一章 ブルームーン(2)
視界が真っ暗だ。
人は本来、夜に眠る生き物であるという。
古代において、視界が真っ暗になって行動が困難になった際は、暫し眠って朝を待った。
二十一世紀の現代においてお先が真っ暗になったならば、永久の眠りに就かんとするだろう。
視界が真っ暗だ。否、この場合はお先が真っ暗、と言うべきか。
例え空が明々と晴れ渡っていようとも、俺が認めなければそれは冥々たる夜だ。即ち暗闇だ。
俺は夜が、というか暗闇が嫌いではない。
視界の一切を遮断され、見ることも見られることも叶わない。
自分のこの女々しい姿を見なくて済む、見られなくて済む。
自分のこの境遇を認めたくないからだ、認められたくないからだ。
そういった負の願望が、黒い渦にも似た、不気味な希望となって俺をさらに眠りへと誘う。その先の超えてはならない一線を踏み越えて——つまりは、自殺に踏み切ってしまったなら。
俺は両親に会えるのだろうか。
どうせ寝ても覚めても、常夜の人生だ。
人は夜に眠る生き物だ。もうずっと眠り続けているようなものだ。つまりはもう、死んでいることにも等しい。
何の希望もない生よりも、両親に会えるかもしれない希望のある死のほうがいい。
両親に会いたい。
この世界に繋がれた錆びついた鎖を断ち切って、それでもって自らをわなく。わななくこともなく。そして、両親に会うんだ。
足は次第に、そちらへ向かっていた。死の道だ。なのに足取りが軽い。
行く先がほんのり明るく、心がほっとする。明るい、明るい、死の道だ。
そして気づく。俺はやはり、暗闇よりも——
そのとき、後ろから微かに誰かの声が聞こえてきた。
聞き覚えのない声。でも、柔らかなシルクのような心地よさがある。
振り返るとそれは、光だった。しかも俺が目指す先の、朧げな明かりとは比べ物にならないほど鮮烈だ。
それはあたかも、俺の行くべきところはそっちではないと、諭すようだった。
声が聞こえる。
音像はぼやけており、まともな言語を成していないが、「こっちへおいで」と言っているように聞こえる。
その声は有無を言わさず、俺の意識を引っ張っていった——
◇◆◇
「おーい」
視界が明るい。
のそのそと顔を上げると眼前の窓から陽がかっと差し込み、視界を光で満たした。
どうやら本当に、寝てしまったようだった。
暗澹と机に突っ伏した後の記憶がとんとないことを考えると、俺がまどろみに意識を取り落とすまで幾らの時間もかからなかったらしい。
まどろみ、というだけあって眠りというのは実にまどろっこしい。
みとむない現実や、過去の記憶を、無慈悲に、まざまざしく見せつけてくる。ことに今回の夢は、雑駁としていて要領を得なかった。
いつもは、けたたましい目覚まし時計に機械的に起こされるものだが、今回はいつもと違っていた。もっと生々しい、死生観を問われるような寝起きだった。
そして確か、誰かの声に呼び起こされたような——
「おーい、生きてるー?」
前言は、否。生死を問われるような寝起きだ。
その気だるげな呼び声に、俺はびくっと肩を震わせてしまった。こと俺において下手に大声で起こされるよりも、よほど効果的な声音だ。
聞き覚えのあるその声の主は、机をはさんで俺の向かいに座っており、若干飾られた瞳が興味深げに俺の顔を覗き込んでいる。
一見すると今風の、可愛らしいきゃぴきゃぴ女学生。だが中身は、もろ年頃のくたびれたJKといった趣。
ポニーテールに結わえられた髪はほんのり明るい茶色を湛え、身なりはトコトン青春色。薄く塗られたルージュがちょっぴり大人びていて。その反面、口調はマジで疲れたOLを思わせる。
不思議とギャップ萌えを感じない……。おかしい、詐欺だ……。
「え……えと。お、お、大島……さん……」
持ち前の人見知りに寝起きも手伝って、なかなか爽やかに言葉が連なっていかない。まあ、なんなら寝起きじゃなくてもこんな感じだろう。水木先生以外と学校で話すこと自体が久しぶりなんだから。
大島さんは、胡乱げな眼差しで俺を見る。
「え? あたし、真島だけどー。真島あずさー」
大し……真島さんは自己紹介をもって、俺の発言を訂正した。
謝罪する。俺の場合、口よりも先に態度で示した。
机に額をぎゅうぎゅうと押し付けて、蚊の鳴くような声で訥々と。
「……ご、ごめんなさい……」
言い終えると少しの間があった。
当然か。名前を間違えるという失礼極まりないことをされたのだ。例えわざとではなかったとしても、こうして相手の誠意をはかるのは自然のことだった。
「べつにいーよ。ほらー、顔上げてー」
ややあって、真島さんの赦しを得る。
気持ち頭を持ち上げ、上目遣いに見るとそこには、真島さんの柔らかな微笑みがあった。恥ずかしくなった俺は、ふと視線を傍に外してしまう。彼女のメイクがあと少し薄ければ、きっと惚れてた。
俺はおずおずと姿勢を定位置に戻すと、最後にもう一度謝る。蚊の鳴くような声で。
「……ほんと、……ごめんなさいです……」
「もういいってー、気にしてないから」
うろ覚えだったとはいえ軽率だった。今後こういったことがないよう肝に銘じておくことにしよう。などと、勝手に誓いを立てる俺。
謝罪が終わると場が急にしんと静まり返った。
俺は所在無く視線を泳がせ、真島さんは携帯電話のディスプレイに集中している。
彼女の怪我のほうは如何ほどのものかと見てみると何のことはない、ただの擦過傷のようだった。さきほどまで足を引きずっていたとは思えないほどの軽傷ぶりに、俺ははたと疑問を抱く。
大した怪我でないのなら何故、ここに居座り続けているのかと。それはそのまま口をついて出た。
え? と疑問で返す真島さん。
おそらく、声が小さくて聞き取れなかったからではない。俺の声がさきほどとは比べ物にならないほど大きくて、鮮明に聞こえて逆にそれに驚いて、内容が頭に入ってこなかったが故に真島さんは問い返してきたのだろう。
かくいう俺が一番驚いている。水木先生や身内の人間に対するボリュームが、そのまま発声されたのだから。さきほどまでは蚊の鳴くような声だったのに。
真島さんはしばし面食らっていたが、ふと我に返ると、ふっと微笑みながら、
「で、なんだっけ?」とおどけて見せた。
今までずっと強張っていた俺の表情が、その一言、いや言動をきっかけに綻んでいく。
この人になら、真島さんになら、俺という無体な存在を受け入れてもらえるような。根拠のない思いが芽生えはじめていた。
もう先ほどの蚊の鳴くような声ではない。
「……えーっと、もう授業始まってるんじゃないかなー、と……」
が。蚊の鳴くような声ではないが、やはりどこかぎこちない声音ではあった。そう、蛾程度の成長と見よう。
「くす」と笑いを漏らす真島さん。しかし茶化すでなく、蒸し返すでなく、彼女は、俺の質問に応じるべく時計を見やる。
真島さんの視線を追うようにして俺も時計を確認すると、時刻はちょうど十時を回ったところだった。ホームルームはとうに終わり、二限目の後半に差し掛かっている頃合いであろうか。
真島さんがここにいるのは、明らかに異常ではないかと見える。
「そんなのー、サボりに決まってんじゃんー。それに今日授業無いよー」
悪びれもなく言いながら、椅子に腰かけたまま真島さんは絆創膏が貼られた左膝をくいくいと屈伸させて、得意げにこちらに見せつけてくる。彼女の膝がそれを繰り返すたび、端折られた短いスカートがひらりとはためいては、内に秘めた艶かしさを、ちらりと見せようとするではないか……!
どうやら怪我の方は、本当に大したことなさそうだった。
「そ、そうですか……!」
努めて俺はそちらを見ないようにする。気を紛らわすように辺りを見渡してみると、あることに気づいた。
「あれ? 水木先生は?」
校医として、常時ここに詰めているべき水木先生の姿がどこにもない。
教員用の椅子の背もたれには、先ほど水木先生が着ていたと思われる白衣が乱雑に掛けられていた。白衣がすぐに皺だらけになってしまうのはこれが原因か。
俺の疑問に大島さんは答える。
「センセーなら、職員室行ったよー。なちゅの参考書とか生徒手帳、忘れてきちゃったんだってー」
……なちゅ?
「へぇー……おっちょこちょいだなぁ先生。……それで……なちゅってのは——?」
……正直、水木先生の所在などこの際どうでもよくなっていた。
ふと真島さんが口にした『なちゅ』とは一体何なのか、そればかりが懸念される。
「イイでしょー! 深山那月だから、なちゅ!」
「え、えぇ……⁉︎」
真島さんにしては珍しい、快活な口ぶりと表情。それにつられてか、割と大きめの声で驚いてしまった。俺は今、ハツラツと戸惑っている。
「なーちゅ」
最早、からかうような笑顔で真島さんは得も言われぬ間抜けな発音を連呼している。傍からみればそれは、恋人同士が喋々喃々しているように映るかもしれない。しかし、どうしてだろう詰問されているようにも思えるのは。
それは次に続く、彼女の質問が教えてくれた。
「なんで保健室登校してるのー?」
その言葉に、さきほどまで弛緩していた筋肉がぴんと強張り、俺の表情を固くしていく。
攻撃に際して、内を護らんとして表面を緊張させるあの感覚にも近い。
……え、という蚊のような弱音が呼気とともに漏れる。
真島さんの声音は先と寸分違わない。だが、俺の本能はそれを攻撃として捉えたらしい。
思えば、その質問に対する答えを俺はまったく用意していなかった。
否。用意していなかったのではなくて、考えるのを放棄していただけだったのかもしれない。
教室が怖い。クラスメイトがたくさんいるから。
クラスメイトが怖い。俺、深山那月という存在を認めてくれないから。
……酷いことをされた。
クラスの男からは女にそうするように、乱暴をされそうになった。都合の良い雌扱いだった。怖かった。死んだ方がマシだと思った。
女子からは、男とも女とも扱われなかった。「私のカレシを誑かした! 死んじゃえ!」と言って謂れのない罪を着せられた。盛りのついた雌犬扱いだった。犬畜生扱いだった。怖かった。お互い死んだほうがマシだと思った。
そんなことがあって。俺が保健室にいるのは、そんな現実から目を背けたいからだが。
そもそもヤツらがちゃんと現実を見ていれば、深山那月の存在をちゃんと認識していれば、俺が現実から逃げることもなかった。
周りのヤツらが現実を見ないなら、俺だって現実なんて見ないさ、お互い様だろう。ひねくれ者だってお互い様だろう。ヤツらが俺を女とするなら、俺もヤツらをクラスメイトと認めない。クラスメイトじゃないヤツらと共に、学ぶことなど何もない。
そしてやって来たここ保健室は、俺にとって縁切り寺だった。理想郷だった。
でも、寺のすぐそばには墓があるように、ここが地獄の一丁目であることも認めざるを得なかった。
俺の理想と現実が、ここに集約される。
事ここに至って、我ここに至る。それが正答ではないだろうか。
俺が答えあぐねていると、真島さんは顎に手をあて、ふむと真剣に考えるような仕草をする。
「なんでだろー。こんなに可愛いのにー」
で、真島さんが何の気なしに確信めいた予想を口にする。
「は⁉︎」
俺の反応があまりにも露骨だったのだろう。真島さんは当たりを付けて、さらに深く追及せんとする。
「え? なになに? なちゅが可愛いことと何か関係あるの〜? ねぇ?」
最後の「ねぇ」は反則だと思った。語感と彼女の声音との相乗効果たるや、愛猫の「ご飯ちょうだい」というギミーにも通ずるところがあり、「はいはい、たんとめしあがれ〜」とかいう気持ちになってしまいそうだった。猫飼ったことないけど。
不承不承、俺は白状する。
「いや、主にそれが原因っていうか、それで色々あったっていうか、トラウマっていうか……。あと可愛くなんかないです!」
理由については、奥歯に物がはさまったような物言いになってしまったが、最後の否定だけは淀みなく言い切った。
まぁ予想どおりと言うか、真島さんは納得いっていない様子だ。
「なんでー? 男子たちみんな言ってたよー。なちゅが女の子だったらおいしくいただくのになーって。来なよー、教室」
聞きたくなかった、知りたくなかった、そんな事実。
実際、いただかれそうになったこともあるし。ファーストキスをいただかれそうになったし。
「それ聞かされて、なお臆せず教室に入れるほど俺倒錯してないんで!」
「えー? それだけ皆、なちゅに会いたいのかなーって、思ってたんだけど違うのかなー」
「違うでしょう……」
俺は忘れない。
高校に上がって、新しいクラスにお目見えした折の、男子連中のあの好色な目つきを俺は一生忘れられそうにない。本当は今すぐにでも忘却炉にポイしたい思い出ではあるが。
そして、入学当日に三人の男子生徒から交際を申し込まれ、彼らの真剣な表情に、俺も真剣で自刃して果てようかと思った。
真島さんは、今もって釈然としない様子だったが、この件に関しては俺に妥協すべきところはない。しばらくの気まずさの後、保健室の戸が開き水木先生が戻ってくる頃をもって、この話題はスパッと打ち切られた。
「遅くなってしまった、すまない。書類を持ってきたよ」
書類の束を両手に抱えた水木先生は、簡潔に詫びを入れるとそのまま自分のデスクまで進んで行き、深いため息とともに書類を机上に降ろした。参考書やプリントで築かれた山が、卓上に堂々とそびえ立っている。
とりあえず、水木先生にねぎらいの言葉をかけておく。
「お疲れ様でした。すごい量ですね」
「ああ、すごい量だ。ちゃんと持ち帰ってしっかりと目を通しておくんだぞ」
水木先生はそう言いながら額の汗を手でぬぐう。その流れか、細く艶めかしく動く五指が、乱れた前髪を掻きあげた。不覚にもその、絵になるような所作に目を奪われてしまった。
普段とは一風変わった表情の美しいのなんの。煌めく汗のなんと眩いことか。努力や汗とはてんで無縁の水木先生が、はじめて見せた魅力だった。これぞギャップ萌えである。
それに見惚れていたのは俺だけではなかったらしく、真島さんも水木先生を見て、ぽかんと口を開けて惚けている。
夢か現かがもたらした数秒間の静寂の後、真島さんは思い出したように口を開く。いや、とうに口は開いていたわけだが。
「センセーの髪、ほんとすごいよねー。なんで全然、傷まないのー?」
すると水木先生は誇らしげに、胸を張る。しかし残念ながら張ろうが、そこには突出したモノは無かった。
「そうだろう。今月だけでもう、三回は染めているぞ」
天の川のように流れる銀髪をたぐり寄せると、意味もなく横にふっと払う。キューティクル健在の髪が、その一本一本が爛然と光をほとばしらせ、やがて揺り戻しになった。
「いいなー。どこの薬、使ってるのー?」
「市販のものは使っていないよ。すべて手作だ」
「えー、嘘だー」
本当に。嘘のような話だ。
しかし水木先生が学校医だけでなく、一角の科学者としての肩書も有しているという事実が、先ほどの戯れ言めいた言い分をしっかりと裏付けしている。
「今度、キミの髪も染めてやろう」
「やったー! ありがとー、センセーっ!」
水木先生の申し出に、ぱぁっと喜ぶ真島さん。歓喜に見せる真島さんの陽のような笑顔が、在りし日の思い出と重なって見えた。
「深山クンもどうかね。私とお揃いの、銀髪にしてみるのは?」
「結構です」
悪魔のお誘いに、ぴしゃりとお断りを入れる。
だいたい頭髪の染色は校則により固く禁じられている。そして、それは教師とて例外ではないはずだ。それを自ら率先して犯していこうとは、俗に染まった生臭聖職者だった。
「むぅ。可愛くなるのに」
水木先生が珍しくごねる。なんかこれデジャヴ。
「センセー。そのくだり、もうやったよー」
その一番槍である真島さんがすかさず忠告を差しこんだ。
「おや? キミたち、いつの間に打ち解けあっていたのか?」
俄然ほくほくする水木先生だが、おそらく彼女が思っているほど、俺たちは打ち解けあっていないだろう。依然、裃を着たままだ。
「仲良くなったよー。なちゅ、って名前もつけたしー」
真島さんの言にあって俺の扱いは、人間というより、犬みたいに思える。まぁ、雌犬と罵られるよりか何倍もましだけど。一応、愛犬扱いだし?
真島さんの近況報告を聞いて、水木先生はいよいよ嬉しそうに微笑んだ。
「そうか。なちゅか、良い名前だな」
「でしょー?」
水木先生と真島さんとが、俺をよそに勝手に盛り上がっている。
女性同士、というところも要因にあるのだろう。彼女らの会話には、年齢間を超越した女子特有の何か特別な波長のようなものがあり、それは男子をもってしては犯すこと叶わぬ壁、であった。
ガールズトーク。そいつに加われないという事実こそが、俺が真正の男たる傍証と見つけたり。