」
俺とまったく同じリアクションをするのは、この施設の住人、最年長、親友の拓篤だ。
つい先日この腕に、殺してくれと哀願したんだっけ。拓篤はそれを覚えていないけど、そう、こうして小蔵先生のように、首を……、
「……離せ」
恐怖に駆られて俺が冷たくそう言うと、ぴくっと反射的に拓篤は腕を引っ込めた。そして、また言い過ぎたと俺は自覚し、拓篤のほうを振り返ると。
「す、すまん……」
と、しゅんとして拓篤が詫びた。彼の利きである右腕にはくっきりと俺の歯型が残っている。こっちが申し訳なくなる。
「その……こちらこそ、ごめん」
するとお互い頭を下げて合う、という可笑しな状況と相成った。側から見たら、会社から仕事だけでなく習慣まで持ち帰ってしまったサラリーマンの構図だろう。上司に胡麻すり、客先でカミカミ、カミさんにたじたじのサラリーマンの皆さん、毎日お仕事お疲れ様です。
「出掛けてたのか?」
「あ、うん。陽菜たちと」
「あーね」
そういう拓篤も、お出掛けだったらしい。いつもの、無地ティーにゆとりのあるデニムのラフなスタイル。相変わらずファッションには無頓着らしい。
と思うのは早計だった。先んじて自宅、施設の門をくぐる拓篤の背中には、カメの甲羅を象った可愛らしいリュックがある。可愛らしいが、拓篤がわざわざ買うような系統の物ではなさそう。彼女か誰かの、プレゼントだろうか?
不思議に思い、そのリュックをじーっと見ていると、ふと拓篤は振り返って俺の視線に気づき、そのリュックの解説をはじめる。
「いいだろ、へへ! 今日UFOキャッチャーで当てた」
「へー、そうなの」
「コイツが難物でよ、箸にも棒にもひっかからねぇのなんの。気づきゃあ三千円使ってたんだぜ」
「へー、三千円かぁー……」
妙に聞き覚えのある価格だった。思い出したように俺は右手に握られたよく分からない店のロゴが入った買い物袋を確認する。中には確か、四千円のところ三千円にオマケしてもらったキャップ、樋口一葉さんの代わりとしては趣味が悪すぎるパーカー、野口さん二人ぶんとかふざけとんのかと言いたくなるようなパーリーグラサン、が入っているはずだ。
「お、その店知ってるぜ。俺のダチもそこでよく買ってるわ」
拓篤はこの複雑怪奇な服飾品についても詳しそうだ。そういや取り巻きはラッパーだったような。
「じゃあ拓篤、これ、使う? 何ならあげるけど」
言って差し出すと拓篤はきょとんと受け取って、中を革める。
「このキャップいいな! こっちのグラサンは、ちと趣味悪いけど。で、このパーカーは俺には小せえな。てな訳でこのキャップを貰うかな、いいのか本当に?」
「貰ってくれるとこっちも助かるよ」
袋から器用に取っ替え引っ替えして実際に試着してみたりなんかして、最終的にキャップのみが拓篤のもとへ嫁ぐことになった。バイバイ キャップ
「あんがとさん。なら俺は、これをやるぜ」
お礼に拓篤がくれてよこしたのは、三千円と価格帯がほぼ一緒な代物、UFOキャッチャーの景品として当てたという、亀の甲羅を模したリュックサックだ。
「いいの?」
と俺が言うと拓篤はおうと言って、惜しげなくそれを差し出してきた。
「ありがとー」
拓篤はその精悍なフェイスを新たなキャップで飾り、俺はこの矮軀にお似合いな甲羅リュックを背負う。
亀の甲羅で、亀甲的な縛りと、あらゆる面で嫌なことを思い出したけど、今は忘れよう。今はとても良い時間だ。
もっとも、そんなことで忘れられるならば、苦労はしないのだが。
今日の出来事のせいで、思考がすでに雁字搦めになっていた。
◇◆◇
エプロンを着け、手を洗い、台所に立って、食材を切っていると気分が落ち着く。割り切れないこの思いを、すぱりと包丁で切断している気分になるからだ。今日に限って夕食当番でよかったと実感する。
今晩のメニューはすき焼き。木戸父から娘の面倒を見てもらっているお礼にと、牛リブロースを頂いたのだ。無論、最高級の松坂牛によるリブロースである。
スーパーなどでよく見かける、発泡スチロールの容器ではなく、格調高そうな木箱に入っているところからも松坂牛の偉大さが伝わってくる。木箱を開けると蓋の裏部分に名刺サイズの紙が貼り付けられており、このリブロースを捌いたと思しき方の名前が記載されていた。
そして、お目見えのリブロース。今まで見た肉とは全くの別物だった。
「まさか、施設暮らしでこんなの食えるとはな」
そばに控える拓篤が生唾をごっくんした。進路関係で忙しいだろうに最高級の肉の調理とあって、万難を排して見学に訪れたようだ。
こんな時はいつも群がって騒がしくする星夜と星斗は、今日は溜まった宿題を片付けるのに忙しいらしい。故にこの場はしんと緊張に静まり返り、いやが上にも格式を高めるのだ。
「だねー……」
俺も牛リブロースの威容に恍惚として、ため息まじりに同調する。
見よ、このさしを入り方を。星の雨の如く、あるいは星の瞬きの如く刻まれたそれは、まさに星降りの霜降り。
その紋様はいかに優れた数学者でも解き明かすこと叶わず。幾何学や黄金比すらをも嘲笑う。
生命の奇跡が織り成した、神の仕業に他ならない。
神の味、松坂牛を俺らは食い、そして神になる——。
「生でも食えそうだな」
「だねー……。あ、でも駄目」
つまみ食いする気満々の拓篤を釘刺しておき、すき焼きのレシピを今一度思い起こす。何せ、生涯に一度あるかの松坂牛すき焼きだ。素材が良くても、調理を誤ればただの黒焦げにだってなりうる。
まずは、割り下の材料を小鍋に入れて火にかける。割り下は俺自らが配合した特製のものだ。すき焼きってのは割り下の良し悪しで全てが決まる、といっても過言ではない。
「那月、こっちは使わんのか?」
拓篤はすき焼き鍋の取っ手を指でつまむと、人差し指を軸にくるくると回して遊んでいる。にしても、強じんな人差し指だな。並の人間がそれをやったら、鍋の目方に遠心力が手伝って指を折ってしまいかねないというのに。
「あ、それはこっち」
俺の指示のもと、割り下を煮立てている小鍋の隣のコンロにすき焼き鍋を設置する拓篤。俺はすき焼き鍋を火にかけ、鍋に牛脂を乗せる。
続いて拓篤は率先して、俺がきっき切っておいた葱をすき焼き鍋に敷き詰めた。ジュウッと芳しい音を立てて葱が鍋中で踊る踊る。匂い立つばかりの踊り姿だ。
そして牛肉が今まさに、俺の手から鍋中に加わろうとしていた。緊張と興奮とが滾らんとするその一瞬。
「なっちゃーん」
ジュ……という繊細かつ、滾るオノマトペが、野太い声に遮られた。
「クソがッ‼︎」
その感動必至の音を聞き逃した拓篤は、ダンと調理台を叩くと、野太い声の主である黒先白行院長を睨みつける。
するとひゃう、と野太い声に相応しくない女々しい口調、一言で言うと気持ち悪い声音を吐いて、黒先院長は後ずさった。おそらく腕っぷしでは拓篤にも負けないだろうに、そのオネエの性質上、イケメン相手では乙女となる黒先院長は、拓篤には決して強く出られない。そして、かくも気持ち悪い態度になるのだ。
「シラユキちゃん、何?」
幾分か哀れに思った俺は彼推奨の呼び方で呼んでやると、シラユキちゃんはポンと手を打った。
「そうそう。なっちゃんに用があって。悪いんだけど、ちょっとこっち来てくれるかしら?」
「み、ミー?」
自らを指差して問うと、シラユキちゃんはウフフ、と不気味な笑みを浮かべながら頷いた。
これからすき焼きが、完成へとひた走る良いところなのに。俺が、持っていたヘラを拓篤に託すと、拓篤は力強く頷いた。
「任せな。俺がすき焼きの何たるかを示してやるぜ」
「任せたから」
頼もしい力強さ故、彼に任せて俺はシラユキちゃんとともにキッチンを後にした。
◇◆◇
シラユキちゃんの書斎にて、シラユキちゃんはデスクに一枚のプリントを置いた。くしゃくしゃに皺が刻まれた、藁半紙の印刷物だった。藁半紙なので遠くからでは暗くて読みづらく、俺はその内容を確認すべく藁半紙を覗き込んだ。
「授業参観のお知らせ」
確認ついでに読み上げる俺。シラユキちゃんがうん、と頷いた。
「流ちゃんの部屋のゴミ箱に入ってたの」
「ああ……」
流星の気持ちが分かってしまった。
大抵学校側は、俺たちみたいな孤児事情には無関心というか、寧ろわざではないかと勘繰ってしまうほど、無頓着なのだ。
孤児にとって、授業参観日ほど傷つく日はない。流星がそのプリントを丸めて屑かごにポイしてしまうのも、当然のことだった。
「それでね、お願いなんだけど。アタシが行くと、その、色々とアレでしょう?」
シラユキちゃんは自らを恥じ入るように呟いた。この「希望の箱庭」というコミュニティ以外で、自分のその性質が許容されるものではないのだと理解しているのだろう。ならばやるべきことは簡単だ。
「じゃ、そのオネエをお休みして行けばいいのでは?」
お父さんとして行けば、何も問題はないはずなのだ。
「それだとダメなの。みんなお母さんが来てくれるみたいなのよ」
「なるほどー。で、俺を呼んだことについては?」
お母さんが行かなくてはならない理由はわかった。だが、それだと俺が呼ばれた理由がわからない。
「なっちゃんほら、こないだ可愛い女の子になってたじゃない? だから参観日、流ちゃんのママになってほしいの」
ある意味予想通りの提案きたー。
「え。そ、そんなの、陽菜が行けばいいじゃん」
「それはダメよ、陽菜ちゃん、有名人だもの」
「そ、そうか……」
俺はなんとか断りの文句を言ってやろうと、考えるのだが……。
「流ちゃん、可哀想よね?」
「うぐぐ……」
そんなことを言われたら。
「わ、わたしのことはこれからマナちゃんって呼んでちょうだい……」
と、許諾するほかない。
「ウフフ、了解」
シラユキちゃんの笑みが、皮肉にしか聞こえてこない瞬間だった。