一章 輪をかけて(完)
ベース、という言葉を聞いて、それが音楽バンドに関連性があるという前提があったとしたら何を想像するだろうか。まず本義である、低音を想像するが易いかと思う。昨今においてはオーディオ・ブームとありハイ、ミッド、ローなどの業界用語が市民権を得つつある。家電量販店などでヘッドホンを試聴しながら、「このヘッドホンの低音ヤバくね。ズンズン来るんですけど、マジ、ベースってるんですけど!」と唸る客もさぞ多かろう。いやオーディオにおいては、ベースよりもローと呼ぶことの方が多いか。とすると、その派生にしてベース・ギターの略称として広く用いられることとなった方の語釈が採用される。ベース・ギター——低音に重きが置かれたギターのことだ、ざっくり言うと。
要するに、音楽関連のベースといったら低音か、低音を用いた楽器を指すのが一般的とされているのである。
「ベースとな……——ベースボール、一塁ベース、二塁ベース、三塁ベース、ホームベース……。まさかお主、せいらを踏み台にするつもりかッ‼︎」
何を勘違いしたのか小蔵さんは、音楽愛好家では思いもよらないような解釈でもって、陽菜に詰問の言を放り投げた。ポークだった。
「ち、違いますけど……?」
いよいよよく分からなくなったらしい陽菜が戸惑いもって否定する。とはいえ、バンドのボーカルがメンバーを見捨ててソロデビューという事例はたくさんあるし、陽菜もそのような口なので耳が痛そうだ。
「そうじゃなくて楽器のことだよ、おじいちゃん」
孫同然のせいらさんが賺すと小蔵さんは再び目尻に笑い皺を作った。孫と祖父、というよりか飼い主と猫のような様子だニャン。見てるこっちも微笑ましくなってくるニャン。
「せいら、お前がベースをやるのか。バイオリンはどうした、やめてしまったのか?」
孫の飼う猫のその後を気遣うような声音で、小蔵さんはバイオリンの事情を問うた。せいらさんはちょっと気まずげに答える。
「やめてはいないけれど……、ちょっとブランク中」
「ブランク中とな……」
ブランク中というその言葉には、もうやめる寸前だというニュアンスが含まれていた。
ブランクは時間が解決してくれるものではない。ブランクを積み木で例えるなら、まだまだ高く積み重ねられるところへ知らず識らずのうち、三角のブロックを積み上げてしまうようなものだ。その三角のブランクは、時間が経ったとしてもそのままだ。
つまり、もう頭打ちなのだと見切りを付け、せいらさんは別種の積み木を遊ぼうとしているのかもしれない。最近は、例の音楽室でバイオリンの練習もしていないと水木先生は言った。どうやらブランクというのは本当みたいだ。
ブランクの脱出方法は、一つ一つ手探りで、その三角の修正点を探し出すこと。あるいは、いっそ崩して最初から積み上げること。研鑽とはそういうもの。
陽菜に一度、似たような返事を返されたことを思い出す。あれは俺が初めて女装をした日、陽菜にメイクを任せていた時のことだ。
「陽菜ってさ、MONoSTARS、辞めたの?」
「辞めた……。けど、……アイドルは辞めてないつもりよ」
陽菜のMONoSTARS脱退とはつまり、ブランクのようなものだ。そして陽奈は、その言葉に嘘をつかなかった。俺を巻き込み、せいらさんを巻き込み、新たにアイドル・バンドを始めようとしている。困難と挫折を経て、それでも、ちゃんと積み木を完成させようとしている。
だが、せいらさんは違う。過去のトラウマが仇となり、辛いことから逃げることが習慣化され、トラウマ故にそれを咎める者もいないときた。それは悪循環に他ならない。
そして小蔵さんは、それを理解しているのか、こうして物悲しげな表情をするのみ。同じハの字の眉でも、眉間には渋い皺が寄り、目尻には笑い皺などありはしない。
「せいらよ。また、あの頃に戻ってしまってはいないか?」
ふとその悲しげな表情が言うのは、故ありげな一言。思わず、陽菜が食いついた。
「あの頃?」
バンド仲間なら問題なかろう、と小蔵さんが包み隠さず陽菜の質問に答えようとしたその矢先。
「あ、そう言えば、私お使い頼まれてるんだった」
それを遮るようにせいらが声をあげた。皆の注意を引くようにオーバーな所作で自席を片付けると、ガタンと大げさに席を立つ。大好きな小蔵さんが淹れてくれた自慢のコーヒーはまだ、半分以上残っていた。
大好きな小蔵さんの入れてくれたコーヒーを残してしまうほど、ここに留まっていられない——その話を聞きたくなかったのだろう。
「それでは……先輩、また来週……」
「え、あ、うん」
最後に俺と陽菜にちょこんとお辞儀をすると、慌ただしく店を出ていく。ドアのスレイベルが物悲しげに鳴いた。
「お主らはせいらのこと、あまりよく知らんのか?」
せいらさんが去って、小蔵さんはいささか声のトーンを落として訊ねてきた。せいらさんがいなくなってテンションが下がったのか、せいらさんに聞かれてはマズイ話をする故なのかはわからない。
「せいらちゃんのお父様から大方は、聞いてますけど」
陽菜が答えた。先般のガラス絵の謝罪、およびせいらさんの人となりを知るべく、木戸氏の豪邸にいった際に事の経緯はだいたい聞いている。無論、そのことはせいらさんは知らないが。
「そうか。ならばせいらが小学生のころ、当時の担任に散々に言われ、悔し紛れに始めたバイオリンの、コンクールの折にワシとせいらが出会ったことは、もう把握しておろうな?」
細かい事情はさておき、全容は掴めた気がする。俺と少し境遇が似ているなぁとも思った。
「あの頃、というのは小蔵さんとせいらちゃんが初めて会った頃ということですか?」
「まぁ……そういうことじゃな」
小蔵さんはうべなうが少々煮え切らない様子だった。
「その頃のせいらちゃんは、どんな子でしたか?」
刑事、あるいは心理カウンセラーのような落ち着いた謂で質問を続ける陽菜に対し、加害者、あるいは重要参考人のような、おとおどした態度でそれに臨む小蔵さん。
「まぁ、そうじゃの。明るく、はなかったの」
「というと、暗かった?」
「いや、暗いってほどでもなかったかの。もともとは明るい子だったんじゃから」
そこで陽菜は少し間を置き、思案する時間とした。時間にして数秒、俺が欠伸を一回、瞬きを三回する間のことだった。
「小蔵さんはせいらちゃんがもともと、明るかったことを知っているようですけど、それは本人から聞いたので?」
「いや、そういうわけでは……」
「でしょうね。せいらちゃんは自分のことを、他人に言わない子です。あの時、担任の先生に自分の抱負を否定されてから」
「そう……じゃな」
小蔵さんの言葉が徐々に弱々しくなっていく。自身の発言に矛盾が生じてしまっていることに気づいたのだろうか。いや、もうとっくに気づいていたのかもしれない。
せいらが自分のことを他人に言わないのは、短い付き合いではあるが俺も思い当たる節がある。自らを否定する対象に過度に反応してしまうのは、昔、担任に自らを否定されたことを引きずっているのだと考えれば、なるほど納得が行く。
そして、そんな自らの弱みを、いくら親しいとはいえ小蔵さんにだって伝えるとは考えづらい。
「なのにあなたはそれを知っていた」
そう。小蔵さんは何故知っていたのか。
「別に……隠すつもりなんてなかったんじゃわい」
だいたい想像がつくといった顔の陽菜に、未だ状況が掴めていない俺に、小蔵さんは降参の意を示すように自白した。
「せいらから聞かずとも、せいらが昔明るかったことも、担任から手酷く言われて、性格まで変わってしまったこともすべて知っておるわい。何せその担任は、ワシの娘なんじゃからな」
その担任は小蔵さんの娘。つまり小蔵さんがその担任の父。
せいらさんの将来を潰した人の、父。
「では、どうしてあなたは、コンクールでせいらちゃんと接触したんですか?」
衝撃の事実を知って、なお平然として陽菜が質問を再開する。
「それは、そうするじゃろ、罪滅ぼしに」
「罪滅ぼし?」
おうむ返しをしたのは俺。誰の、何の罪を滅ぼそうとして、小蔵さんはそうしたのだろう。
「娘がしでかした罪じゃ。それを償うのは、父であるワシの務めと考えたゆえのことよ」
「だったら、その張本人である娘さんがそうすればいいだけのことではないのですか?」
陽菜のその言はごもっともだ。いくら担任の父が出張ってきたところで、せいらさんが受けた仕打ちが、和らぐことはない。本人をしてその否定が撤回されないことには、せいらさんの傷は癒えない。
「それは……無理じゃわい」
「「どうしてです?」」
俺と陽菜の声が重なった。俺は、失礼だがそれが出来ない小蔵さんの娘さんが、とても不謹慎に思えてならない。
人ひとりの将来を潰しておいて、謝罪にすら現れないとは何事だと思った。
俺は、両親を交通事故によって失った。人を庇うようにしてトラックにはねられたのだ。なのに葬式もその後も、庇われて命を救われたソイツは墓前はおろか、ただひとりの遺族である俺の前にも現れなかった。人の命を奪っておいて、人ひとりの将来を潰しておいて、謝罪にすら現れないとは何事だと思った。
そして今、そんな気持ちなのだ。
二人まとめての問いに、小蔵さんはしばらくおし黙ると、
「それは……」
自らも認めたくないであろうその一言を、一条の涙とともに、絞り出した。
「もう……この世にいないからじゃ」
——自殺。
せいらさんを否定した数日後、縄での首吊り自殺だったらしい。
天井に縄で、輪をかけて——
その、死の過程を想像し思わず皮膚が粟立つ。
たかが縄の輪っかごときが、人の命を容易く奪えるのだと俺は恐怖した。




